コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

34あとがきにかえて。さあ、コンテンポラリーアートの旅に出よ!

 僕はアーティストたちの「才能」が好きだ。

「才能フェチ」と言ってもいいぐらいだと思う。

AIが世界を管理しつくしたって、奇妙でミラクルな才能の人間が現れて、世界を変えていくと信じている。

 

インタビューしたり、原稿をかいたり、さまざまな企画、展覧会のキュレーションやプロデュースをやるのも「才能」を「見える化」したいという衝動からくるものだろう。

世界を旅し続けるのも、この世界のどこかで生まれた新しい才能、作品に出会って興奮したいがためである。

 

この「コンテンポラリーアート虎の巻」をしめくくる「あとがき」にかえて、書いておきたいことがある。

皆さんと共有しておきたい10のことである。

 

⚫️コンテンポラリーアートを学ぶ者の心得

1 コンテンポラリーアートとは、まだ評価の定まっていない、たった「今」のアートのことである。フレッシュなアートだ。 「わからない」かもしれないが、「コワイ」ものではない。魅力的なら、その冒険にでかけよう。

大切なことは、 「アートが好きだという初期衝動」。「感じよう」とするカラダをつくること。それはあなたを変えるだろう。


2 コンテンポラリーアートには、創る、見る、理解する、見せる、集める、売買する、などの「学ぶ」分野がある。アー トを学ぶことは、エンドレスだ。

ありがたいことに、フレッシュなアートは、次々に生まれてくる。好奇心を全開 にすれば、学び続けられる。


3 コンテンポラリーアートは、「問い」である。「問い」を創る「、問い」とつきあう「、問い」と格闘する「、問い」と旅する。 「問い」はなくならないが、体感によって開ける。

そして、「問い」は、アップデートされてゆく。それを楽しみたい。


4 コンテンポラリーアートには、さまざまな「アートの仕事」がある。アーティスト、ギャラリスト、批評家、研究者、 ライター、インタビュアー、アートブックのディレクター、キュレーター、アートプロデューサー、コレクターなど、 社会がアートを求めるにしたがって、これからますます増えていくだろう。
コンテンポラリーアートを学ぶことは、あなたの身を助けるにちがいない。


5 コンテンポラリーアートを学ぶことは、知識の積み重ねが必要だが、それだけでは進んで行けない。

アートには、 アートの思考法、ツボがある。自転車はコツをつかめば乗れるようになる。それと同じだ。
例えば、「メタ」と「次元」。さあ、学んでみよう。


6 コンテンポラリーアートを学んでゆくと、発見が多くなるだろう。そして、答えは1つでなくてよいのだと、気づ けるようになるだろう。思考のシフトができるようになるのだ。
1 番新しいアートと、古代のもの。日常的なものと、宇宙が同じに感じられる時が、来るだろう。


7 コンテンポラリーアートは、最初難しいと思っても、結局は、アーティストというニンゲンのイトナミである。 コンテンポラリーアートを学ぶということは、ニンゲンの面白さ、奇妙さ、可能性について学ぶことになる。


8 コンテンポラリーアートは、誰に対しても開かれているが、アートワールドという、独自の価値観による世界を つくっている。コンテンポラリーアートを学ぶことは、そのパスポートを手に入れることであり、旅し、住むこと ができるようになるということだ。


9 コンテンポラリーアートの世界は、この世を支配している「お金」とは別の「価値」でできているところがある。 コンテンポラリーアートを学ぶことは、この世に、「お金」では買えないものがある、ということ。パラドックス を教えてくれるだろう。


10 コンテンポラリーアートを学ぶことは、誰のためのものではない。

誰に言われてやることでもない。

自分の快楽、 自分の歓びのためのものだ。

フランスに、アール ド ヴィーヴルという言葉がある。例え最先端のコンテンポラリー アートの研究者を目指したとしても、生活をアートにすることを忘れてはならない。

 

僕は今まで、沢山のアーティストと接してきた。

そしてインタビュー、批評や作品集制作、展覧会、コミッションワークなどさまざまな形で、交わってきた。ギャラリーを自ら運営もし、プロモーションだけでなく、セールスにも力を注いできた。

沢山の魅力的な、可能性を内蔵した、若手アーティストがすぐに頭に浮かぶ

今あげた10のことは、彼らとの相互作用から生まれたものでもある。

 

この連載では次代を拓く若手アーティストについては、名和晃平や、G/P galleryの幾人かについては触れることができたが、他の特定のアーティストについてはあまり書いていない。深掘りした本は、機会をつくって、また別に書きたいと思っているからだ。

 

aatmアートアワードトーキョー丸ノ内から出てきたアーティストもアートワールドの前線で活躍しはじめていて、実にたのしみだ。

荒神明香とwah document南川憲二らとのユニット「目」は、ともにaatm出身だし、ニューヨークで活躍するヒョンギョンもまた第一回目である。

そして、もはや紙面の関係で、少しだけしか触れるスペースがないが、同時期に出てきたアーティスト、大庭大介について書いておきたい。

なぜなら大庭は、村上隆奈良美智ら95年組のグローバルな活躍を見ながら育ち、そしてコンテンポラリーアートにおける絵画の「不可能性」の中で赤裸々に格闘し、新たな道を拓こうとしている者だとはっきりと思われるからである(他にも村山悟郎や大山エンリコイサムなど優れたアーティストたちがいるが、ページ数の関係でここでは触れられない。残念無念!)。

大庭大介に触れることは、コンテンポラリーペインティングの未来について語ることにもなるだろう。

 

大庭は1981年 静岡県生まれ。2005年 京都造形芸術大学の総合造形を卒業し、07年には 東京藝術大学大学院美術研究科油画研究領域修了した。 

彼は偏光パール絵具を使ったペインティングでしられるが、その思考は、小さく絵画に限られたものではない。美術館でのグループショーはもちろんのこと、野心的な個展をSCAI THE BATHHOUSEで定期的に行ってきた。2009年「The Light Field -光の場-」や2012年「永劫の灰、是を辿り」。そして 2017年の個展も、視覚の問題を絵画史の「内/外」から捉えようとしていた。

 

ここからは、彼の個展を見たときに書いておいたメモを添付したい。その方が生々しくつたわるだろう。

 

⚫️

 アーティスト大庭大介の個展に行った。

彼とは彼が学部の時からの知り合いである。

彼はまだ30代だが、その活動や作品を、もう10年以上ずっと並走して観てきた。

 

彼の個展の最終日にギリギリ間に合うことができた。角度によって色が変わる特殊なパール絵の具を使った大型の平面作品群である。

 

直接的な感想をいえば、抜群によかった。

 

話にならないぐらい良いと思う。世界の絵画作品の中でも、群を抜いた素晴らしい作家、作品だと思う。断言したいが、彼の評価は国内的には、まだまだ低すぎる。
僕は過去2回の個展(magical.ARTROOMの時を含むと今回で4回)も観ているが、その中でも抜けていて、作家の実力、確信、将来性がはっきりと感じられる。


なぜ、そこまでおまえは断言できるのだという声が当然上がるだろう。そのことについてラフだが、考えをメモしておきたい。


大庭大介はまず表現のメディアとして平面に絞っている。初期にはオブジェやインスタレーションコンテンポラリーアートとしては当然のこと取り組んだが、彼はあえてそれらをやめ、「絵画」の可能性、再生を意図的に選択したことがまず重要だ。

そして、次に初期にやっていた「だまし絵」風に現代的な表象(たとえばスプラッタームービーやコマーシャルの表象)が見え隠れするキャラクターの力を借りた絵画の強度を獲得するストラテジーもやめた。桜の林というレプリゼンテーションもやめた。結果それは、アブストラクトとマテリアルによって平面の再生をこころみるという一見、後退戦的に見える選択となる。

 

現代絵画は、隘路にある。

現代絵画は美術史的に見れば、コンセプチャルアートとミニマリズムまでの過程で、そのスタイルの更新、可能性がほぼだし尽くされているにもかかわらず、アートマーケットの要請によって延命している。

世界のアートフェアはゾンビ化したポップアートで溢れているのだ。

その言い方が極端すぎるならば、現代絵画は時代性と無関係に存在し続けるようになったといってよい。

デュマスをみよ、サスナールをみよ、バゼリッツをみよ、ボレマンスをみよ。

それらは絵画の「可能性」を問うて提出されているというより、やはり見事な「絵画」としてうみだされるようになった。


大庭大介が様々な、「イリュージョン」生成にたよらないで絵画の再生を考えるということは、結果的には、「絵画」の外に出てしまう。

つまり、逸脱の場所を選ぶことになる。

これが大庭への過小評価につながる。つまり、仕方なく大庭を「光の画家」としてわかりやすく呼ぶ評価である。

しかし、この評価の仕方は、極論すれば間違いだ。


大庭大介がイリュージョンの排除によって獲得したことの第1は、絵画をメディアそのものとしてあつかうことになったということである。

わかりやすくいうとテクノロジーアートが最新のテクノロジーによって表現主体とは無関係に、新しいアートを獲得できることを例えにあげるとわかりやすい。

ポラロイドとシルクスクリーンのウォーホルも、ポアリングのポロックも、スキージのリヒターも、インスタントを選んでいるところが重要だ。切断とインスタント。新素材、新技術。これは極めて重要だ。


次にアブストラクトのこと。

大切なのは、アブストラクトのイリュージョンではない。僕はアブストラクトペインティング史に対する持論としては、3種類のアブストラクトがあると思っている。

 

1つはバウハウス集結組カンディンスキーやクレーのような宇宙言語開発としてのアブストラクト。点、線、面、次元、運動。

2つ目は、ポロックやニューマンら主体のどん詰まりの中から生まれたアブストラクト。ノイズしか映らないTVのようなもの。

そして3番目は1の発展形だが、ちょっと未来形で数学的なものだ。建築的、構造的といってよい。古くは霊能者のシステム絵画であり、昨今ならばカールステン・ニコライやラファエロ・ローゼン・タール、セシル・バルモント。数学的な構造そのものがエモーショナルな感情を生成する。


僕の持論はともあれ、一方、大庭大介の今回の絵画は、4種類あって、

1つはパールをスキージで、かつての中西夏之の絵画風に半円形に一発アクションしだもの。

2つ目が電動ゴマでつくったもので、ある意味、具体の金山明。

3つ目は卵に絵の具を入れ投げつけたもので具体の嶋本昭三

4つめが隕石の錆。

 

これらのサンプリングは、全てみごとなまでに確信犯的に成功していると思う。

日本のアートのグローバルの強みは、実は、西洋美術史のコンテキストからの切断、破裂、逸脱にあることを大庭は確信犯的に意識化し、その文脈と手法をみごとにサンプリングすることに成功しているのである。


しかし、ここまでならば大庭大介も試合巧者なサンプラーでしかないかもしれない。

重要なのは、大庭大介を新たなコンテキスト、つまり先に述べた3番めのアブストラクトのコンテキストにシフトできるかにかかっている。批評家・水野勝仁氏はインターフェイス論からラファエロ・ローゼンタールらを論じているが彼のような人が、絵画をインタフェースとしてとらえ大庭を論じたら面白いだろう。

また、セシル・バルモントのような、造形ではなく、構造から抽象をあつかう視点から大庭の作品のもつ可能性を議論しても面白いと思う。

 

ともあれ、絵画を絵画の良し悪しだけで評価する時代はとっくに終わっている。

今我々は、大庭大介という優れた、そして可能性が絶大なアーティストをめぐって、ポジティブな議論とアクションを行わればならないと痛感する。

 

⚫️

この文書は、大庭大介の個展を見た直後に、反射的に書いたものだが、このような作業を、ざまざまな作家のために、丁寧な千本ノックを行って行きたいと 言う自念をこめて、「あとがき」としたいと思う。

 

ここまで読んできてくれた人たちが、素晴らしいコンテンポラリーアートの冒険旅行に旅立たれることを祈る。

 

ボン・ボヤージュ!よい、旅を!