コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

31国際アートフェアは、どのように進化し続けているのか?我々は、どのような戦略をたてなくてはならないのか?

さて、いよいよアートフェアについて書きたいと思う。90年代以降、アートワールドの仕組みを根底から変えたのは、経済のグローバリゼーションに連動し、世界の主要都市で連鎖反応的に広がった国際アートフェアである。コンテンポラリーアートを、ビジネスの領域に変成させた、大転換の事件だと、はっきりと認識しなければならない。

 

極論すれば、今までならアートヒストリー程度を勉強していれば済んだスキルでは到底だめで、ピーター・ドラッガーなみのビジネス・ストラテジーやブランディングなど、包括的な戦略スキルなしには、やっていけなくなったことを意味する。

コンテンポラリーアートに、芸術経済学という明確な領域が発生したといってもいい。

 

現在、アートワールドは、ベニスビエンナーレのような「国際展」と、「アートフェア」を両輪にして価値生成が動いている。

この動きに対して、傍観者ではなくて、いかにプレイヤーとしてかかわるかが醍醐味となる。

それは、机上で経済学を勉強したり、本でデザイン史を勉強するのではなくて、会社やビジネスにおいて実践的に、リスクを負いながら活動したり、お客さんに訴求力あるデザインが出来るか、というぐらい異なったことなだ。「プレイヤー」と呼ぶのは、そのためだ。

試合にでない野球選手など、意味がないのと同じである。

 

キュレーションの章のところでも、まだ定式はないと書いたが、アートビジネスにおける定式もまだない。

いや、まだないというより、日々更新。開発されつづける毎日と言ってよい。開発しなくてはならないものになったのだ。

 

僕が初めてアートバーゼルに行ったのは、2002年ごろ。そこから毎年通うようになり、現在に至っている。ニューヨークのアートフェアであるアーモリーショー、ロンドンのフリーズアートフェアにも、毎年では無いにしても、よく通ってきた方だと思う。

始めのころはよく、知り合いのギャラリーから「後藤さんも、コレクションを始めるんですか?」とよくひやかされた。

しかし、僕の目的は別のところにあった。

 

そのあとすぐに僕は、京都造形芸大でアートプロデュース学科(ASP)を立ち上げ、学科長に就任することになるのだが、就任後に研究センターである「芸術編集センター」をつくって、活動の3つの柱を決めた。

一つはキュレーションにも通づるコンテンポラリーアートセオリーの研究とプロデュース(シンポジウムなどのイベントの運営。先端のテキストの翻訳と出版)、二つ目が鑑賞者教育。そして三つ目が、アートマーケット・リサーチであった。

流動的に動くグローバルアートマーケット。

それを知るために、世界のアートフェア巡りが始まったのだ。

また学科で独自に、ギャラリーARTZONEを京都の繁華街の中に作ったのも、コンテンポラリーアートのリアルな演習場が必要だと考えたからだ(僕が学科長をやめたあと、現在も学生による運営が続いている)。

 

世界のアートフェアに通い出した頃すでに、日本のコンテンポラリーアート・ギャラリーも数軒だが、出展をはたし活躍し出していた。

SCAIザ バスハウスや小山登美夫ギャラリーや、シュウゴアーツ、ギャラリー小柳、タカイシイギャラリーなどが、村上隆奈良美智杉本博司をブッシュしていた。

彼らは皆、日本の古美術商が発展した丁稚奉公的な世界と離脱した、新しいタイプのギャラリストたちであった。そして前後の日本の前衛美術とも違った、「同時代」のアートを売ることに挑戦した。

 

彼らがアートバーゼルなどに打って出ていなければ、日本のコンテンポラリーアーティストが、世界のコレクターやキュレーターと出会うことはなかっただろう。

その頃は今ほど、中国のコレクターやアーティストが今ほどは存在感を発揮してしなかったから、欧米のギャラリーも今ほどアジアのアートフェアに出展していなかった(ローカルだが国際的に活動を模索していたアートHKが買収され、バーゼル香港に改組される前の話だ)。欧米との接続をはかるには、バーゼルやニューヨーク(マイアミ)、ロンドン、パリのアートフェアに出展しなければならなかったのだ。

 

日本のコンテンポラリーアートギャラリーが、海外のアートフェアに出展しだしたのは、日本のアートマーケットが拡大せず、やむなく海外に岐路をみいださざるを得なかったところもあるし、ちょうどグローバルにアートマーケットが拡大したタイミングにも当たる、好機と重なった面もある。

 

しかし、国際的なアートフェアは、高い出展料を払えば、誰でも出れるというマーケットではない。基本的には「見本市」をモデルにスタートしてはいたが、資本主義の荒波のなかで、みごとに「プラットホーム」として進化しだしていた。

 

ここでまず、プラットホームという戦略が何か、そのことをまず理解しなければならないだろう。

オーガナイザーという、価値を取り仕切る胴元がいる。例えばアートバーゼルの事務局である。会場は通常は金や宝石の見本市なども行っていふメッセプラッツ。背景には、バーゼルを国際的にコンベンションシティにしたいというバーゼル市の思わくがある。そして世界の富裕層の資産管理を囲い込みたいスイスの銀行UBSの思わくがある。

メッセ会場。ここにギャラリー仕様のホワイトキューブ空間を作り、世界のギャラリーに向けて出展を募る。スペースは300余しかないから、当然、有力なものと、そうでないものの「淘汰」が行われることになる。

出展希望のギャラリーは、アプリケーションを提出しなければならない。これは、アートフェアでどのようなアーティストの作品を売ろうと計画するのか。アーティストのプロフィールやサイズ、値段などのポートフォリオの提出が、当然求められる。

また、ギャラリー自身のキャリア、活動歴、アートフェアへの出展歴、所属アーティスト一覧などが必要になる。もちろん全て英語である。

つまり、そのアーティストが世界のアートシーンでも話題足りうるか、高い値段でセールスされた実績があるのか、そのセレクションを提出せよ、ということだ。そして、ギャラリーが順調な経営状態にあり、国際的にセールスできるスキルを持ち、継続的にコレクターに対して信頼関係が形成できるかがチェックされるのだ。

 

どのような国際アートフェアであれ、出展すればよいというものではない。一流の店には、一流のコレクターもビギナーも来るが、三流店には一流のコレクターは決して来ない。

アートバーゼルは、正式なサテライトとしてはLISTEだけで、同時期に開催されるSCOPEなどは、便乗商売でしかない。厳しいことに、出展料やアプライの敷居が低いからと言って、間違ってSCOPEにでてしまうと、もうLISTEやアートバーゼルへの道は閉ざされてしまうのだ。このような、書かれていない暗黙の掟もある。

 

資金的にも後ろ盾なく、無名で国際的なセールス実績の無い若手アーティストを、同じく新参者の若いギャラリストが、世界で勝負することなど、できるだろうか?

どうみても簡単ではない。

 

おまけに、初期には単なる見本市や協同組合的な性格だったアートフェアは、セグメントされた戦略的プラットホームに変成し続けている。

ギャラリーは土産物屋的な「商店」ではなく、キュレーションの効いた「セレクトショップ」であることを求められ、胴元であるオーガナイザーは、さらにギャラリーの集まりをキュレーションする。

そのアートフェアに出展が認められるということは、世界の一流店として認められることであり、超注目のギャラリーであるというお墨付きをもらう事を意味する。

さらに重要なのは、アートフェアは入場無料ではないということだ。

 

世界のどの百貨店が、セレクトショップが「入場料」をとるだろうか。

国際アートフェアは、テナントビルのようなショップでありながら、同時に美術展である。これは従来の「常識」からすれは、矛盾に見えるかもしれない。

各ギャラリーが持つ顧客、コレクターをギャラリーに集めさせながら、しかし胴元はそのリストと入場料を徴収する。新しいさまざまな仕組みが、アートフェアのプラットホーム戦略として発明されるのだ。

 

プラットホーマーであるオーガナイザーが、ギャラリーの「淘汰」の次にしなければならないことは、出展ギャラリーがもつ魅力的なアーティストや作品を「ラインナップ化」「メニュー化」して、アートフェアのコンテンツとして、再編集することだ。わかりやすく言えば、それぞれのプロダクションに属しているタレントを再編集してAKBというユニットを作るようなものだ。これは、重要なブランディング、商品作りのプロセスである。

また、アートフェアのオーガナイザーは、アートワールドにヴィジョンを与え引っ張り、新規の顧客や、新たな価値形成(例えば、美学的なアートコレクションにとどまらない、投資的なアートコレクションをいかに行うかなどの)の「開拓」「開発」を行わなければならない。

 

前章で、フューチャーキュレーションについて書いたが、アートフェアの根幹である「プラットホーム」戦略、「セレクト」と「開発」のスキルこそが不可欠となるのである。

 

このようなアートフェアのプラットホーム戦略について描かれた本がなったので、僕は自分でリサーチし、考え、実践することにした。

 

それが2007年から東京の六本木で、共同で始めたオルタナティブなアートギャラリーmagical,artroomであった。開設当時の運営メンバーは5人。市原研太郎・岡田聡・後藤繁雄ヒロ杉山・吉井仁実であった(回廊後まもなく吉井が抜け、コレクターの岡田が中心となりコマーシャルギャラリーとして2008年に、恵比寿のNADiff a/p/a/r/tに移転。2010年に休廊)。ギャラリー業務は、芸術編集センターの研究員で、現在は自らislandを主催する伊藤悠が担当した。美大を出たばかりの若手アーティストばかりだったが、プレス、webはもちろん全てバイリンガルで発信。アーティストのポートフォリオをかねた機関誌スモールマガジンを発行し、海外にプロモーションするだけでなく、書店などでも販売した。

当時の世界のアートシーンは、加速化する資本主義の隙間に多様な表現が、まるでキノコのように発生する面白い時期だった。2007年にはニューヨークの辣腕ギャラリスト、ジェフリー・ダイチが主宰するDeitch Projects において日本の若手アーティストのグループショーである「After the Reality」が開催され、またニューヨークのMomaの分館であるPS1では2000年から5年に一度のアートショーGreater New Yorkが同時多発テロを挟んで開催されていたし、オルタナティブな新しさを帯びた表現がカオティックに、湧いてでいた。

今から振り返れば、リーマンショック前の、ユーフォリックな季節であった。

magical,artroomは、3年という短い期間に見えるが、それまでの日本のコンテンポラリーアート・ギャラリーの手法からすれば掟破りでクリエイティブな活動を他になく、精力的に実践した。

大庭大介、大田黒衣美、ヒョンギョン、ヤマタカアイなど多くのアーティストがmagicalから巣立ったことも大きな成果だが、なにより海外のアートフェアに積極的にアプライし出展したことは、評価されるべきだろう。

magicalは、アートバーゼルのサテライトであるLISTEに2回、ロンドンで始まったfreezeアートフェアに1回出展(サテライトであったZOOアートフェアにも)あと、ニューヨークのアーモリーショーにも一度出展した。

おそらくプロジェクトベースの日本のギャラリーが、これほど短期間に、国際アートフェアに出展したことは、かつてなかっただろう。

 

それまでギャラリーセールスの体験もなく、もちろん海外のアートフェア出展もしらない。アートコレクターのリストもない。無謀と言えば全く無謀だが、それ故に我々は誰よりも多くを学んだと思う。

 

ライナップの構成。プレゼンテーションの仕方、セールスのスキル。なにより重要だったのは、グローバル・アートマーケットの動向を肌で感じ、日本の同時代のアーティストをいかに接続できるのかという判断力、思考法だろう。 

僕は2008年からは、自身でコンテンポラリーアートとしての現代写真作品をメインで扱うG/Pgalleryを自ら主宰するようになり、magicalからは実質離脱したが、magical,artroomとしてLISTEに初出展したときの体験が、その後非常に役にたっている。

その後、パリ、アムステルダム、ベルリン、ロンドンなどのヨーロッパでのフォトアートフェア。台北シンガポールなどアジアの新興アートフェアなど、国際アートフェアに出展してきたが、今も工夫の毎日である。

 

ミッションやステートメントを明確に持つこと。

ポテンシャルあるアーティストをいかに発掘し、協働できるか。

アーティスト・ラインナップのメニュー化の作り方、ポートフォリオの作り方。

接続すべきコンテクスト、価値増幅のためのクリティック。

コレクターやメディアとの継続的な関係作り。

 

これらのスキルは皆、実践の中で取得したものだ。

 多くの日本のコンテンポラリーアートのギャラリーが、国際アートフェアという最前線で闘っているが、どのギャラリーも楽な試合などしているところは一軒もない。

グローバル経済の動向、ビジネスモデルの変化。これらに対応できなくなり、「新商品」の開発を怠ったギャラリーは、有名ギャラリーであれあっというまに、アートフェアの出展を取り消され、落とされる。

 

最後にアートワールドの変化について書いておこう。2017年のアートバーゼルは、僕が通い始めてから一番日本からのギャラリーが少ないアートフェアとなった。95年以降、日本のコンテンポラリーアートを欧米に接続させていたギャラリーが次々に落とされているのだ。

僕はギャラリーの苦労を肌身で知っているので、単純に批判するつもりはまるでない。しかし、なんらかの発明、変化が求められており、後手にまわっているのだ。今は僕らがmagical,artroomを始めたころと、全くシーンは変わっている。

 

リーマンショック以降に、時代のカーブを曲がるために、アクセルを踏んで曲がったのか、ブレーキを踏みながら曲がったのか、それぐらいの差が出ている。

 

リーマンの直前ともいうべき時に、メモしていたアートフェアレポート(備忘録)が出てきたので添付しておきたい。

 

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この稿を書いている2008年6月は、911からすでに7年を経て、911以降急激にあからさまとなった、ポリティカルであったり、ゲリラ的であった表現衝動は、沈静化しつつある。

今年2008春の、ニューヨークで開催されたホイットニー・ビエンナーレは、前回と打って変わって、クールな写真表現(アブストラクトフォトなど)やコンセプチュアリズム、インスタレイションが前面にあらわれ、潮目の変化を強く予感させるものだった。
この稿を僕は、アートバーゼルの帰りの空港でメモ書きしている。いみじくも今年のバーゼルは、アメリカの2007年のサブプライムの発覚、原油価格の高騰、オバマ民主党候補に選出されるなどの影響が、はっきり出て、アメリカからのコレクターが減ったアートフェアとなった。

もちろん、連日アートマーケットで配布される「業界紙アートニューズペーパー」は、堅調を強調していたが、例年のように、バーゼル、リステ、ヴォルタの3会場をまわっての肌での感覚から言えば、アートシーンは微妙な局面を迎えたようだ。

それはこの数年、今までならば、どのような作品であれ売れていた「アートバブル」が沈静化し始め、モダンペインティングへの回帰がはっきり見られるということだ。はっきりと、すでに価値づけられたものへ、コレクターの人心が帰ろうとしている、ということである。

典型的には、バーゼル直前に、ウォーホルが史上最高の価格(130億円)で落札されたこと(それに加えてラウシェンバーグが死んだことや、直近に、モダンペインターの最後の大物とも言うべきサイ・ツォンブリの大回顧展が今年控えている)こともあいまって、多くのギャラリーがここぞとばかりにウォーホルを前面に売りに出したことにあらわれる。

そして、もう一つの注目すべきことは、ドイツのコンテンポラリー・アーティスト、トーマス・ヒルシュホーンを、いくつものギャラリーがプッシュしているという異常事態だろう。

ヒルシュホーンは、ヨゼフ・ボイスを師と仰ぐ、社会運動系のアーティストであり、「なぜアートが必要か」、「アートは今、何をなすべきか」を強く打ち出し、政治的な動きを行ってきた(トニ・ネグリを借りるのはあまりに安直だが、最も反「帝国」的なアーティストと言ってよい)。

最も「反資本主義」の代表のような彼の作品が、アートマーケットに2~3年ほど前から出始めていたが、ここに来て、市場自体が彼を強く押し出すような動きすらある。折しも、バーゼルと機を合わせるように『ART REVIEW』誌は、ヒルシュホーンのインタビューを載せるだけではなく、異例にも10数ページにもおよぶ別冊をつけた特別号としたのである。

ここではヒルシュホーンの「戦略」については詳細を延べる余裕はないが、彼が挙げる「緊急に読むべき37冊の本」のラインナップを見るかぎり、新たなアートの戦略というより、バタイユフーコーなどを思想的なベースとし、ダダやボイスをミックスした折衷的なものにとどまっているとも言える。

しかしそんなことよりも、彼がアートの根元的なあり方を「WHY?」「TELL ME」と反復しつづけることを前面に押し出している点や、作品自体のクオリティや美学よりも、「関係の創出」に力点を置いていることを評価すべきだろう。
ヒルシュホーン自身も、作品自体は極度に「政治性」を露出しているにも関わらず、発言や「マップ」においては、慎重とも言えるほど時事的なステイトメントは避けている。彼が強調するのは実は、「アートの起源」にあるラディカリズムなのだと考えた方がよい。


ロスコ、ポロックやクーニング。あるいはポップアートのウォーホルが強く価値づけされるのは、「アブストラクト」という、「対象性なきもの=ダイレクトに政治性を感じさせないもの」。

あるいは、ウォーホルという、資本主義アートの「原点」を最大評価するという「ピュアリズム」である。

これをもちろん、「政治性からの逃避」として批判することはたやすいが、ヒルシュホーンをマーケットが評価しようとしていることと、ウォーホルが評価されていることの価値軸は、真反対に見え、実は同根ではないか。

ある種の揺り戻しとしても感じられる(あくまでマーケットを中心として見た時において)「アブストラクト」や「起源」「ピュアリズム」への志向が、単なる「反動」なのか、それとも深くアートシーンを動かすことになるのか。

そのこと自体も今、検討されなければならないだろう。

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リーマンショックは2008年の9月に起こった。その一年の間に世界の株価は、軒並み40%は暴落した。

世界同時不況への突入。

アートバーゼルのメインバンクのUBSも被害を被り、一時は2009年のフェアを危ぶむ声があったが開催された。期間中にプライベートジェットでバーゼルに来るVIPは姿を消し、あんなにも来ていたアメリカのコレクターの姿は消えた。

フェアの中身も大きく変わった。ヒルシュホーンを代表とする反芸術的な作品、ユーフォリックなオルタナティブな評価の定まっていないアーティストの作品は一切消えた。

残ったのは、価値の定まっているモダンマスターか、手頃な値段の、売りやすい作品ばかりである。

ギャラリーは、こぞって、出展料だけでも回収したいという本音が強く出た。ギャラリーにとり、事態は死活問題であり、新たな「開発」などは消えてしまった(これが10年後にひびいてしまう)のだ。

つまり、新たな価値開発ではなく、売れそうなものの再編、つまりは、新たなエスタブリッシュなメニューの再編である。

 

2009年のロンドンのフリーズアートフェアは、実に象徴的だった。オルタナティブなサテライトだったZOOアートフェアは中止。

資本主義の混乱は、決してオルタナティブに追い風にはならないのか。

 

サテライトは解体され、フリーズの本体が「魅力的なオルタナティブなメニュー」として、フェア時代を補強するものとして、キュレーションを再編。新たなセクションを作ったのであった。このような時は、必ず新参者のギャラリーには、そのギャラリー一押しのアーティストのワンマンショーをやらせることを条件に、出展させることになる。

このような出展形式は、ギャラリーにとり、一か八かのバクチ的な性格が強くなるし、ギャラリーのキュレーションの戦略を見せられなくなるので、オーガナイザーであるプラットフォーマーには利があっても、ギャラリーにとっては、イマイチおいしくないかもしれない。

とにかく見せられるアーティストの数は限られる。

日本は元々が、アートビジネスの規模が小さかったから、リーマンショックでギャラリーには大きな被害はなかったからかもしれないけれど、コレクターの心理は不況で、はっきりと冷えてしまった。

 

世界に打って出ようとしていた気運は、削がれてしまったし、しかし停滞している間にも、グローバル・アートマーケットは、すぐに再編し、さらに強い資本主義芸術を生み出しにとりかかってイノベーションされている。

このズレは痛かった。

アートフェアトーキョーや2010年からのG-TOKYOのような、国内マーケットの再編のこころみは行われたが、グローバルな積極策や、開発は停滞してしまった。

アジアのアートのイニシアティブも、シンガポールと香港が握り、トーキョーのポジションは、さらに低下してしまった。

 

僕がG/P galleryという、コンテンポラリーアートにおいても写真だけに特化したものにし、ひたすらにグローバルなセールス&プロモーションに比重を置いているのも、リーマンショック後の、日本のギャラリーを見ての危機感からであった。

 

アートフェアは、ますます貪欲な資本主義の装置になっていくだろう。

我々は、それと並走し、いかなるプレイが可能なのだろうか?

 

景気が回復したからといって、アートバブルは再来しないだろう。

不可能性の谷は深い。

しかし自らの条件のなかで、もっと出来ることがあるはずだ。

考えよ、そして実践せよ。

新たな突破点が必ずあるはずだ。

諦めてはならない。