コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

24来るべき写真。ミシェル・ウェルベック『地図と領土』を補助線として。

 写真は90年代後半から急速に、資本主義の運動性に最もヴィヴィッドに反応するコンテンポラリーアートの領域において、何よりラディカルな存在に浮上した。それは、高速に変容し続ける流体であって、批評が「いけどる」ことすら難しい。

スーザン・ソンタグロラン・バルトが生きていたら、なんと分析するだろうか。

 

「被写体」を撮影するシューティングという写真家の特権とされた行為は、オンライン世界に無限に増殖し続けるイメージの中に溶解してしまっているし、「真実」は簡単に暴けないほど完璧に捏造されるようになった。光学からデジタルへの世界へのシフトが決定的に事態をかえたのだ。

写真をつかまえて批評の審議にかけても、すでに変異して別のウィルスになってしまうのだ。

 

もはやかつてのような「写真論」を書くことは失効してしまったにちがいない。

シャーロット・コットンがある意味でカオスに満ちた『写真は魔術』を出したのもむべなるかな、である。まさに、写真ほどラディカルで(ある意味でいかがわしい)、エキサイティングな領域はないだ。

 

僕自身もコンテンポラリーアートにおいても、とりわけ写真には深くかかわってきた。

2008年には現代写真を扱うG/P galleryを設立し、写真の拡張・変容をより加速させることに共犯してきたし、これからもそうあり続けたいと思っている。

まさに日々写真である。

 

写真批評の失効は、今や写真自体が極めてクリティカルな力を発揮しているからだ、ともいえるかもしれない。つまり、前章で引用したロザリンド・クラウスのある種の予言が、現実のものとなったのだと思われるのである。

 

僕にとって、この20年ぐらいの間、最も刺激的な写真についての記述は、批評文ではなく、作家のインタビューや、評論家「外」の写真論であり、そこからインスパイアされてきた。時にすぐれた小説家は見事に「予言的特性」をいけどってきたし、有効な「補助線」たりうるのだ。

例をあげよう。

リチャード・パワーズの『舞踏会に向かう三人の農夫』やゼーバルトの『アウステルリッツ』である。また、日本ならば自らも写真を撮った安部公房の小説群が挙げられるだろう。そして今ここに書いておきたいのが、ミッシェル・ウエルベックの長編小説『地図と領土』(筑摩書房刊)なのだ。


ウエルベックこそ、「現代小説」の急先鋒である。

フランス現代小説において、デビュー以来これほどまでに、スキャンダルと名声にまみれている作家はいない。遺伝子科学をあつかった1998年の『素粒子』やセックスツーリズムをあつかった2001年の『プラットフォーム』などの作品は、賛否両論の嵐を引き起こしたが、その後も、2015年に発表したムスリムがフランス大統領となる未来世界を描いた『服従』は、発売日がシャルリー・エプド事件と同じ日にあたり、以前からイスラム批判を繰り返していたウエルベックは渦中の1つとなった(『服従』は皮肉にもフランスにおいて、60万部のベストセラーとなってしまう)。

 

そのウェルベックが、加速度的的に変容するアートワールドを舞台にしたのが『地図と領土』であった。

ウエルベックの小説には、『素粒子』のころから「写真の気配」が色濃く感じられた。描かれた風景が、ドイツのベッヒャー系の写真と共通する意識を感じさせ、予感はあったのだ。

そして『地図と領土』の登場である。

 

ジェド・マルタンという1976年生まれの「現代アーティスト」が70歳(2046年)で死ぬまでの物語を描きつつ、あからさまに「アートとしての現代写真」がクローズアップされた作品だったから、読み出してすぐに、とても驚いた(ちなみに本書は、ゴンクール賞を受賞し50万部を越すベストセラーとなった)。

ジェドは写真から始め、絵画へ回帰し、そして映像作家へとメディアアートをわたって行くのである。


書き出しはこうだ。

 

「ジェフ・クーンズは椅子から立ち上がったところだった。興奮のあまり両腕を突き出している。クーンズと向かい合って、白い革のクッションの上でやや体を屈めたダミアン・ハーストは、何か反対意見の述べようとしているらしかった…」

 

なんと挑発的な冒頭だろう
これはジェドがさまざまなクーンズとハーストの写真を使いながら「絵画」を描いているシーンへと続いていく。ウェルベックは、あきらかに凡百の美術評論家、アートセオリー研究以上にコンテンポラリーアートの「価値生成」を掌握し、この小説を書いている。ストーリーは、ぜひ本書をお読みいただくとして、とりあえず圧縮して「写真」のことについてメモしておきたい。

 

ジェドは写真から始め、絵画へ回帰し、そして映像作家へとメディアアートをわたって行く。ウェルベックはアート資本主義のシステムを描くだけでなく、どのようなコンセプト、方法論で作品をつくれば「価値生成」できるのかを見事に書ききるのである。写真の重要性は、小説全編にあふれている。


①ジェドが美大時代に祖父の遺品であるリンホフカメラで撮影した「工業製品」シリーズ
ミシュランの地図をスキャニングし、デジタルカメラで撮った作品シリーズ(個展タイトルは、「地図は領土よりも興味深い」)
③写真をベースにしてつくられた絵画。ポートレート・ペインティングシリーズ(クーンズ&ハーストもこの1枚。小説の中に登場するウェルベック自身のを描いたポートレートもこれにふくまれる)
④これはジェドが撮影したわけではないが「ウェルベックの惨殺現場」を撮影した警察による写真(死人の肉体が「まるでポロックみたい」にちらばっている)
⑤ジェド最晩年(30年にわたり)につくられたビデオ作品(多重露光の独自ソフトを使い、日々出逢った風景や植物)、パソコンなどの製品や人形が硫酸で溶けて行くカット。そして自分が撮った過去の写真プリントが朽ち果てていく。それが多重露光の植物の中に溶けて行く)。


ジェドはアートマーケットで大成功する。彼は何億円もの金を手に入れ、そして死んだ祖母が遺した屋敷と広大なエリアを買いとり、まるで奇人としても知られた富豪ハワード・ヒューズマルセル・デュシャンのように世捨人として生きるのだ…。

 

ウエルベックは、この小説において「工業製品」を撮影した「退屈な(デッドパン)」な写真がコンテンポラリーアートとして扱われること(ベッヒヤースクールの教え)や、ミシュランの地図のグラフィックを撮影してコンテンポラリーアート化すること、絵画が写真を使って価値生成をすること、多重レイヤーの動画など、どんな戦略の選択によって写真がアートたりうるかについて、見事に抽出している。

 写真の本質は鏡であり無である。それ故にストラテジー次第で、いかようにも価値生成ができる魔力をもっている。まさにウエルベックは、写真における変換の魔法を知っているのだ。

 

ウエルベックは小説家ではあるが、小説『ランサローテ島』では、すでに写真も発表したこともあった。僕も今まで、パリでの個展や、チューリッヒでのアートフェスティバルであるMANIFESTAに彼が出品していた作品にであう機会もあった。

アーティストとしてのウエルベック、についてのレビューは未見だが、それを見る限りにおいて、彼の写真作品はもっと騒がれてもよいものだと思う。

写真とコンテンポラリーアートの課題についての戦略的な思考の賜物だからだ。

 

ウエルベックの小説は、『素粒子』の時もそうであったが、ある種の「未来小説」として書かれている。この『地図と領土』も分析でなく、すぐれた「予見」にみちていて、聞きかじりの「絵空事」などではなく、極めて実践的、リアルである。

 

『地図と領土』を読んだ時、この小説を補助線として写真展を企画・キュレーションしたいと考えた。 追記になるが、その報告を書いておきたい。

 

僕が運営するG/P Galleryは、グローバルに活躍する作家を育成・プロモーションすることをミッションとするものだが、「現代アートとしての写真家」が幾人も所属している。

 写真を拡張するラディカルなプロジェクトをいくつも進めている。その1つである「漂流」は、横田大輔、川島崇志、赤石隆明という30代前半の若手アーティスト・ユニットだ。

なかでも横田大輔はここ数年、海外ではいくつも賞をとり、高い評価を得ており、アムステルダムのfoam写真美術館で個展も行った俊英である。

彼らのような才能ある「現代写真家」たちに、予見に満ちたウエルベックの『地図と領土』を読ませ、新作を作ったらどんなことになるのだろう?

 その成果が2014年9月にG/P+g3/galleryで開催された「漂流 on the flow──ミシェル・ウエルベック『地図と領土』と写真と──」展であった。

 

赤石隆明は地図(フローチャート)を撮影し、アート作品をつくることを、横田大輔は、全てが溶解し合った廃墟のような巨大な出力による写真立体作品(Matter)を発表した。

川島崇志は、この小説に出てくる写真の技法を全て試み、その上で、ラストに出てくる「まだ存在しない」技法による作品をつくることに挑戦した(その作品がその後、『地図と領土』の文庫版の表紙を飾ることになったのは、なんという宿命だろう!)。

 

川島崇志は、アントニオ・タブッキゼーバルトらのような、断片的な物語を駆使する小説手法にインスパイアされた写真作家であり、ちょうど3・11東日本大震災というカタストロフを契機とするシリーズを制作中であった。川島はウエルベックにより提起された技法を徹底的に検証し、自らの作品をつくった。  

アートフェア・代官山フォトフェアで行ったシンポジウムになおいて、訳者でありフランス文学者の野崎歓氏をおまねきし、本展の内容を3人のアーティストたちとシンポジウムを行った時、野崎氏がとても驚かれていたのが今も忘れられない。  

 

僕も、チャンスがあればいつの日か、「来るべき写真」についてウエルベック本人と語り合ってみたいと、密かに願っている。