コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

20いま、アブストラクションの可能性について

タイトルからして、なんと仰々しく聞こえることだろうか。もうこのような「構え」自体がコンテンポラリーアートにおいて、とっくに失効していると本音では思っているくせに、またそのように提起するのは、実はどうか。カールステンなら、後藤ご苦労さんと笑われるだろう。

 

しかし相変わらず、アブストラクトをめぐる表現についてはリテラシーが定まっておらず、オーディエンスのみならず、美術大学で学んでいる者さえ(者のほうがかな)対応が曖昧だ。

現在、圧倒的に評価(プライスも含めて)の高いポロック、デ・クーニング、ニューマンを明確に位置付けたのは美術評論家クレメンス・グリーンバーグである。彼とアーティストとの相乗効果がアートシーンを形成したのは間違いない。彼の論考である「モダニズムの絵画」は、随分と批判の憂き目をあったとはいえ、彼の炯眼を無視することはできないと僕は思う。

彼はマルクス主義的な視点の批評軸と、文芸に対する豊かな洞察(カフカパウル・ツェランの翻訳書もある)を持っていたので、アブストラクト表現が生まれてきた歴史的経緯を、広い視点で掴もうとする。一つは音楽のメディウムから「純粋性」を、そしてキュビズムと3次元イリュージョンの限界からアブストラクトへのコンテクストをもってくる。誠実な論の展開だ。

しかし確かに、今読むと、今さらという感は否めない。カールステンではないが、僕らは今なら4D以上の、高次元のベクトルからコンテンポラリーアートについてアプローチするのがあたりまえだからだ。

 

とわいえ、共感できる点もある。彼がすっぱりと絵画の内容主義的な歴史や「作家の思い」などと、アブストラクト・ペインティングの意義を切断していることである。グリーンバーグは「さらに新たなるラオコオンに向かって」と題した論考で、でこう書く。

 

アヴァンギャルドの絵画や彫刻はアヴァンギャルドの詩よりはるかに急進的な純粋性を獲得したと言われている。絵画と彫刻のほうが、より完全に機能だけのものになることができる。機能本位の建築や機械のように、外観と機能が一致するのである。絵画や彫像は、それが生み出す視覚的な感覚の中で燃え尽きる。それと結びつけたり、それについて考えたりするものは一切なくて、ただ感じるものだけがある。純粋詩は無限の暗示を求め、純粋な造形芸術は最少限度を求める。もし詩が、ヴァレリーの主張するように詩の感動を生み出す機械であるならば、絵画と彫像は「造形的光景」の感動を生み出す機械である。純粋に造形的、または抽象的に質の高い芸術作品だけが価値あるものである」

 

論旨は「エフェクト主義」と上げ足をとりたくなるほど痛快、明快。ミニマリズムすら予言している。おまけに唯物史観的なな立場から、抽象表現へのシフトは歴史的必然、とまで考えているのだから、ポストモダニズムから当然目の敵にされる。

しかし、現在のコンピュータテクノロジー、デジタルデバイスコンテンポラリーアートを牽引する事態において、グリーンバーグの断言は的確だし予見があると僕は思う。

また、グリーンバーグは、「ペインタリーなアブストラクト」がキュビズムの旧弊を引きずっていることからくる限界や、現物を貼り付けてしまうコラージュが絵画の3Dイリュージョニズムの矛盾から発生した分裂であることを、丁寧に、そして的確に指摘していた(コラージュ論はヒントからあり、再読に値する)。面白いことに、抽象表現主義の擁護者と思われているグリーンバーグが、それを「ごた混ぜ(ジャンブル)と批判的にあつかっていることである。

そして僕が実に示唆的だと思うのは、色と場について早くに指摘していることだ。1955/58年に書いた「アメリカ型絵画」と題した論考で

 

「最も新しく、また皮肉なのは、ニューマンとロスコが、キュビズムに由来したり、あるいはどんな仕方にせよキュビズムに関係する直線性を拒否していることである」

 

と書き、直線性を容認したモンドリアンや他のペインタリー(美術史家ヴェルフリンが使ったマレーリッシュというドイツ語を翻訳してグリーンバーグはこう呼んでいる)な線と区別する。彼が抽象表現主義を超越するものとしてニューマン、ロスコ、スティルに見出した評価点は2つ。「色彩と開放性」という言葉を使っている。そしてなにより大切なのはニューマンの絵画を、枠の中で生成する「イーゼル絵画」から免れて、「ついには、「場(フィールド)」と呼ばれねばならない」と明記していることだ。

主体が表現するのではなく、場が表現するというヴィジョン!

グリーンバーグが使った「カラーフィールド・ペインティング」という名前はとても居心地の悪いネーミングだったが、アブストラクト・ペインティングを「場(フィールド)」というコンセプトでくくった人は、彼の前にはいない。大概は、線による造形や絵の具のマテリアルというペインタリーな世界に足を引っ張られたままだからである。

話は飛躍して聞こえるかもしれないが、現在、コンテンポラリー・フォトアートがデジタル化により、マテリアルの拘束や絵画史の桎梏を切断する「純粋性」の好機を迎えている時に、グリーンバーグの視点は復活する。アブストラクト・フォトなどのデジタル表現は、アブストラクト・ペインティングから全く離脱する。カールステン・ニコライなどはそのかっこうな事例だ。

 

グリーンバーグは大胆に予見している。1962/69年の論考「抽象表現主義以後」において

 

「これら三人(ニューマン、ロスコ、スティル)の画家全員の芸術において達成された究極の成果は、色彩の強度以上のものとして記述されなければならない。むしろそれは殆ど文字通りの開放性の効果であり、それによって創造がなされている最中には、その開放性が色彩を包含し吸収してしまう。開放性は、絵画芸術においてのみならず——この時代に馴染んでしまった眼を最も活気づけると思われる質である。ここでは簡単に説明するに留めて、私は読者に自分で確かめてもらうことにする。危険を承知で言うのだが、ニューマン、ロスコ、スティルの絵画における新しい開放性が、近い将来の高度な絵画芸術にとって唯一の方向への道を示していると私は考えている、と述べるだけで良しとしよう」

 

グリーンバーグがたどり着いた地点は、僕にはもはやペインティングの領域を突破してしまったように見える。「新しい開放性」は、「純粋性」へ向かうアブストラクト・ペインティングすらも突破してしまうのだ。唯物論的な彼の宿命としての筆は、彼にこう書かしめてしまうのだ。

 

「芸術において価値もしくは質の究極の源泉とは何であろうか。そこから導き出された解答はこうであるように思われる。すなわち技量でも訓練でもないし、制作や実作に関係したその他のいかなるものでもなくて、唯一、構想(コンセプション)だけであると」

 

このテキストを書いたのは1962年であり、そして69年に改稿されている。もちろんグリーンバーグは抽象表現主義の凋落やポップアートの台頭、コンセプチュアル・アートの出現を見ていた。彼は1994年まで生きたし(85歳)、後期の批評については未見なので彼がコンセプチュアル・アート以降どのような展開を見せたかはわからないし、実のところあまり興味もない。アートワールドの野蛮な動向は、精緻な批評家を乗り越えてしまった。しかも彼の「開放性」や「コンセプション」という「到達点」は、もはやモダニズムをこえた地点にある。予見と限界とがここにある。

 

さて、ここでさらに別の事例を出してアブストラクト・ペインティングあるいは、アブストラクションの可能性とあ再編についてさらに「相対化」して考えてみよう。

 

 ゲルハルト・リヒターのことだ。

 

リヒターは1962年なカールステンと同じく旧東ドイツ生まれで1961年に西ドイツに移住した。言わずもがな。現在のアートワールドの頂点にいる存在であるが、古典的な意味での「巨匠」ではない。彼の「絵画」は、フォト・ペインティングやアブストラクト・ペインティング、具象画、ガラス作品、写真作品など多くの「系」が錯綜してエコロジーが形成さるれている。それを多くの批評家は、作為的で戦略的な「メタアート」として分析したが、リヒター自身はそれを否定・撹乱する言動をおこなってきた(その言説の歴史のドキュメントとして彼のインタビューを編集して作られた『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』は必読である)。しかし、興味深いのは、リヒターがアートに対してシニカルなのではなく、常に批評家たちの意味づけの拘束を振り払って、可能性を探し出そうとしていることだ。美術史家ベンジャミン・ブクローとの対話は殆ど喧嘩である。

 

ベンジャミン・ブクロー「すべてがやりつくされた現在において、芸術家は美術史の模倣として存在するしかないのに。」

リヒター「さあね。べつにそうは思わない。」

 

こんな調子である。ブクローはリヒターをひたすら挑発して「アブストラクト・ペインティングは、絵画の内容を否定して、絵画という事実だけを示しているのではなく、現代の表現主義を皮肉って、パラフレーズしているのでもないわけ?」とつっこむ。リヒターは、いったいなんということをききんだ!と怒る。

この対話であきらかにされるのは、ブクローのポストモダニズムからの視点が、まるでリヒターと噛み合わないということ。しかしそれによってリヒターが不可能性の隘路にある絵画において、ブラックホールのような裂け目、まさに分裂生成として出現しているという事実である。リヒターは対話のラストでこう言う。

 

「つまり絵画を通じて僕がしようとしているのは、ほかでもないもっとも異質なもの、もっとも矛盾に満ちたものどうしを、できるだけ自由で活発に生きられるように、結びつけようとしているわけだ。天国ではないんだ。」

 

彼のアブストラクト・ペインティングは、多様な技法が使われているがその1つに、絵の具をスキージで引っ掻いて、元の画面を破壊(別のレイヤー化するといったほうが良いけれど)するものがある。この行為はアブストラクトといえどペインタリーに陥らはがちなアブストラクト・ペインティングを「寸止め」する処置として、非美学化するために導入された技法に見える。リヒターはブクローが指摘するように20世紀美術を相対化しインデックス化し、絵画制作をしていないといいながら、実際はその選択を的確に行なっていると思われる。彼は東側からタイムラグをもって急速に、非リニア的に西側のアートワールド、アートヒストリーに参入したのだからら、人一倍の相対化する視点を獲得しているのだ。かれが画家のロバート・ライマンを評価するのは、「彼の作品がはじめて「無」を表現していたから。僕の立場に近かった。」からであり、また、一番好きなアーティストとしてアンディ・ウォーホルをあげるところも、彼の確信犯ぶりがよく分かる。ロバート・ストアに対してこう告白している。

 

「拭き取るというむしろ機械的な手段をみいだせてラッキーでした。その点、私はウォーホルに恩がありますね。彼は機械的なものを正当化してくれました。どうやるかみせてくれた。除去は仕事をするなかでは普通のことですが、ウォーホルは細部を消す現代的な方法を私に見せてくれた。少なくともその可能性が有効であると確信させてくれたのです。彼はシルクスクリーンと写真でおこない、私は機械的な拭き取りでおこないました。それは私を非常に自由にしてくれました。」

 

リヒターにおいても絵画は、何かを再現する場ではない。それが具象画であったとしても。そしてとりわけアブストラクト・ペインティングは、彼の活発現実」を表現しているという。それはグリーンバーグが指摘したような3Dイリュージョンを活用する絵画、つまり物語や参照項を喚起する絵画ではないという意味で「現実」そのもの、つまり生々しい分裂生成として出現するということ。ストアが「つまりアブストラクト・ペインティングのなかにイメージの連想や暗示を読む込むのは許すが、具体的な図像が見えてはならないのですね。」という質問に、リヒターはリラックスしてこう答えている。

 

「絵画をおもしろいと思うのは、そこに見知ったなにかに似たものを探すからに他なりません。なにかをみて、頭のなかのなにかをくらべ、なんに関連しているかをみいだそうとする。、、、マレーヴィチだろうがライマンだろうが同じです。そういうふうにしかみるほかない。、、絵をみる行為はどのように機能するかにこだわりたかっただけです。、、ほとんどの画家はそれを回避しようとしてきました。でもこのメカニズムを回避することはできない」

 

矛盾、やはりリヒターは1つの矛盾である。アブストラクトを脳がイリュージョンを認知することに委ねようとするのだから。これはグリーンバーグがニューマンについて語ったこととは真逆だ。しかし、リヒターはニューマンを尊敬しているのだから。リヒターのアブストラクト・ペインティングへの望みは、アブストラクト・ペインティングを見てくれということに尽きるだろう。

 

さて、最後にアブストラクト・ペインティングの力の生成について語っておきたい。グリーンバーグはそっけなく「ただ感じるものがある」と言い、リヒターにおいては矛盾、分裂としての「現実」だった。ジル・ドゥルーズは前にあげた『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』の中で、ベーコンが「図表(ダイアグラム)」と呼ぶものについて分析している。

 

「偶然の痕跡を残すこと(軌跡—線)、場所や帯域を洗浄し、一掃し、あるいは拭うこと(染み—色彩)、いろんな角度、速度で、絵の具をなげつけること。」

 

すなわちダイアグラムとは「画布の上、具象的蓋然的前提を襲ったカタストロフィーのようなもの」なのだ。これらは「意味を無にする軌跡」だ。「画家は、カタストロフィーを通過し、カオスを抱擁し、そから出ようと試みる」。ドゥルーズが提示する「来るべき絵画」の方向は3つ。

 

①抽象   ドゥルーズによれば、カンディンスキーのように「抽象絵画は、ダイアグラムをコードによって置き換えた。このコードは、手動的という意味ではなく、数を数える指という意味で「デジタル」である。、、」。コードと光学の力としての抽象。

②抽象表現主義あるいはアンフォルメル芸術とよばれてきたもの  「深淵またはカオスが、最大限に展開」さるたもの。「もはや形態の変形ではなく、物質の解体によって、物質の曲線や顆粒が与えられる。したがって絵画がカタストロフィー—絵画になるのと、ダイアグラム—絵画になるのとは同時なのだ」。内的ヴィジョンではなく、絵の全面を覆う手動的能力の延長としての「オール・オーヴァー」。

③これがベーコンにあたるもので、輪郭を救出しつつ、カタストロフィーから出る。「内部に沈ませるのではなく、外部にだす」。神経系への直接的な作用を捕える方法。「抽象絵画のように光学的ではなく、アクション・ペインティングのようにも手動的でない」とドゥルーズは言う。

 

ドゥルーズからすれば、絵画的強度を得たいならば、宇宙言語の再構築としてのアブストラクトも、ポロックからリヒターにいたる視覚的主体な放棄、消滅(カオスあるいは無)させるアブストラクトも中途半端だということだろうか。

 

しかし、現時点から再編的に見ると、グリーンバーグが気づいた「場(フィールド)」とドゥルーズ—ベーコンのダイアグラムは、全く別の文脈ながら、重なるように思われる。つまり絵画的強度を出すためにのベーコンにおける歪形ではない、アブストラクトな強度の生成術である。

しかし、これはもはやアブストラクト・ペインティングの可能性にとどまる話では毛頭ない。

神経系への直撃、時間的な連続性(動画、アニメイションなど)などもふくめ、やはり、カールステン・ニコライらが切り開く領域を指標にすべきだろう。

 

これらの事は簡単に結論づけられはしない。

さらなる宿題にして、アブストラクト・ジャーニーに出かけたい!