コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

19アブストラクト・ジャーニーへの旅立ち。イントロダクション。

そして雲はゆく。水平線の彼方、平行にならび、浮かび、動いてゆく。海は青く、黒く小さなさざ波を煌めかせている。終わることのない反復が、終わることのない快楽を生む。海と空が生み出すポリフォニーフラクタルな構成が、脳とシンクロナイズしているのを強く感じる。アブストラクトなものが、ダイレクトに快感をよぶのだ。これは、とても音楽に似た快楽だ。

偶景。

目の前に広がるバスクのコンチャ湾の秋は、雨が多いのだが、今日は、奇跡のように晴れ、世界は惜しげなくその美しさを披露していた。

僕はずっと空と雲が生み出すアブストラクトに魅了され続けている。

世界の旅の途上、立ち止まっては、その力がどこからくるのか、あてどない思考を楽しんできた。

 

 空も海も。世界はリアルであり、かつアブストラクトだ。アブストラクトが難解だというのは、人間の事情に過ぎず、世界はそこにあるだけ。

 

僕は子供の頃から、アブストラクト・ペインティングに魅かれてきた。1960年代中頃の大阪。小学校の担任の先生は、たまたま具体美術協会の周辺にいる人で(雑誌『きりん』の同人)、児童教育と実験芸術を結びつけることに積極的だった。そのため授業は詩と創作にあふれていて、僕にとって絵画というものは、最初から前提のないものとして体験されることになった。だから当然ながら、クレーやポロックを知った時も、とても親しく感じた。

「大人になる」につれ、美術史の中での絵画の隘路を感じるようになりはしたが、本音のところでは、絵画の快楽、とりわけアブストラクトの快楽を今も、身体では、はっきりと肯定しているのだ。

 

歴史の後に来るものは、つねにシニカルな境遇に立たされるものだ。無垢でいたくとも、周りもそれをゆるしてくれない。

子供の絵が(障害者の絵も)、強い強度を帯びるのは、ロジカルな拘束や抑圧が無いからだろう。だからこそ次元を超えた運動が出来るにちがいない。

 

アブストラクトの魅力をここまで「不自由」にしているのは誰なのだ?

 

僕には夢がある。それは世界中の美術館を旅して周って、アブストラクト・ペインティングだけの美術紀行本をかくことだ(タイトルも勝手に考えていて、『アブストラクト・ジャーニー』という)。

ふりかえってみれば、すでに随分と沢山の「アブストラクト・ジャーニー」をしてきた。

 

ニューヨークからロンドンに巡回してきたポロックの大回顧展を見れたことは忘れられないし(絵の中に落ちていくような没入感を味わうことができた)、初期のイカした作品があるベニスのグッゲンハイム美術館は、ベニスビエンナーレのたびに必ず行く(僕はベニスのグッゲンハイム美術館が好きで、必ずアカデミアからサルーテあたりに宿をとるぐらいである。今年の夏はそこでマーク・トビーの回顧展をみた。ホワイト・ペインティングは実にチャーミングだった)。他にもベルンのクレーセンターや、チューリッヒのクンストハウスにあるジャン・アルプや妻のゾフィー・トイバー・アルプ。ワシントンDCにあるナショナルギャラリーにあるマーク・ロスコもどうしても見たくてわざわざ行った。なぜならロスコは画集では絶対に分からないからだ(黒いロスコを印刷することなんて不可能)。案の定、薄暗い展示室に行ってみたら光の反射具合で、「地」と「図」が反転して体感された。そのあと、別の展示室に並んだ、抽象表現主義からステラ、ジョーンズ、ラウシェンバーグなどの大作を見て歩いたのだが、その列の最期のほうにあったのがリヒターのアブストラクトだった。その時、なぜかリヒターの作品が貧弱というか、力がでていないように思えて奇妙な気分に襲われた。その違和感がなんなのか。それは今もずっと尾をひいている(彼はそれをロバート・ストアに「確信のなさ」とインタビューで語っているのだが)。

 

僕は アブストラクト・ペインティングについては3種類あると言う持論をもっている。

 

1つは、宇宙言語の再構築としてのアブストラクト・ペインティングとでもいうべきもの。クレーやカンディンスキーがこれにあたる。

2つは、主体の消失の果てにあらわれるアブストラクトとでもいうべきものであり、ポロックやクーニング、ニューマン、ロスコらがそれにあたる。

そして3つ目は、数学そのものというか、人間から隔絶した数学、幾何学としてのアブストラクトが、しかし人間の内部にエモーションを引き起こすものである。

 

個人的には、最近はこの「3番目」に魅かれていて、この夏はスイスのバーデンに、霊能者(ヒーラー)としても知られるエンマ・クンツの作品と洞窟を見に行った。エンマ・クンツは、ハラルド・ゼーマンが発掘・評価を与えたアーティストで、前々回のベニス・ビエンナーレ(ジオーニによるエンサイクロペディックパレス)にも出品されていた。彼女はダウジングを行い、そこから極めて神秘主義的な図形を抽出した。

 

さて、この章から始まる「アブストラクト・ジャーニー」への誘いとして、カールステン・ニコライと僕との対談を抜粋しつつイントロダクションとするのはどうか、と考えた。

カールステン・ニコライは、1965 年、旧東ドイツのカール=マルクス=シュタット (現ケムニッツ) 生まれた。現在はベルリンとケムニッツを拠点に活動していて、自らのレーベル、ラスター・ノートンraster-noton運営。また、コンテンポラリー・アーティストとして、光や音、人間の知覚。数学や自然現象をテーマとしたラディカルな作品を精力的につくりつづけている。

初期には、雪の世界的研究者だった中谷宇吉郎にインスパイアされた「スノウ・ノイズ」と名づけた美しい作品をイスタンブールビエンナーレで発表したり、あるいはベルリン新国立ギャラリーで「結晶体」のような構築物シンクロンをつくり出したりしていた。その後は、1997年のドクメンタⅩや、49回・50回ヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展にひっぱりだこになる。また、坂本龍一池田亮司ともコラボレーションしていることもあり、日本でもその作品は知られ、2度にわたりヨコハマトリエンナーレにも参加してきた。

僕個人としては、彼が坂本龍一とコラボレーションしたINSEN TOURは忘れられない。追っかけてバルセロナへも行ったし、東京でも見た。また彼が「モアレ」についての作品集を出した時にちょうどベルリンにいて、本屋でのイベントにも顔をだしたこともある(あっそうだ、G/P galleryでラスターノトンのポップアップストアをやったこともあったな!)。

 

僕はこの10年ほどの間に、断続的に数回インタビューをしてきた。

僕がまず彼に魅かれるのは、彼がクレーのように視覚と聴覚の共感覚の領域で作品をつくっていることだ。

そして具象的なストーリーテリングには依存せず、徹底的にアブストラクトを貫いているところだ。ノイジーで脳神経系に直撃するにもかかわらず、官能性を持っているという点に面白い。

 彼は東ドイツケムニッツに生まれたから、幼少期は全くの共産主義文化圏で育った。だから資本主義圏の消費速度とは別の原理が彼の芯にあるのだ。

 

現在におけるアブストラクト表現の可能性とは?

かつての、アブストラクトな表現の冒険に旅立ったアーティストたちの進化系を僕は彼に見ているのだと思う。彼との会話の一部。


後藤(G)結晶とか音の波形とか、「見える世界」と「見えない世界」をつないでいる構造に関心が強いでしょう?その発想はどこから来るんだろう?
CN―僕は建築から入ってヴィジュアル・アートをへて音に目覚めたんだ。アカデミックな、変な入り方をしたけど、僕にとって美とは、アンフィニッシュにあるんだよ。
G 完成なんてないってこと?面白いね。オーダーとか、ランダムネスという感覚とも関係してるでしょう?
CN 建築というか、論理的に何かを組み立てるということと、ランダムな動きは、矛盾しているわけだけれど、だからこそ、そこに興味がある。対立が遠いものほど、融合も容易だと思うから。例えば、僕は坂本龍一とコラボレーションしているけど、彼はピアノを弾き、僕は電子音に専念する。
G ずいぶん対象的です。いま、ふと思い出したんだけど、ずっと前に、演出家のヤン・ファーブルにインタビューした時に、「宇宙の構造ってどう思ってる?」と質問したんです。「ランダムネス」って答えるかと思ったら、「オーダーだ」って言った。あなたはどうですか?
CN 宇宙について考えるのは、正直言って怖いな(笑)。なぜなら僕たちは無秩序を恐れていて、だからこそ秩序を生むと思うから。いや、我々がなぜ秩序があるって確認したがるのか、そのことに興味があるね。
G さっき「アンフィニッシュ」って言ったけど、じゃあ「自由」ってことはどう思う?完成してしまうことからの自由。
CN 自由? 僕たちは自由が得られないけど、自由が欲しい。自由とはユートピアンの夢。誰もが持ってる夢。まあ、ヤン・ファーブルが、世界は秩序だと言ったのは、彼には何か信じるものががあったんだよ、宗教とかね。僕は、ポスト共産主義な教育を受けてきたからかもしれないけれど、理想的な世界観に興味はあっても、宗教的な思想はない。つまり、すべてに秩序はないと思ってるってことさ。
G 信じてるものはあるんですか?
CN 数学への信仰(笑)。
G では、別の質問。あなたが東ドイツ生まれだってことは、あなたの活動と関係してると思いますか?リヒターやポルケもずいぶんタイムラグを経験したし。
CN もちろん。僕の歴史、人生。僕はこの時代に生きてることを楽しんでる。ぴったりなタイミングだよ。異質な社会を経験できて本当によかった。東ドイツ社会主義に触れ、そして今、ここ東京で資本主義の贅をあなたたちと味わえる。いつも公言してるんだけど、お金というのは無意味であり、かつ意味深いものだ。そして、「のろのろ」と過ぎる時間と、「あっ」という間に過ぎる時間の両方を体験することができた。それは、東ドイツで生まれたことは、関係がある。今、ベルリンに住んでいることも直結している。
G あなたは音とヴィジュアルの両方を扱うアーティストとして、まさにグローバルに移動する。高速で動く資本主義なみにね。自分が移動するということは、自分のクリエイションと関係してると思いますか?
CN―この20年ぐらいの間に、僕はずいぶんと旅をしてきた。旅は重要だ。物理的にたくさんの物を持ち歩けないから、本当に何が必要なのかが分かってくる。それに他の社会を見ることで、自分の背景にあるものが分かってくる。誰もがこの経験ができたらいいのにね。オープンになることの体験。旅は美しいものだと思う。旅すればするほど、僕は大都市よりも、自然に対して興味がわくようになった。さっきも言ったけど、スピードを楽しんでるんだ(笑)。

G デザイナーのブルース・マウは若い頃、ジョン・ケージに会って、やられたらしい。ところであなたにとってジョン・ケージは?
CN 正直言って、あんまり重要じゃない(笑)。やっと今知り出したぐらい。僕の原点はね、音楽じゃなくって、ニコラ・テスラなんだ。彼は僕の教祖的存在。すごく興味があるんだよ。

 

カールステンが子どもの頃、TVを見ていると突然、ロシア語の数字が読み上げられて、放送が検閲されたのだという。彼はそこに何故かアートを感じたんだよと告白した。それは、僕らからすればフリップ・K・ディックのSF小説みたいだ。

 

一見するとヒューマニズムから最も遠いと思われるアブストラクトなものが、エモーショナルな情動や価値観のシフト、気づきを与えてくれるという、明るいパラドックス。その共感が僕はカールステンに対してある。

 

抽象表現主義のような、アブストラクト・ペインティングは、確かにもはや鮮度を失い、可能性を感じさせない。しかし、だからといって、アブストラクトな快感が失われたわけではない。

 

アブストラクションの再生について、次回も考えたい。