コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

18見ることと、絵画の間で起こっていること。マルレーネ・デュマスとの対話

ある時、マルレーネ・デュマスの個展をギャラリーでみた。

横たわる男たち。壁にかけられた、いくつもの小さな水彩画。それを見て、なぜこれらが「死んでしまった者たちを」描いたものだとわかるのだろうかと、僕は自分に問うていた。「死んだ者たち」の傍に、マルレーネ自身が描いた詩のようなコトバが添えられている。

 

THE FOG OF WAR
Then 9 heard that someone said:
"We shall die in these bodies. This is one thing certain of your place of death, you are there now, you sit with in your corpse, look no faster, there whem you are you will die."


戦雲
そして私は、誰かがこう言うのを聞いた。
「われわれは、これらの肉体の中で死ぬのだ。
これがお前たちの死に場所について言える唯一確かなこと。
今もお前たちはそこにいる。
みずからの死体の中にうずくまり、急ぐこともなく、そこで時が来るのを待ち、そして死ぬのだ」

 

マルレーネ・デュマス南アフリカに生まれた。そしてオランダのアムステルダムに住む。彼女の絵のことをいつ見たのだろうか、そして知ったのだろうか。

記憶は定かではない。彼女があらわれた時、「絵」という領域自体がコンテンポラリー・アートの中で、もう終わってしまったものとして扱われていた印象がある。たった一枚の絵が世界に対して何ができるのかといわんばかりに、美術評論家たちは冷ややかな対応をしていた。
しかし、彼女の絵を見たとたん、僕は一目でやられてしまった。小さな、あるいは大きな紙に描かれた顔、赤ん坊、裸体。それらは、ある意味とてもオーソドックスな様式だったが、僕の中に複雑で強い印象を、はっきりと浮かび上がらせた。僕はすっかりとりこになってしまったのだ。
それ以来、僕はことあるごとにマルレーネの絵を見てきた。

 

ある年、ベネチアビエンナーレの会場に行く飛行機に乗っていると、前に座った男が新聞を読んでいた。そこにはマルレーネが描いた、首を吊った男の絵が出ていた。それは、同じ紙面を飾るほかのどんな報道写真よりも強いイメージを与えた。なぜにかくも、一枚の絵がこれほどまで人の魂を捉えることができるのか。生と死、エロティシズム……。

なぜこんなにも生々しく、そしてリアルな感情を与えてくれるのだろう。彼女の絵ほど、絵の力について問うてくるものはないのだ。

 

さて、僕はマルレーネに聞く。

絵の力の秘密を。


後藤(以下G) 絵を生み出そうとするパッション、自分の絵を生み出そうとしている感情がどこからやってくると思いますか?
マルレーネ(以下M) どこから? 難しい質問ね。私は昔から絵を描くのがとても好きで、でも家族は美術家の家でもなく、父は農家だったし、街で育ったわけでもなかったから、私の絵も砂の上に描いたりする素朴なところから始まったのです。アーティストになるなんて、まるで思っていなかった。でも、視覚的に美しいものが好きで、アートと自然がいつも共存していたんです。自分の世界を見つめること。それには、「離れる」というのと「近づいてコンタクトする」という両方のファンクションがある。昨夜、荒木経惟さんと話をしました。荒木さんに比べたら私は、もっと温度が低いアーティストです。感情をぶつけるとかだけでなく、いろんなものが組み合わさり、それが一つになって、遠くに離れて「ひいて」見る。私の作品は自伝ではないし、自己治癒のセラピーでもない。そうではありません。私はまだちゃんとした「小説家」ではないけれど、文章も書きたい。そういうものもミックスする。でも、それは自分の表現のためではなくて、「あなた」のことに興味があるからなんです。つまり、私が私を見る、そんな観客であるという意識がある。だから、とても近づきながら、すごくひいて考えているのです。
G 「Fog of the War」と題された一連の作品を見た時、同じことを思いました。描かれているものは死者なんだけれど、死者との「語らい」というか、普通なら、死者はすごく離れたものなのに、近づいてゆく作業をあなたはやっている。深く近づいてゆく。そのことを強く感じました。死はこわいもの。でもここでは、愛に似たプロセスになってゆく。それを感じるんです。
M すごくいいコトバです、ありがとう。愛そうとすることは、とても難しいこと。日本にもあると思いますが、アフリカの哲学には、死者がいつも傍にいるという考え方もあります。からだはそこにあっても、魂だけがどこかへ行く。でも消えてしまうのではなく、近くにいる。物質的なもの、非物質的なもの。ほら、この紙みたいな(と言って触わる)形あるものと、上に描かれたイメージ。それは物質的にあるわけでもない。私は、フランケンシュタインをつくろうとしているのではなくて、あくまでペインティングを描いていて、愛や、人と人とのあいだにある感情的なものを扱おうとしているのです。物質に頼って、メタフィジカルなものをね。
G そうですね。絵は、魂の「抜け殻」ではない。すべてはカラッポで、どこかに超越的な存在がいるというのではなくて、あなたの場合は、描かれたものが魂そのものと言っていい。でも、描かれた絵を、「抜け殻」でも「死んだもの」にも見えなくするには、いくつもポイントがある。人間の形、表情、まなざし……。それらにあなたはこだわってきましたよね?
M 私の作風には「テクスチャー」が重要なのです。そして動き。たとえば書の中にあるような動きです。最近の中国の絵とかは、あまり好きでないものが多いけれど、私は絵がどのように「動的」に描かれているかに興味がある。描き方のスピード。描くアクション自体がまるで音楽のようにというか、とても大切なのです。だから私はリアリストではない。ポラロイドや写真を使うのは、「あなた」の姿を捉えておきたいから、そして、そこから解き放ってあげたいから……。
G 今聞いていて、あなたの作品の秘密の一つがわかったような気がしました。それは、「流動する」ということ。絵画は絵の具や紙やキャンバスといったマテリアルなんだけれど、その上を変化しながら動いてゆく。そうすることで生き物にするのですね。バイタルフォースをつくり出す。
M プロセスの中に、「あるもの」を感じるんです。
G ところで、あなたはポラや、記事の写真を使う。スケッチもする。我々が生きているこの世界から、どのようにイメージするのですか?
M 例を見せましょう(と言ってカタログを繰る)。「ブロークンホワイト」という作品は、白がすごくベタッと塗ってある作品です。あらかじめこういうのが欲しいというイメージがあったので、荒木さんの写真の中から、探して描きました。他のシリーズで、すごくセクシュアルなものとか、動物とかも描いていますが、それはいろんな人から送ってもらった写真をもとにしたりしているのです。でも、その全部を描くのではなくて、部分だったり、あれとこれが時間を超えてつなげていったり。
G いろんなイメージが交じりあっていくんですね。
M そうです。「マンカインド」の時は、テーマは戦争でした。人々がどんなポーズを、どんな場面でするのかが面白いと思ったのです。それから例えばアメリカでは、死者の顔を見せたりはしない。そのような文化的違いの中で、ポートレイトというものがどのように違うのだろうか。でも、それを直接出すのではなく、例えば自分の娘のこととか、個人的なことも社会的な中に混ぜ込んでいくのです。
G あなたは人間や動物を描く。それ以外のものは描かないのでしょうか。あなたの中には、アニミスティックな感覚が強くある。にもかかわらず、描いてこなかったでしょう?
M 学校で静物画ばかり描かされていたので、それがとても嫌だった(笑)。でも今、齡をとってみて、もしかしたらできるかもしれないと思うようになりました。木を描いても、人のように見えたりね。同じようなインパクトで描けるのではないか。海とかもね。死ぬまでに描けたら、あなたにお見せします。

 

赤い上気した顔、金色のふさふさな髪。

大きなジェスチャー、そしてよく動く口。

マルレーネは、実に生き生きした女性だった。

「活人画」というコトバがあるけれど、僕は彼女と話しながら、デューラーブリューゲルの絵の中から出てきた人のようだと思った。いのちのきらめきというのが、この人には強くあるのだ。その力が時代を超える絵を彼女に描かしめている。


僕が好きで持参した、『ストリップガールズ』(写真家アントン・コーピンとのコラボレーション)の画集にサインを求めると彼女は、僕の顔を見て、すばやくスケッチを走り描きした。それは、とても奇妙な体験だった。


後日、とある日曜日。東京都現代美術館へ行き、時間をかけてマルレーネの絵をゆっくり見た。そこにはいくつものポートレイトがあった。

 

僕は彼らと語らいあう。

それらは描かれているけれど、決して、死んだものではない。

生々しく、そして、セクシュアルなもの。何をして生きてゆくにしても。そうでなければならないのだ。そんな独白をつぶやきながら、僕は美術館を歩いた。


かけがえのない、わすれられない午后だった。

 

(以前、「ハイファッション」しでの対談を再収録しました)