コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

17草間彌生と田名網敬一の絵画 の秘密について考える

この章では、絵画の「力」と「強度」についての2つの体験記である。

 

まず草間彌生展のことだ。

それは、実に特別な日だった。変な言い方だが、こんなに印象的な1日になるとは、不覚にも、思いもかけなかったのだ。国立新美術館での草間彌生展『わが永遠の魂』のオープニングに、若手写真家として国内外で高い評価をもつ横田大輔くんをさそったのは、たまたまのことだった。正直、オープニングのあとに打ち合わせしようよ、という気軽な設定だったのだ。

ところが訪れた草間展は、かつて見たことがない体験を我々に与えるものだった。車椅子で現れた草間さん自身の忘れがたい強いオープニングスピーチのあと、我々2人は展覧会場に入ったのだが、一発で圧倒されてしまった。入り口の絵や、入った大会場にびっしりと展示された近作群は、かずかずのモダン絵画を見てきた自分の過去体験を、すべてアマチュア野球にしてしまうほどの唯一無二、極論すれば男性中心主義でなりたってきた現代絵画史を払拭するほどの強い快感があった。観るものに、解釈ではない体感で包む第一室にたたずんでしまい、わけもわからず泣いてしまう女の子だって出現するにちがいないと思われた。

それほどまでの、圧巻の「強度」の空間が出現していた。2009年以降、毎日のように描かれつづけている作品から130枚が選ばれ、ぎっしり壁を覆いつくしていたのだ。

 

会場では、草間さん自身によるステートメントが書かれた一枚の紙が、配布されていた。それは、「草間彌生から世界の皆様へ」と題されていた。

長い文章の最後は、こう綴られていた。

 

「さあ、闘いは無限だ。

もっと独創的な作品をたくさん作りたい。

その事を考える眠れない夜

創作の想いは未知の神秘への憧れだった

私は前衛芸術家として宇宙の果てまでも闘いたい。

倒れてしまうまで」

 

草間彌生は、過去にも、今も、そして未来も「前衛芸術家」であった。

この展覧会は、回顧展などでは決してなく、「前衛芸術家の魂」の展覧会だった。

ドゥルーズが生きていたなら、ベーコンを凌ぐ歪形の画家を前に、陶然としたに違いない。ヒステリーそのものとしての、最強度ある作品群が出現していたのだから。

会場には、今までも何回も見てきたインフィニティ・ネットの傑作抽象画も、オブセッシブな銀色に輝くソフトスカルプチュアであるペニスオブジェも、ニューヨークでのパフォーマンス映像もあったのだが、「最新作」にやられてしまった。

会場を3周したところで、やっとおぼろげながら言語化できるぐらいで、これほどまでに、直に神経系統に来る絵画体験はあるものではない。

僕も横田くんもやられて、美術館を出て、打ち合わせしながら、今この時代の今、草間彌生展に立ち会えた重要さを痛感していた。喫茶店で3時間も話こんでしまった。
これは我々が、軽く考えている以上に、凄い事件のような展覧会なのだろう(その後、この展覧会は総入場者52万人を超す未曾有の前衛美術展となった)。

考えなければならないことは、草間彌生の作品がベーコンが成し得た恐怖のような「力」ではなく、極めてラブリーな「力」を駆使した総力戦であるということ。生命表現だということである。

草間が明言しつづける「前衛」とは、近現代美術の「折り返し」を切り拓くものとして再定義されるべきものに違いない。

100年後、明らかに時代のリセットの始点として、草間彌生のアートが語られるようになる、そう確信できた記念すべき日であった。

 

さて、もう一つ、重要な体験を書いておきたい。

 

田名網敬一の展覧会についてである。

 

渋谷のギャラリーNANZUKAで始まった田名網敬一の3年ぶりの個展「獏の礼」に、伊藤桂司くんといっしょに見にいった。 ネットにあがっていた新作の画像を見て、これは現物を今見ておかなければならない作品だと思ったからだ。


展覧会を観た直接的な感想からいえば、草間彌生展と並ぶものとして必見だし、コンテンポラリーペインティングについて考えるための重要な展覧会だった。好き嫌い超えた、特筆すべきものだと思った。

 


まず語るに避けて通れない課題が浮かび上がる。何故これほど短期間で、田名網敬一がグローバルアートマーケットで、ハイプライスで扱われるコンテンポラリーペインティングの巨匠になったかということ。
事実、NANZUKAに展示されている作品は、既に完売していた。高い作品は1000万円をはるかにこえている。世界中のアートコレクターが順番待ちで、みるみるうちにプライスは上がっていく。


僕が10数年前に、大阪のキリンプラザで、田名網敬一×宇川直宏のコラボ展をプロデュースした時はまだ、田名網敬一グラフィックデザインあるいは、アニメーション作家であり、コンテンポラリーアートからしてみれば、「周縁」の人だった。

僕は当時、グラフィックや写真のような一見アートの周縁と思われているものこそが、実は次にコンテンポラリーアートのメインに接木される可能性が高いと判断し、キリンプラザにおいて、五木田智央や、やなぎみわ澤田知子らの個展を予見的にキュレーションしていた。

田名網敬一×宇川直宏というコラボも、アートワールドへの明確なシフトへのキックになったと思う。

その後、所属ギャラリーとなったNANZUKAの精力的なプロモーションの尽力大きく、2012年ごろからは、ドイツ、スイス、アジアでも同時多発的にアーティストとして発見され、またたくまの間にWalker Art Center、Tate Modernのグループショーに参加。連鎖的にMoMAや香港にできるM+ など世界の美術館があらそって作品をコレクション。また、昨年NYのSikkema Jenkins Galleryでの個展も評価、セールス的に大成功となった。

 

成功という事実だけの話をしたいわけではなく、田名網敬一の作品に、どのようなアートとしての強度が内在しているのか、その生成や「強度」仕組みについてあまりにも、誰も語っていないのではないか。


ごった返すオープニングパーティーの中で、新作群を見た。

あらかじめデータで作った画像がキャンバスに出力され、その上から肉筆で着彩されたり、テクスチャーが加工されたりしている。

金魚や女たち、アメコミからサンプリングされた戦闘機や擬音の文字などが蝟集し宙に配置されている。エッシャーからの剽窃されたものもある。いくつかの要素はグラフィック処理でその平面性を偽装するために、背景には歌舞伎の舞台を思わせる書き割りが、アリバイのように描かれている。


これはデザインではなく絵画である。


横尾忠則もそうであるが、デザインからきた人ほどデザインと絵画についての差異に確信犯的、意識的なのである。また、コラージュというものに対する浅い理解に対しても批判的になる。

確かにコラージュは、イメージのレディメイドというものであり、個展的な絵画の限界を突破する発明だった。

少しだけコラージュについて語るならば、基本的にコラージュは、その誕生においてシュヴィッタースやアルプなど、初期ダダイストが行なったように廃イメージの衝突だ。

そこにはストーリーを生み出そうという下心はない。おぞましい異物生成に意味がある。だから時間がたつと衝撃がおちただのゴミにかえる。長持ちさせる美学的配慮がないのだ。

一方、似て非なるものとして、エルンストらシュルレアリストたちのコラージュがある。別物だ。これらのねらいは深層心理学を活用した再物語化だ。だからノベルである。超現実と称しているが、物語でしかない。


田名網敬一も、コラージュという手法の一つを使っているが、はたしてこれはコラージュなのだろうか?彼が画面をつくる、つまり絵画にする時にやっていることは、まず強度ある図像の制作だ。そこには実体験としての戦争体験による衝撃、夢の中で繰り返し現れる強迫観念などがトリガーとしてある。しかし、田名網敬一シュルレアリスト型のコラージュ(たとえば横尾忠則のコラージュ)と全く違うのは、図像を歪め、鏡像的に反復し、ドゥールーズ的にいえば、「ヒステリー化」させることで、図像の強度をマックスまであげることに血みちをあげていることだ。絵画に捏造するための空間化は、後回しなのである。ドゥールーズがフランシス・ベーコン論で明らかにしたようにベーコンは恐怖を描こうとしているのではなく、叫ぶというヒステリー化された図像を描こうとしている。これは、表面的な形はちがえど田名網敬一の絵画にもあてはまる。心的外傷をネタにした、異様な歪形が浮遊、蝟集させることで田名網は絵画を作ろうとする。


このような強度生成の手法と作品は、ある意味でコンテンポラリーペインティングの接続と可能性の評価をえやすいストラテジーなのだといえると思われる。


もう一つ重要に思うことをメモしておきたい。田名網敬一の絵画も、塗り絵というスタイルでみれば、村上隆がカテゴライズしたスーパーフラットに分類されると思う人は多いだろう。しかし、それは間違いだと思う。田名網にとって画像とは、動き変容する、アニメーションの一コマだからだ。彼は、平面の強度を上げるために、複数のイメージのレイヤーをぶつけるためにコラージュ的な体裁を採用しているのではなく、まさに心的外傷がトリガーとなってうまれた、ヒステリー化した図像をさらに衝突させることを狙ったアーティストだからだ。何度見ても、意味なくカタストロフ=エクスタシーをマックスで得られることこそ田名網敬一の欲望である。

その意味でかれは、永久運動を夢想する「独身者の機械」を引き継ぐアーティストなのだ。

アニメーションこそが、彼の中核にあるものだ。平面はそのワンカットなのだ。
「笑う蜘蛛」は、必見の作品である。


僕はこのアニメーションが、例えばアートバーゼルのunlimitedで展示上映され、世界のアートコレクターやキュレーターが、田名網敬一を絶賛する姿がありありと目に浮かぶのである。