コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

16コンテンポラリーアートにおける「力」と「強度」をめぐる3つのこと

ヨーゼフ・ボイスのコトバから始めよう。

 

「人間にとっての革命的な観念を創造しようとすれば、人間にかかわるあらゆる力を問題にしなければならないだろう。もし人類学上、人間に新たな位置を与えようとすれば、それ以外にも関係するすべての分野で新たな位置を授ける必要が生じる。地に向いては動物や植物、自然とのつながりを、そして天を仰いでは天使と精霊と結びつけなければならない」

 

アートというものの面白さは、いつも我々の存在の「根源的な奇妙さ」と結びついていることだ。

我々がなぜここにいるのか。なにをすべきなのか。どこへ行こうとしているのか?

「特別な何か」に、強く魅きつけられ、感動したり、掛け替えのない思い出や、トラウマを生じたり、また時に恋に落ちたりするのだろうか?

 

アートは、理屈や形式を超えて、人間を動かす、裸の「力」をもっている。

ならば、アーティストはどのように、「力」というものと付き合い、魔法使いの杖のように、巧みにコントロールできるようになれるのか?

 

近代文明を作り上げてきたロジックや科学は、確かに有効ではあったが、同時に自らの大きな矛盾を暴露してきた。捨ててきたものも多い。もはや、科学万能やテクノロジーの進化を手放しで喜ぶ人など、いないに違いない。

かつて持っていた「力」の回路を知るにはどうするのか?ヒントは?

 

レヴィ=ストロースら優れた文化人類学者たちは、西洋文明に対して、未開であると位置づけられた多様性ある文化を、「別の事例」として、正当な評価を与えた。彼の『野生の思考』こそ、まずアーティストが読むべき本なのである。神話論理は、どれほど豊かな「可能性」に目を開かせてくれるのか。

 

また先端の宇宙論も、アーティストが知らなくてはならない領域だ。量子論一般相対性理論が統一されない矛盾状態の中から、様々なアクロバティックな「宇宙モデル」が考案され続けているが、それらは、時には古代文明が構想していたヴィジョンと符合する時がある。

古来よりの固有文化と、先端のヴィジョンの出会い。それは、まちがいなく、現在の思い上がった人間中心主義、エゴイスティックな文明の隘路を、突破する契機となるだろう。

宇宙の始まり、時間や空間や無、可能性のゆらぎ、高次元の衝突など、答えの定まらない「問い」が、数式と観測の試行錯誤の中から、生まれ続けることが、アーティストたちにインスピレーションをあたえることになる。

我々が暮らす日常世界は、感じようとしなかったり、発見しようとしなければ、ただ熱死にむかってエントロピーを増大させていくだけ。

 日常世界の現実に潜在する、別の、あるいは高次元を触知し、次元のサーフィンをしなくてはならない。これは、アーティストにとって重要なスキルだ。

 

古代の人々は、我々よりはるかに高い叡智をもっていたのだと僕は思っているし、現代にも覚醒したヴィジョナリーもいる。発明家バックミンスター・フラーは、宇宙の力に従って生きるならば、人間は働かなくてもよいはずだと説いたエンジニアであった。我々は、アートを生み出すに、どのようにして、宇宙と仲よくすればよいのだろう?

 

 「力」をどのようにとらえればよいか?

それがこの章のテーマだ。

 

我々は、フィジカルな世界に生きていて、引力や重力を感じている。直接的に感じられなくても、電磁気力や核力や、物質が成立するための4つの基本力が

存在することは、突き止められている。人間の活動や発想に、我々が気づかなくとも、これらの様々な「力」が、作用していることを否定することはできない。

 生体の活動や、幸運や人生の宿命や、肉体と精神。

見えるものと、見えないもの。

内側においても、外側においても「力」は、極めて重要な存在だ。

 

我々は、アニミスティックに草木虫魚や石などに内在している、力を感じる。時には、フェティッシュや愛着も発生する。また、不可触、不可視の世界も感じる。「超越的な力」を宗教や神秘主義錬金術に求め続けてきた。

神は死んだとニーチェによって宣言された近現代でさえ、ヴィジョナリーたちにとり、「不可視な力」は不死であった。空想社会主義シャルル・フーリエは「情念引力」を、批評家のベンヤミンも「親和力」は彼のクリエィティヴィティにおいて不可欠なものだった。

しかしその一方では、マックス・ウェーバーによる脱魔術化や再魔術化についての考察や、先駆的文化人類学者であるジェームズ・フレイザーが大著『金枝篇』で述べた共感呪術論へのヴィトゲンシュタインの徹底的な批判・否定も、我々は知っている。

 

呪力。

あるいは魔力。

 

ピカソは、たくさんのアフリカの彫刻をコレクションしていたが、ピカソ以上に、「野生の思考」に習熟していた暗黒大陸の住人の方がピカソより、「見えていた」ということはあるだろう。

また、無名な陶器職人たちが作った、「不完全な美」(柳宗悦)をもつ、素材がむきだされ、偶然性がとりこまれた、アシンメトリーの粗野なやきものを、どうして千利休のような「目利き」たちは、評価することができたのか。

そこには、アートの良し悪しの制度化された基準ではなく、もっと根源的な課題が横たわっている。

再度言うが、それは、人は、どのようにして「力」を操ることができるようになるのかという課題である。人は、どのようにして「甚だしい力」を取得できるのか。「力」の宿る「モノ」を、どのようにして作ることができるのかという課題だ。

 

第1に、呪術についておさらいすること。

人類学者たちは、未開文化のフィールドワークを通して、非西洋的な習俗の中で「力」の取得が部族においてどのように行われてきたかについて、豊かな事例を提供してきた。

例えば、メアリ・ダグラスは野心的な著作『汚穢(けがれ)と禁忌』の中で、霊的な力の源泉について内的なものと外的なものに、二分している。

ひとつは主体内部に宿る場合。例えば、邪眼や妖術、幻視や予言の力がそれにあたる。

そしてもう1つは外的象徴である呪文、祝福、呪い、まじない、祭文、祈願などだ。

妖術師、魔術師、シャーマン。彼らの力は、その社会に善をも、悪をももたらす危険なもの、両刃の剣であり、自らを滅ぼすことも、権力や富、幸運をてに入れることもある。ダグラスは、「能力(ちから)と危険」の章において、その力の儀礼について書いている。人は追放され、その共同体の周縁に住まわされる。つまり「境界線上」に置かれるとのである。

 

境界線上に出でよ!

 

 このような「力の生成」をめぐる人間の仕組みは、文明が近代化、機械化されても、潜在的に有効だと思う。

しかし、「アウトサイダーアート」というコトバは、好きではない。想像力に、健常も異常もないからである。だが「境界線上」にいるアーティストこそが、甚だしい力を発揮できるのはたしかだ。

ヘンリー・ダーガーやヴェルフリの想像力は破格だし、バスキアの部族芸術への先祖返りを思わせる絵画も、実に強い「力」を帯びている。

 

第2に、精神分析学の知見を知ること。

 例えばロラン・バルトの『明るい部屋』は、写真論は写真家ならば避けては通れない必読本だが、実は全てのヴィジュアル・アーティストが読むべき本なのだ。なぜなら、それは、写真を素材にしつつも、「まなざしの力」について考察されているからだ。

そして、どうして我々が、「あるイメージ」に強く取り憑かれてしまうのが、イメージの「強度」について考える必読の本なのだ。

超大雑把だとの非難を承知の上で、整理する。

まずバルトは、あくまでも概念の「仮定」として、2つの力の有り様を設定する。1つは「ストゥディウム」という「力」。これは既成の文化コード、意味文脈上での「価値」の文脈を持つイメージを指す。そしてもう一つが「プンクトゥム」。これはラテン語で「刺す」を意味し、イメージが私を刺してくる力として設定される。私が被写体を捉えていると考えるのは間違いで、ある特定のモノが私を刺してくるのだ。なぜあるイメージが、私を捉えてやまないのかを、彼は2つの力を仮定して考えたのだ。

ここでは詳細に論じないが、写真は真実を追求するアートではなく、「まなざし」を伝染させるアートである。そしてさらに重要なのは、その「まなざし」が「私のもの」ではなく、他者の語らいのものだということである。バルトは構造言語学者、修辞の考古学の研究者であるが、精神分析ジャック・ラカンとの邂逅を通して、「まなざし」の問題、つまりプンクトゥムというアイデアを得たのだと、僕は考えている。

ラカンは、人間に植え付けられている他者として、つまり逃げようもないものとして4つの「対象a」をあげている(新宮一成による名著『ラカン精神分析』は必読本)。それはなにか。糞尿、乳房、まなざし、他者の声の4つだとラカンは言う。そして、この4つが人間にとっての宿命ともいえる「黄金分割」と同じ存在だと解析する。バルトがラカンによる精神分析にかかっていたエピソードは、なぜかあまり公言されないが、ラカンの「対象a」からのインスピレーションはあったのではないか。

これは絵画や写真においてどのようなイメージが、「強度のあるものとなるか」ということと関係するだろう。

また、晩年のラカンにとって「囚人のジレンマ」というゲーム理論の設定は重要だったように思われるが、人を「ジレンマ」という、終わりなき宙吊り状態に置くこともまた、「力」の生成と関係しているに違いない。

 

目を釘付けにすることとは、対象が刺してくることであり、それはトータルリコールにおける、自分の中にある知ることのできない人造人間のようなものと結びついている。

ある表象が「力」を持つ秘密を知るには、精神の禁断の回路の箱をあけることになるだろう。そして最強度の、恐怖と快楽がつきまとうことになるだろう(ラカン中井久夫中井久夫が訳したエランベルジェの本など。あるいは、オリバー・サックスの『火星の人類学者』などを薦めたい)。

 

さて、3番目として挙げたいのが、ドゥルーズの本『フランシス・ベーコン  感覚の論理学』を読むことだ。

ドゥルーズラカンのようには「力」の「強度」に接近しない。彼は魔術や対象aではなく、また、精神障害者が生み出す強度のあるイメージではなく、フランシス・ベーコンという画家が生み出す「甚だしい力」の生成をとおして「力」の問題をあつかおうとする。

フランシス・ベーコンの絵は恐怖に満ち、暴力的なイメージであるにもかかわらず、それを見た者は忘れられないし、心が落ち着かなくなる「力」を持つ。それは何故なのか(僕も個人的に、高校生の時に、一時ベーコンの絵を模写することにハマったことがある)。そしてパラドキシカルだが、値段もますます高騰している。

「力」を帯びているのだ。

 

ドゥルーズも議論の素材として使っているものに、研究者デイビッド・シルベスターによるベーコンのインタビューがある。シルベスターは、実に45年間ベーコンに密着し、彼の「秘密」について詳細な論考を残した。

例えば、ベーコンはシルベスターにこう言っている。

 

「叫びというやつはたしかに恐怖と結びついているよね。でも実際に僕が描きたかったのは恐怖よりは叫びそのものなんだ。もし僕が、なぜ人間は叫ぶのかってことを本当に考えていたら、僕が描こうとした叫びはもっとうまくいっていたんじゃないかな。実際、開いた口というのはあまりに抽象的にすぎた。僕は口の動きだとか、口と歯の形だとかにずっと魅せられていたんだ。人に言わせれば、口とか歯にはあらゆる類の性的な含意があるという。僕は口から来るきらきらとした輝きだとか色が好きなんだと言えるかもしれないし、ある意味ではモネが入日を描くみたいに口を描ければとずっと思っていたんだよ」

 

「私は恐怖よりも叫びを描きたいと思ってきた」という発言は、ドゥルーズにとっては、「感覚」の「強度」と結びつく。ドゥルーズはいきなり、極めて重要なことから語りだす。

 

「具象(つまり説明的にして説話的なもの)を乗り越えるためには二つの方法がある。ひとつは抽象的形態に向かうこと、もうひとつは〈図像〉に向かうことである。この図像への方向にセザンヌが与えた簡潔な名称は「感覚」であった。図像とは、感覚に結合されたか感覚可能な形態である。図像は神経系統にじかに作用するが、神経系統とは肉体に属するのである。一方抽象的〈形態〉は脳に向かい、脳の媒介によって作用するのであって、より骨に近いのである」

 

ベーコンが描いているものは、具象でも抽象でもなく、図像であり、それは媒介なく神経系統と接続してする。バルトならプンクトゥム、刺すといいたいところだろう。ドゥルーズはバルトのようには仮定せず、ヴァレリーのコトバを引いて「感覚は、じかに伝達されるもので、語るべき物語による迂回や退屈をさけるのである」と見事に言う。

ベーコンにとっての問題は、暴力でも戦争の悲惨などという物語ではない。「ベーコンには感情など存在しない。ただ情動が、つまり「感覚」があるだけ」とドゥルーズは言う。そしてアントナン・アルトーの「器官なき身体」と絡めながら、ベーコンがいつも「身体の強度的現実を描いてきた」とさらに続け、「絵画とヒステリーのあいだには特別関係がある」と展開し、「画家のヒステリーではなく、絵画のヒステリー」とオチをつけるのだ。

 

「絵画史において、ベーコンの〈図像〉は、いかにして見えない力を見えるようにするかという問題への最良の解答のひとつであると思われる」ではそれは何か?

「ベーコンの問題とは、変形(transformation)ではなく、歪形(deformation)なのである。この二つは、まったく異なるカテゴリーである」と解析する。

そう、いかに歪ませるか。これは、ヒステリーとしての絵画の強度の秘密である。

 

ベーコンは、自分の好きなものを歪形しつづけた。

 

例えば、エジプト彫刻、マザッチョ、ミケランジェロ、ラッファエロ、ベラスケス、レンブラントゴヤターナー、コンスタブル、アングル、マネ、ドガ、ファン・ゴッホ、スーラ、ピカソジャコメッティデュシャン、マイブリッジの写真などを!

それは、剽窃や引用ではなく、神経系統に直接刺す画像を、生成するための総力戦なのだ。

さらに、ベーコンがそれらのアーティストの作品の中に、「力」のヒントを吸収しているところが重要だ。

ベーコンはシルベスターに言う。

 

「僕は自分の神経組織からあたうる限り正確にイメージを表に出そうとしているだけさ。そのイメージの半分でさえ、それが何を意味しているのか僕には

分からないんだ。僕は何も「言って」なんかいないよ。でも、僕が何かを言っていないのは本当だよ」

 

ドゥルーズの『感覚の論理学』は、強度あるイメージがどのように生成されうるか、についての実に有効な本である。そして今回、考えてきた諸力について、巧みに接近することに成功していると言えるのだ。

 

また、アブストラクトの章でも『感覚の論理学』について語りますね。