コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

15ちょっと迂回して。逸脱者になるということ

この間、誰かのアートブログを読んでいたら「生きにくさ」ということばが、ずいぶんたくさん使われていた。新聞やTVなどのメディアは、戦争や災害などのカタストロフを力点に書いてしまうし、コメンテイターたちの発言をいくら聞いても、なんの解決の足しにもならない。情報では自分の現実など少しも変わらない。そうかと言って、SNSでの「つぶやき」や「ブログ」も、決断主義的に良し悪しを書いてしまうと、炎上したり、見ず知らずの人から、お節介な議論がふっかけられるのが関の山。

前章でも書いたけれど、AIの進化がもたらすのは、シンギュラリティであり、人工知能によって、どの仕事が奪われるとか、明るくない未来の話ばかりだ。

 

まあ、「生きにくさ」というコトバが、口をついて出る切迫感はよくわかる。

 

しかしこの時代において、コンテンポラリーアートに生きるということを選択することは、その「生きにくさ」を克服する道だと思う。

いや、そうだと思えるようになった方が良い。

 

千葉雅也という哲学者(彼はフランス現代思想の研究と、アート・文学・フィッションなどの批評を関連させて行っている)の『勉強の哲学  来るべきバカのために』などの著作は、コンテンポラリーアートをめざす人には、必読の本なのだと思うので、アートの話を「迂回して」、彼の本について書いておきたい。

この本の第1章の冒頭で千葉はこう書く。

 

「多くの人は、勉強の「破壊性」に向き合っていないのではないか?

勉強とは、自己破壊である。

では、何のために勉強をするのか?

何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

それは、「自由なる」ためです。

どういう自由か? それまでの「ノリ」から自由になるのです」

 

冒頭を読むだけでも、この『勉強の哲学』が、もちろんアートのほんではないけれど、クリエイターやアーティスト必読ということが伝わってくるだろう。

今生きている「環境」のノリを自己破壊して、別のノリの人。現状に隷属するバカではなく、生成変化した「来るべきバカ」になること。

それはまさにアーティストであることの、「享楽」にほかならない。

 

隷属状態をただ繰り返していては、ただのバカでしかない。破壊や逸脱、「ひとでなし」の道を選ぶことは、時には世の中の、誤解や、悪口にさらされることでもあるし、そこで意固地になって被害者妄想的なエゴの鎧をつくっては、全く逆の道だ。間違った道だ。

千葉が言うように「自由」に、ならなければならないのだ。

そのためには、思考法、哲学、価値がどのように形成されてきたかというヒストリーと教養、そして実践的な戦略なくして、スマートな逸脱者=コンテンポラリーアーティストにはなれない。

 

千葉雅也が数年前に初著『動きすぎてはいけない  ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を出した時、この本について、僕がある雑誌で書いたテキストがでてきたので、まずこの文章を読んで欲しい。

ほぼその時の原稿をコピペして、マルッとあげておく。

 

 

哲学とは何であるのか、そしてなぜ必要なのか? それは「私」が何であるのか、どのように生きるのかをサジェストしてくれるものとでもまず答えておこう。

しかし、私が何であるとか、正義とか、真実を求めたとしても、社会というものは誤動しているものだし、いかに軽やかに「うまく」やり、あっけないほど単純にこの世を去るしかないだろう。そんなポップでニヒルな「人でなし」な者は、よき家庭などつくれないし、社長や権力者に向いてもいないだろう。ただ一つ言えるのは、そんな「のら犬」や「虫ケラ」にも快楽があるということ。はぐれ者だからと言って、不幸というわけではないのである。


若き哲学者/ドゥルーズ研究者の千葉雅也の快著『動きすぎてはいけない  ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』は、そんなことにピンとくる者のための必読の書である。彼は東大・パリ大学および高等師範学校を経て、東大大学院で博士号を取得した文句なしの才人。ジル・ドゥルーズの直弟子マラブーの薫陶を受けた、高性能な現代哲学者なのである。

彼は、自らの博論をわざわざ「半端に改稿し」、この魅力的な本を作り上げた。

千葉雅也が、ドゥルーズ研究者でとどまることをやめ、「ドゥルーズ的に生きる」ことを態度表明していることが重要であり、共感するところだ。

ならば「ドゥルーズ的に生きる」とはどのようなことなのか? それを真に受け、実行することは、快楽の強度は高いが、かなりヤバイことだと思われる。

この本は博論のガイダンスの序(というよりステイトメント)として巻頭に「切断論」が置かれ、そのあとに9章+エピローグから成るドゥルーズ論が論証されている。各論は、ドゥルーズが初期から後期にかけて書いた著作『経験論と主体性』『ニーチェと哲学』『差異と反復』『意味の論理学』『感覚の論理』『マゾッホ紹介』などを精分析しつつ、今までしっかりと語られなかったドゥルーズの「非意味論的切断」の重要性を解くというハードコア。思想著を読みなれていない人にはヘヴィーかもしれないが、シュトックハウゼンやノイズ系、あるいはトム・ヨークのアトム・フォー・ピースとか好きな人には「さわやか」に読める本だと思われる。わかんなくてもムードで通読し、また「切断論」に返ると、痛快な気持ちになるれるだろう。

 

ドゥルーズの思想が日本に入ったのは 70年代末から80年代のことで、僕らは『現代思想』『エピステーメー』別冊の『リゾーム』、浅田彰の『構造と力』『逃走論』、そしてドゥルーズガタリの『千のプラトー』で感電した。

それは資本主義がグローバル資本主義へと進化することと並走しており、ネグリ+ハートの『帝国』『マルチチュード』につながって行った。新たなファシズム、新たなゲリラ戦としてのテロ、新たなビジネスシステム、新たなコミューンを考える時に、ドゥルーズが提起した「哲学」が、呪いの粉のように世界のすみずみにふりかかっていることに気づくのだ。

ドゥルーズ的に生きるとは、すべてに対してオープンに接続することや、「やさしく生きる」ことではありえない。達観し、悟りをひらくことでもない。つまり「人間らしく生きる」ことはほど遠いと言ってよい。千葉は要約して書く。

 

「私の考えでは、ポストポスト構造主義の要は、半面では、接続よりも切断、差異(diffarence)よりも無関心=無差別(indiffarence)、関係よりも無関係である。このように言うと、まるで寒々とした思潮のように思われるだろうか。しかし、根本的にバラバラな世界にあって、再接続を、差異の再肯定を、再関係づけ模索することが、ポストポスト構造主義のもう半面なのである」

 

つまり「資本主義世界で生きる」ために「解放的/強追的」な二面性にさらされながら、非意味論的接続だけでなく、切断をやってのけることが再生へ必需だというわけだ。


 (さて、ここらで中断)


 千葉雅也の本は、資本主義のまっ只中にいて、それを食いやぶるダニのようなコンテンポラリーアート界に生きる者には、ありがたい「人生哲学」(人でなしの人生哲学)の著である。

マルクスの思想が若者に有効だった60年代のことを思うと、すっかり今はドゥルーズが基本である。時代は流体、アルカイダも起業家も脱領域化してる。(この原稿はParisPHOTOから帰りのエアフラの機内で書いている。BGMはP.DiddyとOxmo Puccini 。片や資本主義にまみれた成り上がりアメリカ黒人ラッパー[レストランチェーンまでマルチに展開。元パフ・ダディー]と、アフリカのマリ生まれのフランス黒人ラッパーOxmo。P.Diddyは「疲れ」ている、Oxmoはマルチチュードの星だ。しかし行きついた形態はまるでスポンジのようにともにスカスカ。いくら成功しようが最低だろうが、金があろうが貧民だろうが、生のはてのセルフエンジョイメント。そうだ、『編集と快楽』というタイトルの本を書こうと思いついた)。

 

 

以上。奇妙な「書評」かもしれないが、どんな表現であれ、逸脱しながら、分裂をそのまま晒しながら、落ち着かせないようにしながら発語していかなければならない。

ドゥルーズは、それを「吃ること」と言った。

 

本の使命は、自分と世界をリアルに変革するための道具・ツールでなければならないということだ。ノマドのように移動しながら、即、移動の瞬間瞬間に役立たなければ意味はない。

 

さて最後に、冒頭で書いた千葉雅也の『勉強の哲学』の方にもう一度も戻ろうか。

 

この第3章の「決断ではなく中断」、第4章「勉強を有限化する技術」は、「吃ること」を「実用書」ばりに実践的に発展させてくれているので、そのまま自らの「ラディカル・ラーニング」に使える。

なかでも面白いのは、自分の「欲望年表」をつくる、という「技術」だ。

 

「最終的に、勉強を有限化するためには、信頼できる情報を比較するなかで、自分の享楽的こだわりによって足場を定めることが必要であり、しかもそれを絶対化しないことが必要です。自分に特異的な勉強のやり方を見つける。そのためには、本章で最初に行った、生活実感からアイデアを広げるというワークに加えて、一種の自己分析をするのが効果的でしょう」

 

千葉雅也の狙いは、勉強のテーマをどう見つけ、有限化するか。アイロニー、ユーモア、そして享楽の問題をあつかい、小賢しさを脱し「来るべきバカ」へと変化する。そのための2種の欲望年表。つまりメイン年表とサブ年表の作り方をぼくも速、やってみているし、美大での授業でも取り入れようと考えている。

また、アイデアを出すためにどう書くか。フリーライティングと、それを箇条書き化するアプリ「アウトライナー」の使い方も、混沌としたアイデアを有限化し、「来るべきバカアーティスト」として自分を自由の身にする、超具体的なやり方が、述べられている。

 

今やあらゆる情報が溢れ、デフォルトとなったデバイスを皆使っている。もはや写真家のライバルは写真家では無いことはあきらかだ。これは文学であれ、ファッションやデザインであれ「生きにくい」。

 

ならば、逸脱せよ。

メタに発想し、ハイパーアーティストを目指せ。

「勉強」で武装するのだ!

 

 

次回は予定にもどって「強度」。

ドゥルーズフランシス・ベーコン論をめぐって。