コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

14アートにとっての「パラレルワールド」と「シミュラクラ」

「いつも死ぬのは他人」というのは、マルセル・デュシャンの墓碑銘のコトバだ。妻のティニーとご機嫌な夜をすごして、81歳であっけなく突然死したデュシャンは、お見事というしかないが、胆嚢手術がうまくいかず、病院でウォーホルが1987年に死んだニュースを聞いた時、悲しいというより、なんだか滑稽ですらある気がしたし、はなから行方不明をよそおっていた河原温の死を聞いたときも、やはり「他者としての自らの死」というイメージが浮かんだ。

デュシャンやウォーホルたちは、死なんて大したもんじゃないという、アートにおける「ひとでなし」的なアティチュードを示した点で、実に評価できると思う。

 

まず確認しておきたいのだが、 「私という他者」、あるいは「他者」性の取り込みという価値のシフトは、コンテンポラリー・アートにとって不可欠なストラテジーである。

しかし加えて、現在において「事態」は、どんどん加速的に変化していることをシビアに認識しなくてはならない。

デュシャンレディメイドジョン・ケージの「易」を 使ったチャンスオペレーション、ブライアン・イーノジェネリック・ミュージックやオブリック・ストラテジーなどは、今からすれば、「もう基本でしょ、古典でしょ」という印象も否めない。

なぜなら現在の、リレーショナルなアートの基本は、文字どうり「関係」のインターラクティヴィティを問題としているのだし、関係を開くにせよ敵対するにせよ、「他者」性の扱いが必須だからだ。

 

おまけにかつてなら、車や飛行機、兵器やカメラ、TVなどが、他者の代表としての「機械」であったのに対し、「コンピュータ」「ロボット」という他者の時代に突入しているのは、実に大きなシフトだからだ。20世紀には、それらは未来に設定された、ある意味でユートピアでもあり、かつ悪夢として想像力をかきたてるものであったのが、いまや「いま・ここ」の問題となっている。

いいかえるれば、他者との関係を議論や思想で問う前に、他者とのコミュニティを問う前に、否応無く我々は全てネットでオンラインですでに繋がってしまっている現実の中にいる。ある意味で、これほどまでに便利で、かつ恐怖をあたえる「事態」をかつて人間は、体験したことがない。携帯のネット環境に参加するやいなや、その人の「価値」が算定され、国や企業を飛びこした仮想通貨による支配下に置かれる時代に突入しつつあるからだ。

 

さらに、ムーアの法則をもとに、レイ・カーツワイルが言い出した、人工知能が人間の演算能力をこえるという「シンギュラリティ」として、そこから導きだされた「ポストヒューマン」という「事態」が、もう「まもなく来てしまう」という現実が、告げられている。

むろん、シンギュラリティについては、スティーブン・ホーキングのように人工知能によって人間が滅ぼされる日が来る、と警鐘する者、否定反論する者、「人間変容のヴィジョン」などが上がっている。しかし、そんなコトバすらよりはるかに速く「事態」は進行してゆくだろう。

先だっても、囲碁の世界一の名人が、人工知能のアルファ碁に完敗したが、このような敗北はプロローグに過ぎないことは確かだ。人間は、自らの愚かな「戦争」にあけくれている一方で、人間のハードとソフトを模造した人工知能体と、「日常的」に、対戦し続けなければならなくなったのである。

 

このようなパラダイムシフトの中において、想像力やアートの意味の再定義が、求められないわけがない。クライシスは、どのようなクリエイションの母になるのだろうか。

 

ながらく神話を含めた文学的な想像力は、クライシスに対して何よりも速く反応し、現実とは別の宇宙を生成してきた。世界の滅亡というオブセッションは、繰り返し形を変えストーリーテリングとして、人間の想像力のエンジンになり、現在もさらに劣化した単純な勧善懲悪のストーリーのハリウッド映画が生産され、全世界を洗脳し続けている。帝国への隷属をねらっているのだろうか。それとも叛逆を扇動しているのだろうか。

 

このようなコンフリクトに対して、かつてならば、文学的な想像力が現実とはパラレルな「もう1つの、ありうべき世界」が生成されてきた。様々かたちで「パラレルワールド」が生成されてきたのだ。

例えば、今からあげる小説家たちは、現実を変革したり、反抗しようとした人ではなかった。

カフカやローベルト・ヴァルザーの短編、ムジールの『特性の無い男』。ボルヘスをはじめとする南米のマジックリアリズム。スタニスワム・レムの『完全な真空』、ドン・デリーロの小説『アンダーワールド』やゼーバルトの小説は、いわゆる「ファンタジー小説」なんぞよりは、アーティストたちに、今も多くのヒントをあたえてくれるだろう。

そう、安部公房とフリップ・k・ディックは、アーティストだけでなく、キュレーションに関わる者へ、極めて有効な補助線を与えてくれるだろう。

どの作家のものでもよい。彼らの小説は、無理やり世界を整合性あるものとして提示するのではなく、現実世界の分裂を、傷口のようにそのままむき出しにしているのに気づかされるだろう。

今あげた小説家たちの作品は、夢が全部を思い出せないように、長編であっても何処か断片性をもっていて、それゆえ奇妙な、生々しさをもつ「パラレルワールド」の生成物である。それは、時には妄想や思考の限界、狂気すら帯びている。

 

とりわけ安部公房やディックの小説は、今からわれわれが迎える世界を先取りしている。彼らがもし生きていて、シンギュラリティのクライシスを前にしたら、なんと言うだろうか!

そこにヒントがあると僕は思っている。

 

コンテンポラリーアートのシーンに目を向けてみても、いよいよ「ポストインターネットアート」や「ポストヒューマン」のアーティストたちが、次々に「パラレルワールド」を生成し始めている。エド・アトキンスやイアン・チェンや、カミーユ・アンロなどには注目している。

続いて、このクライシスをテーマとするキュレーションはどんなものとなるだろう?

先例はある。

1992年にジェフリー・ダイチがキュレーションした「ポストヒューマン」展がそれ。国際巡回展となり、さまざまな若手に影響をあたえた。いまからすれば、おとなし目かもしれない。しかし、インターネットや遺伝子科学技術も今ほど進化してないにもかかわらず、予見的だった。アーティストのラインナップも、今見ると90年代の代表選手ばかりにみえるが、25年前によくぞチョイスした。ロバート・ゴーバー、ジェフ・クーンツ、マシュー・バーニー、チャールズ・レイ、シンディ・シャーマン、ジェフ・ウォール、ダミアン・ハーストなど。マシュー・バーニーは、彼のクレマスター・シリーズの前だ。

 

しかし、こう言うとなんだけれど、もう彼らの出番ではないように思えてしまう。今はもう、彼らではない。

やや余談だが、先日マシュー・バーニーが2014年に作った全6時間におよぶ「オペラ」作品『RIVER OF FUNDAMENT』を観た。バーニーの作品は、「クレマスター・サイクル」の全8時間上映も、バーゼルのシャウラガー美術館での彼らのの個展もしっかり観てきた方だが、期待を裏切られるものだった。詳しくは、ここでは省くが、今まで「エントロピー増大」という宇宙における死の宿命を、生体の「変成」「トランスフォーム」というベクトルで解いてきた彼が、単純な転生ナラティブに陥った作品だったからだ。ダミアン・ハーストのベニスでの展示もそうであったが、凡庸な価値転換のアイデアを、物量で押し切ろうとするだけにしか見えない。

シンギュラリティのクライシスに対して、新たなプレイヤーが輩出することなるのは、もはや当然のことだ。

 

で、突然だが。

この章の最後に、いつも気になっていることを書いておきたいのである。それは昨今「ブーム」になりつつある「アウトサイダーアート」への違和感とも繋がって行く話だ。

まずは、ディックの小説『火星のタイムスリップ』や『パーマーエルドリッチの3つの聖痕』でも同じなのだが、あえて安部公房の小説『人間そっくり』を引用したい。これらの小説は、ホラーではなく、読む人の実存を脅かす。

 

「ためらいがちに差し出されたのは、角がすりきれかけた、手札サイズの白黒写真。なるほど、あまりにもありふれすぎているので、かえってすぐには見分けのつかないしろものだった。

「これは   ただの公衆電話じゃないの    」

「それが、残念ながら、まさに似て非なるものなんですね。これこそ火星文明の基礎ともいうべき物質転移のステーションなんです。デザイン盗用も、いいとこだな」

 

 1967年だから50年前のSFだ。続いて、新潮社の紹介文をそのままのせよう。


《こんにちは火星人》というラジオ番組の脚本家のところに、火星人と自称する男がやってくる。はたしてたんなる気違いなのか、それとも火星人そっくりの人間なのか、あるいは人間そっくりの火星人なのか? 火星の土地を斡旋したり、男をモデルにした小説を書けとすすめたり、変転する男の弁舌にふりまわされ、脚本家はしだいに自分が何かわからなくなってゆく……。異色のSF長編。

 

地球にあるものは全て、火星にあるものの、模造、似て非なるものなのだと、火星人と自称する男はいう。主人公は「しだいに何かわからなくなって」どうなるか?

 

「気違い」になってしまうのだ。

 

安部公房の『人間そっくり』は、「パラレルワールド」と「気違い」をこれほどにまで、はっきり書いた小説はない。

ディックは違う形で、なんどもこの模造人間、シミュラクラについて小説の中で書いた。一番代表的なのは、短編「トータルリコール」で、これも主人公は、火星に行った記憶を植えつける話しになっていて、まるで瓜二つ。

シミュラクラのイメージほど、シンギュラリティ以降の人間のあり方に、つながるものはないような予感がする。AIは、話し相手になるか、「人間そっくり」の敵となるのか。

もう始まっているが、進化したデバイスを手に入れた反面で人間は、知識も記憶も記録も、全てをクラウドがストックし、確実に人間は記憶喪失者、無思考になってゆくだろう。物の形でクリエイションしないで「価値」だけを手に入れたいという欲望もキックされ続けるだろう。

 

ならば、人間はどうする?

その時にアーティストなら、何をなすべきか?

 

妄想すること?

それならディープランニングが追いついてくるだろう。

狂気は?

狂気を、ディープランニングはどうあつかうのだろうか。

バリントン・J・ベイリーというSF作家は『禅銃』という傑作小説で、白痴の人猿キメラしか使えない禅問答で機能する兵器を描いたが、禅問答はディープランニングはできるのか。

 

AIというシミュラクラ、つまり、「他者」が「私」を偽装するシステムが全世界を覆う時、全てのアートは、いま我々が「アウトサイダーアート」と呼んでいるもの、そのものになっていくだろう。

 

やっぱり、安部公房やディックの小説を、コンテンポラリーアーティスト目指す者たちは、今こそ読まなければならないね。

 

次回15回は、コンテンポラリーアートにおける「強度」について、です。