コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

13「他者性」とウォーホル・モデルについて

さて、現在におけるアートとアーティストの基本について、再度明確にしておきたい。それは、自己表現ではなく「他者性」をいかに取り込むか。そして、アーティストのモデルについても語りたい。

絵画を表現形式として選択している人は、いつまでたっても「絵描き」が基本的なアーティスト・モデルになりがちだ。賛否はともかくも、ジェフ・クーンツやダミアン・ハースト村上隆らの成功を鑑みるに、僕は、やはりアンディ・ウォーホルこそが、基本的なアーティスト・モデルだと公言してはばからないのである。彼の仕事、その「作品」の価値が高騰しているのも、やはり無視や否定などできない。

 

2013年に、ニューヨークのサザビーズでウォーホルの1963年の作品『シルバーカークラッシュ』が、彼の過去最高価格1億5000万ドルで落札された(ちなみにその前日、1962年の作品『コカコーラ(3)』が5720万ドルで落札された)た。評価の高騰は、マーケットばかりではない。

彼は、1987年に胆嚢手術後の合併症により59歳で死去した。生前から充分に「成功」したアーティストであったが、その「価値高騰」は亡き後ますますエスカレートしている。世界の大型美術館が、さまざまな異なった角度からのキュレィションを加えて、彼の芸術価値を増幅させているのだ。

 

まだ死後25年もたたないのに、「現代美術の王」に押し上げる「怪物的な力」はどこから来るものなのだろう?そのことを冷静に分析しなくてはならない。

 

しかし、ウォーホルを理解することはやっかいだ。彼自身も

 

「謎は残しておきたいんだ。自分がどんな人間かなんてことは話したくない。だから聞かれるたびに答えを変えてるんだ」

 

とつねづね口走り、ジャーナリズムの取材をケムにまいてきた。多くの批評家やジャーナリスとたちも、「ポップアート」のラベルを貼るだけで安全処理してきた。しかし、ウォーホルの魔力を理解したければ、まず彼が、それまでの「アート」や「アーティスト」と違う「別のモデル」につくり直したと捉えることから始めた方がいい。19世紀的な「真善美」や「人生」を追求したようなアーティストや作品と、全く異なった原理でできたアートなのだ。

 

ウォーホルが「新しいアーティスト」になろうとした時、彼はすでにコマーシャル・イラストレーターとして若くして成功していた。受賞の名誉、金を手にしていたのだ。しかしそれは逆に、アーティストとしては「ハンディ」だったし、当時のアートシーンはポロックやデ・クーニング、ロスコたちの「抽象表現主義」が力をもっていた( 今になってみれば実は難解な批評言語に支えられ、神格化された部分がかなりある。それらは、新しいアートに見えて実は、ヨーロッパ起源の「古い」のアートを引きずった産物であったのだ)。

 

だからこそウォーホルは、「別の方法」で「アーティストになる」ことを発明しなければならなかった。彼はコンセプチュアルアートの導師マルセル・デュシャンにインスパイアされ、同期生ともいうべきジャスパー・ジョーンズラウシェンバーグとの邂逅により孵化をとげる。まずそのポイントは「ポップ」という思考である。

ウォーホルは60年代を回顧した『ポッピリズム』でこう述べている。

 

「一度ポップを”つかん”でしまえば、標識ひとつも以前と同じようには見えなくなる。そしていったんポップ的な発想をしはじめると、アメリカも以前とは違うふうに思えてくるのだ」

 

「まわりの人たちはまだ過去形で、つまり過去を参照しながら考えているためにそのことに気がつかないのだ。だけど必要なのは自分が未来に足を踏み入れていると知ることなので、その自覚さえあれば未来に生きられるというわけだった。謎は消えてしまったけれど、驚きはいまはじまったばかりだった」

 

重要なのはポップのモチーフやスタイルではなく「発想」なのだ。それも60年代という世界の日常的な現実から「ポップ的発想」を生むみ続けることが重要だった。

 

「ポップ的発想」の実践の第一はまず全てを「表面化」してしまうことである。有名な「僕を知りたければ表面を見ればいい」「僕はカラッポだ」という彼の発言は独自に「未来」を開拓する戦略的なステイトメントといえる。また、シルバーのカツラとサングラス。そのファッションの選択はもまた、自分を「鏡」のように全てを反射させる表面にする手品の始まりである。

1963年にスティープルギャラリーの初個展で、彼はそれまでの「習作」を整理し、キャンベルスープの作品を出す。そして個展終了直後に、マリリン・モンローが死去するや、始めたばかりのシルクスクリーンを使って作品をつくった。しかも使用した写真は、モンローの映画のプロモーション用のもの。のちには新聞記事の写真からジャクリーヌ・ケネディのシルク作品も制作している。

 

デザイナーがよくクライアントがある仕事を、あたかも自分の「作品」と呼んでしまう愚行を彼は犯さない。彼はアートには、頭脳的なシフトが不可欠であることをよく理解していたのだ。彼はコマーシャルの仕事のイラストを「アート」として粉飾することや、流行の抽象表現主義スタイルを選ばない。

そうではなく、すでにコマーシャルやメディアで流通している素材を「アート化」することを選んだのだ。

彼の言葉で言えばそれは「ノーコメント」絵画ということになる。そこにあるだけ。それ以上にも以下にもメッセージはない作品。「そのやり口」を冷たく押し通すこと。それが価値のシフトだと彼は確信犯的に分かっていた。

 

他にもウォーホルの戦略的な発明は、様々にある。

同時期のポップアートのライバル、リキテンシュタインが、コミックの網目のドットを拡大する発見をしたのに対し、ウォーホルが選択した作戦は、「量や反復へ行く」という決定だった。それを行なうための技法がシルクスクリーンである。

 

「刷るたびに多少の違いはあっても同じイメージをつくることができる。実に単純だったーー速くてしかも偶然性がある」

 

彼はそう述べている。

「戦略的な発想」に、彼の勝因があるーーそう結論を急ぎたいところだが、あっさり言ってしまっては戦略家としての細部を見落としてしまうだろう。

ウォーホルの重要さは、その戦略的な選択を、かつてないカオティックな実験の連続の中に身を委ねて手にいれたところにある。

例えば、『ポッピリズム』で彼はこう述べる。

 

「今から考えると。60年代末のファクトリーでの僕にとって大きな意味をもっていたのは、すべて機械的な行為だったように思う」

 

ここで言う「機械的」というのは文字通り、シルクスクリーン印刷や16ミリのボレックスカメラ、テープレコーダー、ポラロイドカメラなどを指す。それらは現実を「表面」へと変換する装置なのだ。従来ならばそこに技術の取得やオリジナリティ、何よりも「私」という表現主体が必要だった。機械は、明確な「他者」である。ウォーホルはメディアを重視し、可能な限り「私」を消す。彼の本は、日記すら電話の口述で出来上がったものだ。しかもそれは自分のこと以上に、まわりで起きた出来事、うわさ話、ニュースでふくれあがる。批評家が彼の作品を分析しようとしても、彼の作品が世界そのものにな

ってしまたから、分析不能になる。

 

いかに徹頭徹尾、「私」を「他者」化できるか。

ウォーホルは 価値転換は、デュシャンの「他者」を、さらに発展したものといえるだろう。デュシャンが隠者ならば、ウォーホルはアイコンである。

 

さて、シルクスクリーンによる「メタ絵画」の話に戻ろう。

 

絵画のようで絵画ではないもの。

それを機械的に量産すること。

 

彼の発見は、機械やメディア自体が批評性を持つということだと言ってよい。

それは彼の内部からではなく、外からやってきた。彼の実践は60年代の「ファクトリー」のカオスとともにあったのだ。

ファクトリーという実験場がなければ、ウォーホルは、ただの頭脳プレイヤーにすぎなかったかもしれない。ジェラルド・マランガやポール・モリッシーそしてビリー・ネイム。彼らなくしてファクトリーは誕生しなかった。家賃はウォーホルが払っていたけれど、部屋を銀色にしたのはマランガだし、写真をドキュメントにしていたのはビリーで、ポールは映画の共作者であった。ウォーホルが大音量でかけるロックミュージッークとビリーがかけるマリア・カラスのアリアがまじりあう無感覚の中で、ウォーホルはスタッフを動員し、次々にシルク作品を「生産」した。過去にあった画家の「アトリエ」と、なんと異っていることか!

 

ファクトリーは、アートの歴史において特筆すべき発明だと思われる。ここは、化学反応、化学融合の場であった。

 

混じり合ったのは音楽であり、男女のセックスであり、死や生も、地位や生まれ育ちの差異も、ファクトリーという、銀色の鏡地獄の中で混ぜ合わされた。

 

さてもう1つ。ウォーホルの作品と言えば、たいていシルク作品を思い浮かべるかもしれないが、実は、映画こそ彼が異常なぐらい執着した表現だった。映画と言ってもウォーホルが撮ったのは5時間以上男が眠り続ける姿を撮った『スリープ』や、8時間以上ただエンパイアステイトビルを撮り続けた「映画」だ。

映画のようであって映画でないものをつくること。これもまたポップ的発想によって「未来」へ生きるためにウォーホルが発見した方法だった。

ウォーホルの映画は、「退屈」が基本だ。ウォーホルは、こう言っている。

 

「退屈」が好きなのは、つまらないものが好きなのではなく、見ているうちに意味が無くなっていく感覚が好きなのだ」

 

だから彼は他人からすると何もおこっていないようなことを、じっくり見るのを面白がった。

田舎からでてきた名士の子女であったイーディはスターになりたがった、ウォーホルは彼女を「スーパースター」と呼び映画に撮るが、そこに映し出されたのは、イーディが遊び戯れたり、財産を使い果たして独白していたりする姿だった。

ハリウッドのスーパースターはフィクションを演じるが、ウォーホルの映画は、ファクトリーのカオス効果によって「フィクション化された生活」を生きる者の姿をリアルに撮影される。

ドイツから来た「スーパースター」ニコの場合は、音楽だった。たまたまその頃出会ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドと組み合わされ、デビューさせられる。ヴェルヴェッツは、同年代のローリングストーンズやドアーズの反転像とも言える存在であり、そのライブは音楽のようで音楽でない爆音に満ちていた。これもまた「ロックのようでロックでないもの」を選ぶ、ウォーホルの「ポップ的発想」のたまものと言える。

映画というメディアを使い、人の「欲望」を剥き出しのままに記録すること。女優として生きたいという純粋な欲望、スターとして生きたいという欲望、有名人としてもてはやされたいという欲望。

 

その「欲望」の姿を「いけどり」にすること。

 

それがウォーホルの映画であったのだ。結果、映画は作品が目的ではなく、映画に生きることが作品となる。ファクトリーに関わった者は皆壮絶な運命をおびたが(イーディは29才で命をたつ)、まるで映画みたいな人生を味わったということからすれば、「かけがえのない幸福」、「快楽」を味わったともいえるだろう。

 

68年に「ファクトリー」は移転し、白い「オフィス」へと変身する。ウォーホルは制作を「注文絵画」へとシフトし富を増殖させ、「ビジネスアート」として成功。

 

このようにしてアンディ・ウォーホルは、60年代の過剰なまでのカオスを経て、70年代に「新しいアートのモデル」を確立させたのだ。

 

自己反復は冨を産む。

 

モンローにかわり、毛沢東を刷る、有名人のポートレイトを受注する、企業からのコミッションワークを引き受ける。ウォーホルという名のアートエンタープライズ(アート産業)の確立!アートの起業と言ってもよい。

ウォーホルが87年死ぬ直前にとりかかっていたシルク作品は、時代を画したTV番組のイメージを集めた『TVの伝統』シリーズだった。その中でも「ムーンウォーク」。メディアは時代とともに新しいスターや事件を取り上げ生き続ける。もしウォーホルが生きていたら躊躇なく、メディアがつかむ「新しさ」をとりこみ続けただろう。

 

そう、繰り返し続ければいいのだ。反省などない。

ポップには、死などないのだから。

 

ウォーホルは死んだが、彼が発明した「新しいアートのモデル」は、間違いなく、ますます増殖しつづけていくだろう。

 

次回14回目は?

おたのしみに!