コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

12ディメンション:次元はアート思考の最重要なものである

誰にでも、好きなアーティストはいる。僕の場合は、幼少に出逢ったパウル・クレーであり、中学の時に新刊で出た「R荘」の絵が表紙の「ファブリ世界名画集クレー」を買って、決定的になった。クレー好きの人なら必ず知っている、チュニジア旅行におけるカイルアンのエピソードも、この時に知った。

クレーは日記に書いている。

 

「まず大いなる恍惚。個別ではなく、ただ全体のみ。そしてなんという全体を通であろう。千一夜物語がまぎれもなく99パーセントの現実の姿をもって現存している。なんたる芳香。ほんとうにうっとりとすると同時に、ほんとうに心が澄みわたる。構築と陶酔。繊細でまた明確な色合いをもつ夕ぐれ。わたしは今、仕事の手をやめる。なにかしら深く、なごやかに胸にしみわたる。わたしはそれを感じて心安まる。齷齪(あくせく)することはない。色がわたしを捉えたのだ。こちらから色を探しもとめるまでもない。色が永遠にわたしを捉えたのだ。それは、わたしにわかる。これが幸福のひとときでなくてなんであろうか。わたしと色は一体なのだ」

 

クレーにおける「世界体験」の告白である。

融通無碍への、幸福な入口が開いたのだろう。

アーティストには人生の「特異点」が必要だと思うがしかし、苦悩や死の脅迫観念などでは、もはやあるまい。今や「ゼロ」点は、偏在するし、何度でも反復されるのが、コンテンポラリーな世界なのだ。

 

以前にコンテンポラリー・アーティストにおいては「天才」神話はとっくに失効していて、新しい「ヴィジョナリータイプ」になっていると書いたが、クレーはその祖というか、未来のモデルとでもいうべき存在だと思う。2つの世界大戦のはざまに生き、61歳という意外なほどの長くはない人生の間に、膨大な「小さな絵」を描いた。しかし、その「小さな絵」は一見するとシンプルなユーモラスなものであっても、つねに複雑な内在的な構造を持っていて、見飽きることがない。そして、それらの絵が、表現主体の衝動によって生まれたのではなく、この宇宙を構成する点、線、面、色、運動などの独自の探求によってもたらされていることが重要なのだ。形態ではなく、どのように生成、形成されてくるのか。

 

クレーの死後に『造形思考』のタイトルのもとに編集された手稿は、ワイマールのデッサウ時代に、講義で使われたもので、学生を前に喋ることを前提とした、生き生きとした思考のフラグメンツである。

フォルムの造形や、点・線・面・空間の定位や色、リズム・運動など。その思考は観念的なコトバでなく、実作を生成しながら進められている。

 

この『造形思考』は、タイトルが造形なので、平面作品を生み出すための教科書と思われがちだが、全く違っていると僕は思う。

 

それは、今日的に再定義するならば、アートにおける「次元思考」の本である。

さらに言えば、この本で「コトバ」によって、不自由に語られていることは、今こそコンピュータ・プログラムに書き直され、次元教育に活用できるようにすべきではないかとさえ思われるほどだ。

 

クレーがバイオリンを弾き、音楽の才能も合わせ持っていたことは、ヴィジョナリーとしての彼の異能を物語る。 指揮者で作曲家のピエール・ブーレーズ が執筆し、ポール・ テヴナン が編集した『クレーの絵と音楽』 は、単に絵画と音楽の類似や、共感覚論にとどまらない予見の書、必読書だ。

クレーはことあるごとに「ポリフォニー」について語っている。

「ポリフォニックな絵画は、絵画では時間的なものがより多く空間的なものであることによって、音楽にまさっている」とすら書いている。「芸術は、見えるものを再現するのではなくて、見えるようにするのだ」と言う彼の有名なコトバもこの文脈でとらうなければならない。知覚の作用を音楽以上に視覚化、可視化することのありようを探求し、発明するのだ。形態はそのままならは、線や面という死んだカタチだが、クレーはそこに視覚の運動性、つまり時間をいれたものとして表出しようとする。

クレーは「動力学的」と言うコトバもよく使うが、彼のやったことは、ヴィジュアルランゲージの開発と言ってよい。つまり、クレーはアートというものを、「高次元」からの視点で捉えていたことが極めて重要だと思われる。いいかえれば、生命現象であり、自然であり、世界の成り立ちからアートを生成させるということでもある。

こんなことを、キチンとやったアーティストは、他にそういない。

 

絵画を学ぶ美大生たちは、大抵は2次元の思考の中で呻吟している。かつては、セザンヌ印象派のアーティストたちのように、3次元をいかに2次元に変換するかについて考えた者もいるが、そのような思考はすでに過去のものだ。そこから脱出したデュシャンは、絵画を「網膜的なもの」として自己否定的に捨て去り、4次元の3次元への投影として「大ガラス」の花嫁の部分を描き、またレディメイドの「影」をメタフォリカルに作品化した。

このように絵画史においては、「次元」の問題は、つねに、低次元から高次元へのジャンプという形で、徐々に取り組まれてきた。20世紀初頭のキュビストたちは、ベルグソンの時間概念やポアンカレの数学や非ユークリッド幾何学をヒントとしつつも、あくまで絵画の枠内の制作に止まった。デュシャンの「4次元の3次元への投影」としての作品も、その流れの延長での解釈にとどまりがちだ。

 

デュシャンからコンセプチュアル・アートへの真の革命性は、作品を作るにはコンセプトが必要だ、という話ではなくて、アートは実は脳の機能によって決定されているということが暴露されたと言うことである。

デュシャンが4次元を言い出した頃はまだ、脳科学は今ほど解明はできていなかったし、フロイトによる精神分析学が台頭してきた時代だった。アートは、「暫定的」に「夢判断」に手をだすことになってしまう。そしてシュルレアリスムの誕生だ。

研究がはるかに進んだとはいえ、現在においても、脳の潜在的な巨大な能力はむろん解明されていないし、一方で「高次元研究」、「高次元認知」の問題も進んでいるとは言えないだろう。まだ、この宇宙自体も「何次元」なのか解けていないのだ。

しかし、20世紀において最も注目すべきアートの潮流は、「イズム」としてのアートではなく、「テクノ」という周縁での接点で発露したのだと僕は考える。今や精神分析学に依拠したシュルレアリスムは、もはやファンタジーと同じぐらいに劣化、通俗化されて、ムザンにも「驚異」の力は完全に失効した。ポケモンGOやVRに全くとって変わられてしまったのである。

 

クレー以外で、「次元」そのもの、あるいは「次元変換」をテーマとする「テクノ系」アーティストとして注目されるべきこの当時の先駆者は、エル・リシツキーやモホリ=ナジだと思われる。彼らは、デザイン、写真や映画、空間構成などのメディアから入ったから、アートヒストリーの傍流にいるように思われるが、未来においては、極めて重要な位置に変わるだろう。

 

少しだけ彼らについて書いておきたい。まず、エル・リシツキー。彼は1890年に生まれ、1941年に死んだから奇しくもほぼクレーの人生と重なる。彼が生きた世界大戦とロシア革命の時代は、政治・社会の変動にとどまらず、思想や芸術のありかたが根底から覆される、実験の時だった。大抵は彼のことを、グラフィックデザイナーや建築家という肩書きでくくるが、彼は自身は自分のことは、そんな狭く古臭いカテゴリーを超えた「構成主義者」だと考えていた。1919年からつくったプロウンは、彼の師ともいうべきマレーヴィチのシュプレマチズムから引き継いだ抽象のヴィジョンを、生活空間で展開しようという実験であり、レリーフと建築とインスタレーションをくみあわせたような作品だった。また、ソビエトの博覧会のデモ空間構成など、空間に情報や運動をいかに組み込むかという野心的な仕事も行なった。さらに特筆しておきたいのは、本の仕事だ。1923年に詩人マヤコフスキーと組んでつくった『声のために』は、90年近く前のものとはとても思えない。なまなましい未来形である。本の右袖には、ピクトグラムとインデックスがある。各ページは右に、太陽との対話が書かれた詩がリニアに流れているが、左ページは表音的な世界がグラフィック化されている。重要なのはこれらの仕掛けが、詩を声に出し朗読するために総動員されていることだ。

パフォーマンスは、3次元を超えた時間芸術でもある。このリシツキーの本は、デザイン領域を逸脱する、4次元表現への挑戦であった。

 

リシツキーがシュプレマチズムから建築などの「次元変換」を試みたとすれば、モホリ=ナジは写真と映画というテクノの領域である。彼は1895年に生まれ1946年に死んだから、彼もクレーやリシツキーの同時代人である。

写真は誕生以来、先行した絵画との類似性の中で進化したが、本質的には「機械」のアートであり、「脳」のアートである。写真はカメラという機械、外部ヴィジュアル情報の入力装置を使って、人間では認識できない世界の姿を視覚化する。モホリ=ナジは、写真を世界像のイラストするものではなく、知覚拡張のシステムと考える。3次元の2次元投影としての「フォトグラム」や、多層なレイヤーを衝突させる「フォトモンタージュ」。幾何学的な動く立体「ライトスペースモデュレターLight-Space Modulator」。それをさらに動画で撮影しモンタージュをくわえた映像作品「黒・白・グレーBlack.White.Gray」など。それらは彼のバウハウスでの教科書であった『ニューヴィジョン』の考えを、実践で展開したものだった。

 

先ほど写真は「脳」のアートだと書いたが、写真は見えるものしか写らない。しかし、そこに時間や永遠を読み取ろうとするのは、脳が次元を補正するからだ。虚構やイリュージョンの話をしているのではない。脳のトリックや誤用の話をしているのだ。そこに、不可知な高次元が顔をだしてくれるのではないか。そんなことができるのは、アートだけではないのか?

 

我々は3次元の世界に生きていて、時間を可視化することはできないが、時間の針の前後により、見えない時間を想像しているだけだ。時間を捏造しているのだ。しかし、生命現象は時間と空間をともに生成させる。

 

ならば生命は4次元(高次元)を生きているのだろうか。

夢は何次元の投影なのだろうか。

高次元はどのように触知できるのか。

 

コンテンポラリーアートを、脳との対話や機能から生成させること。また、脳が持つ次元能力から生成させること。

4次元から絵画だって再定義すればよい。そうすれば、「絵画は死んだ」なんていう隘路に突っ込まなくてすむ。

デジタルで動画や写真をやり、2次元もやればよい。

3Dデータで立体も動画も平面もやればよい。

パフォーマンスと2次元を同時にやることを考えよ。

それがリシツキーが「アーティスト」や「デザイナー」に代わってイメージした「構成主義者」に他なるまい。

今まさにアーティストたちのワールドは、コンピュータという、AIに向かう機械と同居する世界である。

さて、君ならどうする?

 

僕は、「トランス・ディメンション」ということが、コンテンポラリーアートの、重要な思考法であり、可能性だと思っている。僕が主宰しているG/Pgalleryでこの10年近くアーティストたちとトライしつづけている(この具体的な実践については、また別の機会にたっぷり書きますね!)。

さて、どうなるか。

 

次回13回は、「他者性」とウォーホルというモデルについて、を書きます!