コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

9アートの「反復」するゼロ点

歴史はリニアに動いてはいない。スパイラル状に、回帰と再編を行ないながら動く。前に向かってゼロへ進む。それが破壊と再生の意味だ。アートは、この100年の間に2度のゼロ点、アートワールドの決定的なゲームルールの改変、システムのシフトを行なった。この転換のバックには、戦争というカタストロフや、機械やテクノロジーの暴力的な介入がある。そして我々は今、3回目のゼロ点にいる。その認識が作品を作ったり、批評、キュレーションの基本認識となる。第9回は、アートにおける「反復するゼロ点」という考え方の話をしたい。

 

まず1回目のゼロ点の話からだ。

ダダである。

チューリッヒ、ここからダダが始まった。

チューリッヒは、大好きな街だ。なんだか相性が合う。アートバーゼルに毎年通うようになってもう16年。わざわざチューリッヒに宿泊し、バーゼルへ通うこともたびたびだ。今はアムスのステデリック美術館の館長になったが、ベアトリクス・ルフの統括時代のクンストハレ・チューリッヒは見逃せないキュレーションが必ず行われていたし、レーベンブロイのビール工場をリノベしたコンプレックスには、イカすミュージアム、ギャラリーや出版社、ブックストアが入っていて、今でも入り口の階段を登るたびに、身体の底からワクワクする。僕にとっては、世界で一番刺激的な場所だ。

そしてこの街には、近年リニューアルしたチューリッヒ芸大があり、そこを出身とする才能溢れるコンテンポラリーフォトアーティストたちと出逢ってきた。今や教鞭をとるマリアンヌ・ミュラー、鬼才ステファン・バルガー、タイヨー&ニコなど。彼らはみなチューリッヒ芸大出身だ。ちなみにフィシュリ&ヴァイスもチューリッヒ生まれ。モノの連鎖的爆発ともいうべき傑作「事の次第The Way Things Go」や食器や家具を絶妙なバランスで組み立てた写真シリーズ「均衡Equilibres series」を彼らはつくった。直接的な影響とまでは言わないが、明らかにそこにはダダやレディメイドの影を誰もが感じるだろう。不思議なことにバルガーやタイヨー&ニコたちも「コンテンポラリーアートとしての写真」の代表選手でありながら極めてオブジェクティブな志向が強い。以前、ミュラーに誘われてチューリッヒ芸大のディグリーショー卒展に行ったことがあるが、学生の作品の大半が、映像プロジェクションと出力と材木などを組み合わせたインスタレーションで、それらはオブジェクト志向において共通性が高かった。ミュラーが学生をつれて東京にリサーチツアーに来た時に、フォトアーチストの赤石隆明を紹介したのだが、一瞬で意気投合したのはいうまでもない。

 

さて、チューリッヒにはダダの発祥地 、活動拠点キャバレー・ヴォルテール があった。今はカフェ兼アートセンターのようになっていて観光地化されているが、迷路のような路地裏の雰囲気は、往時をしのばせる。ちなみに裏奥の通りには革命家レーニンが亡命して一時住んでいたアパートが残っていて、その前の小さな公園は僕の愛して止まない場所の1つだ。

キャバレー・ヴォルテールは1916年に開店。ドイツ文学者フーゴ・バルと彼の妻エミー・ヘニングスがスタートさせ、トリスタン・ツァラは「ダダは何も意味しない」と宣言する。ハンス・アルプ、リヒャルト・ヒュルゼンベックら亡命者系のアーチストが戦火を避けてアジールであるチューリッヒに集まっていた。バルやツァラによる宣言や無意味な音響詩の朗読、異装によるパフォーマンス。アルプらが始めたコラージュなどの実験室といってよい(追記しておきたいが、2004年にバーゼルのKunstmuseum で開催されたアルプとクルト・シュヴィッタースのコラボ展は最高で、今でもわすれられない。戦争の破壊の中からコラージュという「分裂と再生の手段」を始めた2人のダダイストが、晩年にそれぞれが新たな「生命表現」に向かったことが、極めて示唆と予見にあふれているからである)。

昨年2016年はダダ100年で、スイスは年間を通し、記念イベントのプログラムを多発させた。国をあげてダダを祝う。そんなことは日本では考えられない素晴らしい見識だ。

 

ダダという「反芸術」あるいはデュシャン的に言えば「非芸術」の精神を持ち続けること。

それは「精神」だ。

 いや「精神」と書くと分かりやすいが、誤解されるかもしれない。

「物質的でないもの」と言った方が正確だろう。

 

ある体験について書いておきたい。2005年の秋にポンピドーセンターで、過去最大のダダ展を見たことがあった。1960年代末期に高校時代を過ごした者にとってハンス・リヒターの『ダダ ― 芸術と反芸術』(針生一郎 訳)は、最もヤバイ本だったから大半の「作品」は写真で見覚えがある。

しかしその時に味わったショックは、それら全てがすでに「ヌケガラ」だったということだ。寒々しい「ザンガイ」と言ったっていい。我々は、ありがたく「反芸術展」をみているわけだが、実はもうそこにはダダはない、生きたものはない。ダダなるものは、去ってしまったか、蒸発してしまっているのだ。ツァラやバルら、ダダ「イズム」の始祖と言われる者ほど早く離脱した理由もここにあるだろう。

ダダにしがみつくことは、最もダダではない。そんな体験だった。

 

しかし誤解しないで欲しいのは、この体験は、オブジェとしての作品を否定しているのではなく、決定的に言葉的な意味での「コンセプト」あるいは、「精神」と「モノ」の「否和解的な分裂」がダダだと言いたいのだ。

フーゴ・バルの本『時代からの逃走』は、当時の日記やアフォリズムで構成された、リアルタイムのダダ資料だ。バルはこう言う。

「のろわしい言語には、貨幣をたえずなぶってきた仲買人の手で汚されたように、汚れがこびりついています。わたしは、言葉が言葉であることをやめ、そして言葉が言葉でありはじめる、そういう場所で言葉をもちたいのです」

これは、言葉に対する根本的な「疑念」「問い」である。「言葉で話しても分かり得ない」「言葉なんて無力」。このかつてない、決定的な「不条理」は、第1次世界大戦という史上初めて無差別大量殺戮兵器が導入されたカタストロフがもたらしたものだ。

美しい夢のような絵を描き続けた画家オーギュスト・ルノワールの息子である映画監督ジャン・ルノワールは、映画『大いなる幻影』で、第1次大戦がいかに古き騎士道精神など、過去に人間が信じていたものを無残に失効させたか、非情に描いた。

この不条理がアートにダダを発生させたのだ。

 

ダダ100周年を祝うイベントは、日本のスイス大使館でも行われたがそのパーティで、その年の「あいちトリエンナーレ」の統括ディレクターとなった港千尋は、非常に印象的なスピーチをした。

「ダダのもうひとつの重要な点は、これが世界で初めての同時多発的な芸術運動になったということです。チューリッヒハノーファー、パリ、ロンドン、ニューヨーク。今のネット社会を先取りしていたとも言えるのです」

港千尋は鋭い。彼のダダ解釈は過去のものではなく、エジプトや香港、台湾での、多発的な民衆の創発的レジストとポストインターネットの「今」を、ダダと重ね合わせていた。

 

ちょっと話が前に行きすぎてしまったが、生涯移動しつづけることになったクルト・シュヴィッタースのように逃避と亡命の運命の中で、アーチストという「価値」の騒乱者が、世界にバラまかれた。

「すべては崩壊し、その破片の中から新しいものが生まれてこなければならなかった。この破片が「メルツ」だ。破片をもとあった姿でなく、そうであるべきだった姿へと変えることは、私の中の革命のようであった」

(The Collages of Kurt Schwitters: Tradition and Innovation by  Dorothea Dietrich )

「メルツ」とは、シュヴィッタースが生み出した分裂生成のアートフォームであり、2次元表現に止まることなくメルツバウのような建築や、音響詩など、

「物質的でない」パフォーマーティブな表現にまで及んだことが重要だ。

もう1つだけ指摘しておきたいのだが、ダダはじつにノンシャラン無頓着に、姿を変えつづけることも「精神」として受け入れたということ。ダダに節操はない。「ゼロにする」ということを巧みにあやつるマルセルデュシャンのようなアーチストが生まれる一方で、無節操、アンチモラルにやることを変えつづけるアーチストも出現する。2016年のダダyearにおいてKunsthaus Zürichは、デュシャンの友人でもあったフランシス・ピカビアの生涯を200点を超える作品で再構成した。そこにはとても1人の人格ではありえないスタイルの作品が並ぶ。多様性ではない、まさに分裂生成でなのである。

 

ダダについての饒舌に語りすぎてしまった。

話をすすめよう。

第2のゼロ点、シフトは、ダダと現在のちょうど中間時点、1960年代末〜70年にやってきたコンセプチュアル・アートの出現である。

コンセプチュアル・アートについて概括できるガイド書としてはトニー・ゴドフリーの『コンセプチュアル・アート』が必読書だ。最低読むべき。ゴドフリーは、コンテンポラリーアートの研究者だが、現在はフィリピンの大学で教鞭をとり、アジアのアートに興味をシフトしているようだ。訳者は、今はリタイアされてしまったが東京芸大先端芸術表現科教授で、スーザン・ソンタグとの交友などでしられる木幡和枝。授業でもよく使われていたのだろう。

この本は、コンセプチュアル・アートの混乱をそのまま反映したようなところがある。ゴドフリーは苦労してイントロで、コンセプチュアル・アートにまつわる不毛とも思える「発祥」「定義」「本家争い」について列挙している。ソル・ルウイットやジョゼフ・コスースや評論家ルーシー・リパードなどの「定義」合戦は、我々にとっては全く、意味がない。

しかし、コンセプチュアル・アートの嵐のようなシャフルの闘争過程がなければ、現在の我々のコンテンポラリー・アートは無いといっても過言ではない。

昨年ロンドンのテートブリテンで開催されていたイギリスのコンセプチュアル・アート展「Conceptual Art in Britain: 1964–1979 」を「観た」のだが、ほぼただ延々とケースの中にタイプされたテキストが入っているだけ。あんまり「観客」もいないので、まさにゼロ点。つい爆笑してしまった。

 

次回10回目は、コンテンポラリーアートの2度目のゼロをめぐって、あるいは、具体美術協会(前身は0ゼロ会と言った)とオランダの前衛美術グループZEROなど、ゼロがどのように「価値」を分裂生成していったか、そのやり口について突っ込んで考えたい。