コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

6今、アートの「価値」はどのようにして生まれるのか? その1

2017年時点で、史上最高額で売買されたアート作品は、抽象表現主義のデ・クーニングが描いた『インターチェンジ』で3億ドル。レコード会社のデビッド・ゲフィン財団が個人取引でヘッジファンドのケネス・グリフィンに売ったものとされる。この時、グリフィンは、ゲフィンからジャクソン・ポロックの『ナンバー17A』も2億ドルで購入している。

我々は、ここで5億ドルもの金が「抽象表現主義」の作品に「投資」されている現実に直面させられる。

もちろん購入の意図は、アート愛好目的ではない。

投資する価値あるものとして、クーニングやポロックが、株のように「銘柄」となっているのだ。

2017年時点の、オークションを含む最高額売買作品のリストのトップ10を見ても、セザンヌピカソをおさえて抽象表現主義は4作品も入っている。ちなみに代表作家格のバーネット・ニューマンはトップ10には入ってはいないが、100億円は超える値段がオークションプライスだということも付け加えておきたい。

もちろんクーニングは1955年に自分の作品の「値段」が史上最高値をつけるなどと微塵も思わなかった。オランダから移民してきたクーニングは一文無しで、ペンキ屋の仕事から始めた。彼の特長であるブラッシュストロークによるアブストラクト・レイヤーの見事さは、ペンキ屋の経験からくる。アシル・ゴーキーらと知り合いザ・クラブのアートコミュニティという仲間はいたが、アル中、失恋、そして作品の酷評などに見舞われていた。初個展も40歳を越えてからで(ちなみにニューマンも45歳で初個展)スター扱いなどされてはいない(1997年に93歳で死んだ時はアルツハイマーだったといわれる)。ポロックやニューマンも、今生きていて、この状態をみたらなんというだろう。

当然の結果?それとも錯誤?

 

アートワールドも、資本主義のゲームの激しい流動性にさらされている。クーニングの3億ドルを実態から遊離した価値だよと言いすてることは、あまりに安直だ。美術教師はよく「いい作品を作りつづけていれば、いつか報われるよ」と、当たり前すぎて、なぐさめにもならないことをいまだに言う。そのような、変化し続けるアートの価値のルールについていけない教師は、未来のアーティストにとって害でしかない。

 

しかし、アートの「価値づけ」は、「あまりにも」と強調したいほどの、不確実性に満ちている。

 

ゴンブリッジの美術史のルールブックや、グリンバーグの批評集、いや最新の部類に属するニコラ・ブリオーの『関係性の美学』やそれに批判的立場から書かれたクレア・ビショップの『人工地獄』を読んだら、成功の方程式が会得できるのか、というと全くそうではない。

しかし一方で、相変わらず「作品」は止むことなく生まれてくるし、それを「値付け」するギャラリーシステムと、オークションシステムの2つがマーケットのニーズに従って動いている。アトリエの中で黙々とつくられた作品を前に、ギャラリーシステムの中で「たたきあげられた」「目利き」のディーラーたちが、あなたの作品の「値段」「相場」を告げる。テーマ、スタイル、キャリア、どのような人がどんな評価を与えてきたのか。サイズ、ユニークピースなのかエディションなのか。それらが総合的に判断され、あなたの作品の「価値」がきまる。あなたが「いや、自分の作品の価値はもっと高い」と強弁しても、マーケットがそれを受け入れなければ、あなたの作品は値段がないまま。流通しない。買う人との出会いがあって、初めて「価値」となる。

 

クーニング作品の驚異的な「値段」は人々に、クーニングというアーティストの「偉大さ」をうえつける。逆に、高く評価されているから価格が高いのだ、というイリュージョンも捏造する。誰もクーニングの作品に内在している価値生成の仕組みについては誰もまともに議論せず、偉大なアーティストと作品の物語だけが、ひとり歩きし、ブランドヴァリューが形成されてゆく。クーニングの最高値は、クーニングの作品を扱っているギャラリーに棚ぼた式に利益を与える。作品の値段を上げる「口実」ができるからだ。

このようにギャラリーシステムとオークションシステムは、相反する立場にみえて、ここでは重要な共犯者となる。

現在、日本の実験芸術集団だった「具体美術協会」の作家たちの作品が、海外のオークションで極めて高くなると同時に、アートフェアで売買される値段も上昇しているという。マーケットは、いつも新たな「商品開発」を貪欲にすすめる。当時、具体のメインではなかった周辺の泡沫アーティストさえ、今頃になって「巨匠」として捏造化して売ろうとするのだから笑い事ではすまない。

また、ダミアン・ハーストのようにギャラリーシステムやオークションシステムを「ハック」することで逆に自分の「価値」を増幅させようとする戦略的な確信犯もいる(オークションシステムとの共犯といったほうが正しいが)。

リーマンショック直後の2008年秋に、競売大手サザビーズはロンドンでハーストの作品223点のオークションを実施した。落札総額は、1億1100万ポンド(約211億円)を記録する。世界恐慌の最中だっただけに、この巨額な落札は事件としてニュースとなりダミアン・ハーストの株を上げた。おまけにこのオークションは、ギャラリーを通さずにアーティストがダイレクトに出品する、「オキテ破り」の手法だった。これはある意味では、ギャラリーシステムなんていらない、という崩壊の始点だったと後世いわれるのかもしれないし、一方では、リーマンショックによるアートマーケット瓦解を出来レースで食い止めるための茶番劇であったことが、後世暴露されるのかもしれない。

ともあれリーマンショックによって売り上げが急下落したアートマーケットも、その後、よりタフに回復したかに見える。しかし、さまざまな閉鎖系の市場がインターネットによる創発的な新たな仕組みにより、瓦解してゆく趨勢の中で、そのアートワールド帝国の未来が盤石であるはずはない。

 

先取りして言うなら、アートの「価値」を規定してきた2つの大きな要因である「批評性」と「マーケット」が大きな変動にさらされているということだ。いままでの章でも述べたが、ルールはどんどん更新される。今からくる大変化の動因は、改めていうまでもなくインターネットがこの20年に渡って、構築しつづけている、その「生態系」によるものだ。1998年にAranda とVidokle の2人組が始めたインターネット上のコンテンポラリーアートについてのジャーナル、インフォメーション、クリティク、アーカイブのプラットホーム「e-flux 」は、極めて先駆的な活動だ。批評家より、アートライターやアートブロガー。理論家より、戦略的なキュレーターのほうがコンテンポラリーアートにおける「価値」決めの重要なプレイヤーとなることを明確にしたのだから。資料的にも早晩、分厚い展覧会図録や印刷物のCV(アーティストの履歴書Curriculum Vitae)は精度をあげた進化したWikipediaにとってかわられるだろうし。

いつ、誰がトリガーを引くのだろう?

また、アートセールスにおけるonlineサイトの試みも、トライアンドエラーが続いているが、やがてリアルマーケットを凌ぐ新たなシステムが誕生するにちがいない。その時に、そのブレイクスルーを実現するのは、アート業界外からにちがいない。

 

話が、だいぶんと先に行きすぎてしまった。

 

まどろっこしいし、うっとおしいかもしれないが、クーニングを始めとする抽象表現主義やウォーホルなどが、なぜ「価値」あるものになったのが、そのことを検証しておきたいのだ。

デ・クーニングなんて、50年以上前の話だろって?

でも「今」だってあっと言う間に50年後になる。

クレメンス・グリンバーグの批評は、クーニングの作品が3億ドルの値段になることに、内実的に現在でも寄与しているのだろうか。

答えるのは厄介だ。

沢山のプレイヤーが関わってクーニングの「価値」を作る生態系が生まれた。確かに、その「価値」生成のモデルは「古く」て、「賞味期限の切れ」かもしれないが、先行モデルをチェックすることは無意味ではないだろう。

 

第2次世界大戦まで、アート後進国だったアメリカがどうしてイニシアチブを握ることができたのか。「価値」の生態系に分け入ってみよう。

まず不可欠なケース・スタディ。

今から50年近く前、1969年メトロポリタン美術館が、開館100周年で開催したのが、『ニューヨークの絵画と彫刻:1940--70』。キュレーターは、新進気鋭のヘンリー・ゲルツァラー。彼はメトの35室を使って43人のアーティストを選び408点の作品を展示した。ほぼ彼の独断による「選択」。ゴーキー、ポロック、クーニング、ニューマン、ロスコ、ルイス、ノーランド、ステラたち。ジョーンズやラウシェンバーグ。もちろんウォーホルも。

 

 この展覧会がどのようなものであったかを正確におしえてくれる資料が幾つもある。ひとつは、ドキュメンタリー映画作家エミール・ディ・アントニオによる映画『Painters Painting』であり、それを書籍化した『現代美術は語る』である。映画の方は、今やYouTubeでクーニングやニューマンがディのインタビューに答えているのを見ることが出来る(なんと便利)。そして実に優秀な記録者・ライターであるカルヴィン・トムキンスによる『ザ・シーン』。また、『アート・ディーラー―現代美術を動かす人々 』を併読すれば、いかに「売れなかった」アメリカ現代アートをレオ・キャスティリたち辣腕のアートディーラーたちがどのようにセールスしていったかがよくわかるのだ(もう一冊が『グリンバーグ批評選集』)。

 

僕はアブストラクトペインティングが好きだ。子どもの頃から好きで、高校生まで描いて、展覧会もしたことがある。だから抽象表現主義の絵画が、内在的にどのような「価値」生成をおこなったか共感があるし、その「難解」の代表のような作品が市場最高値になるパラドックスについてじっくり考えたいのだ。

次回「その2」はそこに焦点をあてたい。

今回の最後を、『Painters Painting』の中のバーネット・ニューマンの言葉で締めたい。

 

「問題は、われわれおのおの---デ・クーニング、ポロック、そして私---が解明しようとした倫理的な問題とは、「美化すべき何が、いったいあるというのか?」というものでした。だから、きっかけを掴む唯一の方法はまず、美化されうる外側の世界という観念のすべてを捨てること、そして、われわれ自身にとって重要な何かを表現できる可能性---それは人々がミディアムと呼ぶものですが---を見つけることができるようなポジションへと自分自身を置くことだったのです。それがゼロからの始まりという言葉で私が言わんとしたことです。われわれには何の頼るべき土台もなかったし、世界はまったくダメになりつつありました。いや、それ以下でした。酷いものでした」

 

ニューマンは、ゼロ以下からペインティングを始めたと告白する。

それが今や100億円で売買される。

なんというパラドックス!!