コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

1 アーティストになるということは、どういうことか?

 

「この時代」において、「アーティストになる」ということはどういうことだろうか?


アーティストのゲルハルト・リヒターは「Picturing things, taking a view, is what makes us human.(絵を描くこと、あるものの見方を取ること、それが人を人たらしめるものだ)」といい、リクリット・ティラワニは「世界にはもう中心というものがない。アートも、もうニューヨーク、パリ、ロンドンだけじゃない、世界中いたるところで同時にいろんなことが起こっている」と言う。

 

彼らは、われわれと共に、この時代を同時に共有している、つまり、コンテンポラリーアーティストだ。彼らは何をヴィジョンとして持ち、思考法をつかい、作品を作り、展示あるいは売り買いし、生きているのだろうか。アートの世界は、ギャラリストやコレクター、キュレーターなどのプレイヤーで構成された「アートワールド」と呼ばれる社会で出来ており、そこには独特のルール、価値基準が存在する。アーティストはそれに無関係には生きられなくなっている。

リヒターとティラワニを選んだのは、深い特別の意図はない。彼らがアートワールドのトッププレイヤーたちであるかにすぎない。例である。しかしなぜ、彼らは「成功」できたのだろうか?

 

1932年生まれのリヒターは、1950年代に青春を東ドイツで過ごし、ベルリンの壁が出来る寸前に西側世界にやってきた。時空の空白をワープし、そして結果的に「失われた偉大な巨匠」というポジションを手に入れた。彼が描く抽象画は、現存する作家では最も高い価格で売り買いされている(2012年のサザビーズで約27億円)。

リヒターの作品は様々だが、モダニズムというもの自体を、時空を超えてリミックスしているところがある。モダニズムの最後の生き残りというよりも、ポストモダニズムの巨匠といったほうがよいだろう(現存する前世紀的な巨匠の代表はバゼリッツだろう)。しかし彼の発言はペインティングの中に、アーティストをつくるものがあるのだという信念が読み取れ、古臭くきこえるかもしれない。

 

一方、1961年アルゼンチン生まれで、タイ人というハイブリッドな人生をもつティラワニは、リヒターとはまるで似ていない。世代もちがうし、文化背景のみならず、ナチュラル・ボーンにポストモダンだ。アートに対する考えも驚くほど異なっている。いまやあまりにも有名になってしまったが、彼の出世作は、ギャラリーに来た観客にタイ料理をふるまうというものなのだから(これを批評家でキュレーターのニコラ・ブリオが「関係性の美学」の事例として高く評価した)。料理をふるまうのが、なんでアートなの?という疑問の声が当然わきおこるだろう。しかしティラワニの履歴(CVと呼ぶ)を見たらわかるが、MOMAを始め名だたる世界の現代美術館がかれの個展を開催しているのだ。

 

なんとバラバラなアーティストが共存するワールド。そう見えるだろう。

 

しかしこのような状況を、単になんでもありの多様性ダイバーシティなどと言う人がいるが、全くナンセンスだ。ムダなコメントだ。

そうではなくて、なぜ1つの成功方程式ではなくて、複数のやり方が発明されざるえないのか。そうやらないと成立しないのか、生き残れないのかを考えなければならないと思う。好きにやればいい、なんでもありだよ、なんていう考えでは、アートワールドでは絶対に生き残れない時代に生まれ落ちているのである。もちろん根性論や精神主義も意味はない。

 

さあ、われわれがどんな場所にいるのか、をまず見ておこう。1991年に冷戦体制が解体して以降、世界は経済や政治のグローバリゼイションが急速に進行した。その結果、民主主義や共産主義といったイデオロギーで世界を操縦するやり方は、失効してしまい、ある意味で誰もが、カオス、流動性の中に放りだされた迷子みたいな者になった。

先例は、なんの役にたたない。上下関係も、民族や、国境などの時空もとりはらわれていく。かと思えば、逆にさまざまな反動的な「フォビア」が巻き返しをはかる。

 

コンフリクトが世界で同時に多発する。

 

そんな世界の流動化、カオス化は、アートのモダニズムをも決定的に解体する。失効してしまうもの、延命をはかるもの、再編されるもの、新生するもの。それらが同居するのだ。

あたりまえに聞こえるかもしれないが、まず重要なのは、リヒターもティラワニも、このカオスを生き抜くために「アート」を選択しているということだ。アートを選択すること、アートこそがこの時代を切り開く可能性があると選択すること。きみはどうするのか?

 

イデオロギーみたいな外部からの、既存の価値にたよらず、自らをモデルに生きていく。アートはアートワールドにとどまらず、流動的なポスト資本主義社会を生きていく有効な道になのだろうか、という判断をしなければならない。アートが好きだから、なんていうのは判断にならない。

確かに、アーティストという存在スタイルは、魅力的に見える。かつてならボヘミアンアウトサイダー、世捨て人、役立たずと思われていたアーティストの「社会的な位置」は、向上しているように見えるが、あまりにも「成功」をとげた人と「食えない」アーティストの差は今だ大きすぎる。ある意味で才能の世界は「平等」ではない。しかしハイリスク、ハイリターン。とてもリスキーだが、魅力的だ。

多くの若者が、漠然とした期待感でアートの道に進もうとしてくる。

 

だが最初に、大切なことを言おう。

 

今、アーティストになるには「不可能性」がついてまわるということだ。「アーティストになろうとしているあなたは、社会から望まれていない」「そして、たいがいのことはやりつくされてしまっている」と、そう思った方がいい。

これはペインティングだろうが、彫刻だろうが、染色だろうが、表現ジャンルは関係ない。
とりわけヴィジュアルとしての狭義のアートはすでに完全に飽和に達していると言ってよいだろう。具象であれ抽象であれ、印象派、立体派、表現主義、抽象主義、フォービズム、ミニマリズムなどの作品を今見ても、誰もが斬新な衝撃をうけないのではないか。極論するば「賞味期限切れ」のイメージを持ってしまう。これは作品の価値を貶めようという意味で、シニカルに言っているのではなくて、人間のリテラシーが「情報としての知ったかぶり」という麻痺に陥っていると言いたいのだ。見てもいないのに、ちゃんと体験していないのに、人は知ったかぶりし「終わっている」と思いたがっている。イメージはweb上のアーカイブで膨大に流通、アクセスできるようになっているし、そこに何かを足すことがどれほどの意味があるのだろう。そんな「不可能性」の罠がある。

 

ではもう絵画など創る意味などないのに、なぜまだ絵描きがいるのだろう。絵画というヴィジュアルは、アートの歴史においても、マーケットにおいても、常に「主役」を占めてきた。マーケットは、新商品を必要とする。誰かをスターにしなければアート経済は活性化できない。ミニマリズムは、ヴィジュアルの要素を極限までマイナスにした絵画様式で、ある意味で、イリュージョンを表象することの潔い終焉であるはずだった。しかし現実的には、絵画は死んではいない。マーケットにおいては、ポップアートが手を替え品を替え、ヴァリエーションとして「絵画」を延命させている。ブリットポップ、チャイナポップ…。奈良美智村上隆らの、その画風をモノマネしたインチキ作品が世界中に蔓延しつくしている。

 

これを僕はアートのゾンビ化と呼んでいる。

 

コンテンポラリーアートのギャラリーは、作品の販売業者である。もちろん優れたギャラリストは、流動化しているアートシーンと並走し、先を読み、自らをイノベーションしながら進化していく。しかし、現状のビジネスに固執する大半のギャラリーたちは、ただ「売れるもの」を重視する。こんなギャラリーにつかまったら君はおしまいだ。土産物作りで終わるだろう。

 

どんな分野においても、クリエイティブなビジネスとは、「最新のものを高い価値として売る」ことである。それが周りからすれば、常識に反し、狂っているといわれようが進める者が、未来を切り拓く。

「オリジナリティ」や「個性」はとっくに死語である。従来の発想や文脈に従っていては、袋小路。「不可能性」の罠につかまって身動きできなくなってしまう。さあ君は、なにを発明、開発できるのだろうか?

 

さて、もう1つ重要なことを告げておきたい。

 

それは「アートとは、問いである」ということだ。ここに不可能性に抗するヒントがつねにある。

僕はよく授業やトークで、「アートは問いであり、デザインはソリューションである」と、2つの違いを説明する。ソリューションとは、クライアントのセールス的な要望や、文字情報やヴィジュアルの要請を解決して見事な解、答えを出すこと。

一方アートは、自ら答えを出すものではなく、オーディエンス、観客がそれぞれの答えをだせばよい。逆に言えば、アーティストは、自らの作品にたった1つの答えを求めるものではないということでもある。

 

では、アートとは何を問うものなのか?

 

それも1つではない。優れたアーティストの数だけ、優れた「問い」も生産される。世界にはコンフリクトが生み出す無数の「亀裂」「矛盾」が発生する。それがコンテンポラリーアートを生む種であり、動因である。そして、さらに重要なことをのべるならば、最もラディカルな「問い」は、アートそのものを「問う」作品を作るということだ。

絵画を問う、写真を問う、彫刻を問う、、、。あるいは美術館や観客との関係性を問う、人間存在そのものを問う。

 

アートは、ある意味でコミュニケーションであるが、優しくはない。時にはコミュニケーションを切断し、この世には「説明不能」な、不条理そのものが、存在しているのだという非情な衝撃を観客に与える場合もある。モラルやタブーを犯す力があるものでなければならない。ファッションがアートの力を活用して、ブランドのヴァリューアップを図ることが流行りだが、僕はそのようなクライアントによくこう説明する。

 

「アートとは太陽のようなものです。遠く離れていると、暖かくてありがたいものに思いますが、近づくと目は潰れ、焼け死んでしまてましょう」

 

岡本太郎太陽の塔の後ろに、黒い太陽を描いたのは、その矜持であったろう。アートは生やさしいもんじゃないよと。

極論すれば、アーティストは「話せばわかる」という世界の住人ですらない。「人でなし」の道を選ぶという事。

確かにハイリスクだが、不可能性ゆえに、アーティストとしての成功は、かけがえがないともいえるだろう。

 

まず、そのことがわかっただろうか?

つづいて、成功するアーティストの条件について考えてみよう。