コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

26トーキョー・アートストーリー。1995年から2011年そして2020年へ

創る、理解する、展示する、売買する。

アートワールドは、幾つにも階層化されて、矛盾に満ち溢れながら、様々に接続し、変成、増殖、奇形化しつづけている世界だ。もはや既存のイデオロギーやセオリーは通用しやしないし、矛盾を含んだ、アートワールド=変成し続けている資本主義の全体をつかんでいるプレイヤー(アーティストから批評家、ディーラー、キュレーター、コレクターにいたる)も数少ないだろう。

理解放棄しながら、しかし、なしくずしに共存しようとしているのである。

 

アートワールドがグローバル経済の動きに、全く同期したのは、90年代のどこかであったように思われる。

それは、最初はバブル崩壊以降の、タイムラグあるポストモダンな些少な変化だと思われていたのだろうが、その高低速含んだ渦は、枯葉剤のように見事に古い批評を根絶やしにしてしまった。今や戦後派の批評文を読み人など誰もいやしない。

失効したのだ。

 

イオンモールがあらゆる商店街を駆逐し、オンラインショッピングが百貨店の息をとめたように、グローバルなアートフェアは、国際的にアーティストをセールス&プロモーションしようとするローカルなギャラリーに、血も涙もなく高額な出展料を請求し、結局、解体する。

売れ始めた日本のアーティストは流出し、世界性のコンテクストと、セールスをもとめて、「外タレ」になることを選択せざるをえなくなるだろう。優れた作品は国内には無く、これも流出する。

 

またアーティスト自体も、成熟というモデルを失った。突きつけられるのは、消費の速度に抗する強度だ。

むろん天然に生成される強度だけでは、自分の「賞味期限」を防衛することなどできない。批評家やキュレーターが褒めてくれたら生き残れる、価値が保証されるわけでもなくなってしまった。

また、アーティストがインディペンデントに起業する、なんていうモデルも、すぐさま限界がでて、結局、大資本の介入の傘下に置かれてしまうだろう。

 

オフラインの「点」ではまずい。

コネクタブルな「線」でなければならず(わかりやすくするためにリゾームとよんでもよい)、ウイルスや小さな毒虫のようにサバイブしなければならないのだ。それとも、確信犯的に資本に身売りするのか。

しかし、そのどちらかが善で悪だと裁きたいのではない。事態は、そんなに単純ではないし、傍観してるほど呑気ではない。

 

必須なのは、つぎつぎに千変万化。

変容力だろう。

そして、エンドレスな変容(エンドレスな編集)を可能にするヴィジョンの生成。なんらかの分裂生成の発明を、なさなければならないだろう。

それを資本主義側からの視点で言い換えるならば、あくなき「選択」(セレクト)と「開発」(イノベート)ということになる。すでに「新しさ」というコンセプトが実体的にも失効していたとしても、「新しさ」を生成するためには、ハゲタカのように襲撃し、ゾンビや吸血鬼のように「生き」つづけなければならない。

 

このようなアートワールドの流動性は、グローバルキャピタリズムの症候として現れていて、必然的にプレイヤーも変容しなければ、プレイヤーでいれなくなる。失効してしまうのだ。

ギャラリーは、呑気な古物商ではありえず、アーティストとの360度契約のスキルから、最低でもグローバルブランド戦略を身につけていなければならなくなった。もちろんアーティストの内部で生成変化する「価値」に対するディレクション能力無き者は、アートワールド不合格であることは言うまでもない。

またキュレーターこそは、もっと戦略的なスキルが求められるプレイヤーとなった。ますますそうなるだろう。さまざまな大型美術館は、経営的な視点からブロックバスター的なプログラムをやらざるをえないし、そうかと言ってエクスペリメンタルなプログラム開発が出来なければ、ミュージアムはあっと言う間にただのイベントスペース、多目的空間になってしまう。

 

旧来の分業だって?

いいわけ、無責任では逃げられない。

事態の流動性を超え、自身をシフトさせること。

 

このような分裂事態の直面にあたって、これを積極的に対応開拓できる者が生き残るだろう。 

 

そう考えた時に、今・ここ、つまりトーキョー(ジャパン)という場所は、どのような地点なのだろうか?

 

時折思いついたように、経済誌などがアートワールドについての特集を組む。しかしそれらは全て「事後的」な話でしかない。マーケティングというスキルや広告で物が売れるというスキルが、ほぼ失効してしまっている中で、どうすれば価値ある商品=アート作品を生めばよいのかという「事前」を語ることこそが必要なのだが。

 

今、90年代から今にいたる(いや未来に至るか)トーキョーの時空を振り返ることは、どのように可能なのか?

未来を生むために、どうやって過去を語ればよいのか。

 

村上隆奈良美智杉本博司草間彌生、オノヨーコ。それぞれがとりわけ90年代以降に、特筆に値するヴィジョンを創出し、見事に、グローバルにシフトしたアートワールドでサバイバルに成功した者として、高く評価されるべきだ。そのことに、誰も異論など無いだろう。

 

村上隆が主導した「スーパーフラット」は、日本の古来から美術、アニメーション、コンテンポラリーアートを貫く、特筆に値する時空観をまとめ上げたものとして、高く評価されるべきものだ。グローバルに通用する内在性の開発を、やってのけたと言って良い。発明だった。

 

奈良美智は別の回路で、絵画の新しい可能性を開いた。評論家・松井みどりは「マイクロポップ」ということばで「ゼロ年代」を牽引したが、奈良はそれを最も体現した作家だ。グローバル資本主義の強風の隙間で生成、レジストする想像力。それは、マンガ的に見えて、同時代的な世界性をもっている。

 

杉本博司の写真は、日本の神仏の持つ無や、独特の身体性、古美術の美意識を、深い地点でコンセプチュアルアートとの接続に成功させた。

 

草間彌生はオブジェ、アブストラクト、パフォーマンスなどをへて、かつて無い強度を帯びた「魂の絵画」にいたった。それは「アウトサイダー」や「女性アーティスト」というコトバを無意味にする普遍性に到達することができた稀有な「前衛アーティスト」だ。

 

オノヨーコもまた「前衛」であり続けている。ション・レノンとの共同作業。フルクサスとしての実験をへて、今もコンセプチュアルアートの、非物質的な側面を重視した作品を生み続ける。

 

今、彼ら/彼女らを、成功者と言うのは簡単だ。マーケットでの評価が高いと指摘しても、結果論でしかない。

彼/彼女らが皆、開発者、開拓者であったことを忘れてはならない。

そして、彼/彼女らも我々と共有のトーキョー・(アート)・ストーリーの中で生きてきたことも忘れてはならない。

時代の中で、彼/彼女は、どのように価値変換を果たすことができたのだろう?

 

もうすこし、丁寧に見てみたい。

彼/彼女らが、高い評価へシフトできたのは、90年代からゼロ年代のことである。

日本のコンテンポラリーアートの批評において、定式化されてきた言いまわしに、「ゼロ年代の想像力」というキーワードがあるが、その起点となっているのが、1995年。村上隆スーパーフラットの年である。

 

1995年は、トーキョー(日本)において2つのことを意味している。

1つは、オウム真理教というカルト教団がハルマゲドン(世界の終わり)を、自作自演してみせる形で引き起したテロ事件「地下鉄サリン」事件である。この事件では、12人の人間が命をおとし、教団員も数名の死刑が確定している。
2つ目は、阪神・淡路大震災である。これによって6,434名の命が奪われた事件である。ポジティブな面で特筆すべきは、この事件で「ボランティア」というオルタナティブな関係意識、参加意識を人々、企業に与えたことも大きい。


2つの「カタストロフ」。

これらは、世紀末という西欧文化の「終末」に先んじて起こった。よい意味でも、悪しき意味でも「来るべき世界」の予行演習となった。

そして2011年に「やって来た」のは、「終末」が一回性のものではなく、エンドレスなものであるということ。東日本大震災という津波原発メルトダウンという現実であった。

欧米世界が21世紀に入って、戦争とテロによって、リアルなカタストロフを体験することになるのに対して、別の現実受容を生み出している。それは、例えば、一種のカタストロフに対する諦めにも似た弛緩(常態)であり、現実と虚の倒錯ではないか。

 

リアルとメディアを通してのイメージが入り交じった倒錯。ヴァーチャル空間における物語が、現実以上に強度を持つ。トリビアルな事象が大きなテーマ(イデオロギーのような)より重視される。

ユートピアも出口もなく、嘘の時空で待たされるだけなのか。

 

現実感覚の変容は、アーバニティ都市性をどんどん、なしくずしに変えていく。

この変容は、中国社会で加速化している都市のニューモダニティ変容とは全く異なったものだ。

東京が滞びているスーパーポストモダニティは、ゼロ成長を偽装した、真のバブルである2020年のトーキョーオリンピックに向けて、突き進んでいくことになるだろう。


トーキョーは、2005年頃をピークに(六本木ヒルズが2005年、ミッドタウンが2007年の竣工である)都市の「新陳代謝」を低下させてきた。

戦後以来、東京が世界に対してアピールしてきた「怪物的変容力」はもはやトーキョーにはない。

オリンピックの競技場がザッハ・ハディッドでなくなり(彼女は急死してしまった)、エンブレムが偽装の象徴としてデザインの希望を踏みにじり、トーキョーの物語は進んでいく。

 

1995年からの約10年間のトーキョー・アート・ストーリーを思い出してみよう。奇妙なことに、近い過去ほど、思い出すのが、難しいものだ。

トーキョーは、世界が戦争とテロに影が広がっていくのに対し、なぜかユーフォリア多幸感すら帯びていた。トーキョーは、儚いにせよストーリーが生成される資本主義の浮島の1つだったのである。

日本の有力なコンテンポラリーアートギャラリー(小山登美夫ギャラリーなどG9と呼ばれる一群)は、アートマーケットのグローバル化によって生まれた、インターナショナルアートフェアに積極的に打って出た。世界と日本を高速で接続させ、村上隆奈良美智杉本博司草間彌生らが世界のアートマーケットで成功する。

G9のギャラリーが果たした役割は、はかりしれないものがある。

また、村上隆が成功を勝ち得たストラテジーも極めて有効だった。村上隆はその作品だけでなく、作家としての戦略性も、今後のアーティストのひな型の1つだ。

 

村上隆自身は、東京藝大の日本画のドクターを修了しながらも、その美術界の閉鎖性に失望。一方で、世界を席巻する力をもつアニメーション文化総体に注目し、キャラクターやモチーフ、描法を吸収。また単身NYにわたり、世界で最も沸騰するアートマーケットのゲームを体験的に知ることにより「勝ち組」への道を模索した。

さらに重要なのは、作品のもつ「内在的な力」「クオリティ」「イメージの強度」だけでなく、彼がコンテンポラリーアートの価値を創出するシステム、装置をも生み出そうとすることだ。

2006年には『芸術起業論』を、また新人を世界に送り出すべくGEISAIを2002年以降、自らの経費で運営。

ここでは、村上隆について詳細に語ることはしないが、特筆すべきは、彼がすぐれた作品をつくり得るばかりでなく、作品と作家をアートワールドにおいて「価値づけ」たり、プロデュースしたりすることに極めて自覚的、確信犯であるということだ。

 

変容化しつづけるアートワールドのフロントラインにいつづけるには、どうしなければならないのか。

ジェフ・クーンツやデミアン・ハーストらと並ぶアルケミーを習得し、トーキョーにおいて、「ゼロ年世代」で到達できたのは彼だけである。

2011年から2020年の「TEN年代」のディケイドは、東日本大震災からトーキョーオリンピックまでの時空である。

その、今・ここにおいてさらなる戦略の変容を、村上隆を始めとして、誰がどのように開発・発明しうるのか。

実に興味深い課題である。

 

さて、このような動きとは異なる位相で発生していた「マイクロポップ」に代表された動向についても書いておきたい。オルタナティブの立場から、別のアートを価値づけする動きであるからだ。

 

2007年に、美術評論家の松井みどりのキュレーションによって水戸芸術館現代美術センターで開催された展覧会「マイクロポップの時代──夏への扉」(島袋道浩、青木陵子落合多武野口里佳杉戸洋奈良美智、有馬かおる、タカノ綾、森千裕、泉太郎、國方真秀未大木裕之半田真規田中功起、K.K.の15名が参加)。

そして2009年に続編として、原美術館をかわきりに世界巡回されたのが、「ウィンター・ガーデン:日本現代美術におけるマイクロポップ的想像力の展開」(青木陵子千葉正也Chim↑Pom半田真規、Masanori Handa、泉太郎、工藤麻紀子國方真秀未落合多武佐伯洋江杉戸洋タカノ綾田中功起山本桂輔八木良太の14名が参加)による提起である。

松井は『マイクロポップ宣言』でこう語っていた。

 

マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らずに、さまざまなところから集められた断片を統合して、独自の行き方の道筋や美学をつくり出す姿勢を意味している。それは、主要な文化に対して『マイナー』(周縁的)な位置にある人々の創造性である」

 

周縁的な位置にある人、アーティストの作品。それらは、コマーシャルな中心からは追いやられてはいるけれど、創造的なものを評価する。松井みどりによって組織された2つの展覧会は、今からすれば良きセンチメントとして思い出されるが、コンセプトはラディカルであった。

オルタナティブは、本来は、資本主義に「対抗」し、時には権力の及ばない別のコミュニティを再編・再生させるダイナミズムの側面を持つ。

当然のこと、アートにおいては、「反」「非」コマーシャリズムの立場をとることになる。

レジストの面を強く押し出したコンセプチュアルアートやパフォーマンス。観客参加型のアート、そしてインターラクティブであれ、敵対であれ、関係の再編を戦略とするアートの可能性も開ける。

 

マイクロポップ展は、コンセプトのラディカリズムと、相反する、注目すべきアートのショーケースに見えてしまうコマーシャリズムが、キュレーターの意図とは別に働いてしまっていて、その分裂的性格が、僕にはかえって面白かった。

じつにリーマンショック前の、ユーフォリアを体現した展覧会だった。

この展覧会が提起したことは、まだ終わっていないと思われる。

 

リーマンショックによるバブル崩壊は、経済のさらなる「したたかさ」を助長する結果となった。

オルタナティブな活動は、既存の体制を転覆させるどころか、体制を補強するものとして、選別され、取り込まれた。

リーマン以降の、世界のアートフェアは、皮肉にもオルタナティブなフェアが解体され、アートバーゼルが世界にチェーン化したように、更なるグローバリズムにアップデートされたのである。

 

しかし、価値は差異を常に生み続けなければ、停滞する。反コマーシャルなものは、資本主義やブランディングには、必要なファクターになっているのだ。百貨店にせよ、ハイブランドにせよ、富裕層むけのホテルにせよ、もはやコンテンポラリーアートなくしては、差別化の戦略は成り立たない。

 

アーティストは、たとえどんなカタストロフな状況においても、既存の「価値形態」をやぶり続ける者でなければならない。

現在のように、すべての営為がグローバルマーケットの価値生成にとりこまれてしまうがゆえに、逆にアーティストたちが生み出す「異物」「不定形」「いまだ価値づけされていないもの」の生成は、実に重要な意味を持つ。

パラドックスこそが、最高の戦略なのだ。

 

今後、トーキョーアートのストーリーが、ヴィヴィッドであるためには、パラドックス、さらなる進化したアルケミーが必要だ。

 

キーワードは、「変換」である。

「変換」は、スタイルではない。

 

レディメイドをアートに変換した100年前のデュシャンが祖であり、発展させたウォーホルや大先輩のコンセプチュアルアーティストから学ばねばならないのだ。

 

しかし「ゼロ年世代」はすでに中年作家となり、時代は残酷に、否応無く進んで行く。ギャラリーもキュレーターもミューテーションし続けなくては、存在理由はない。

コンテンポラリーアートの老舗」なんて、若年寄過ぎるよね。

 

トーキョーの都市性の今。

そしてアートの今が、どんなフェイズに入ったのか。

 

エンドレスな「変換」。

 

資本主義の運動が、コンテンポラリーアートの差別力を必要としているがゆえに、トーキョーのアーティストたちは、さらなる変容力、さらなる変換力、さらなる分裂力を、発明しなければならないのである。

25写真は「真実」のエビデンスではなく、「もうひとつの現実」生成のためのもの。

現代写真を巡っては、語らなければならないことが次々に湧いてくる。それは、批評自体が問い返されるような、新しい事態や作品が次々に現れるからだ。そして安定し、固定した万能の理論が成り立たず、常に批評も流体のような変成能力が求められるからである。

写真の分野における拡張や変成は、まだまだコンテンポラリー・アートの分野において過小評価されていると思われる。

と同時に、新しい写真の事態にポジティブに評価を与えず、写真の第1ステージにおける「写真=真実」にリターンする同調圧力も働いている。アートにおいてすら、「こんなものは写真ではない。アートではない」という声がすぐ上がる。常に保守的な力がついて回るのである。

 

写真の再編・拡張について改めて確認しておくと

 

①写真と絵画は、第2ステージにおいてはっきりと別のアートフォームになった。批評原理も別であるという再編。

②第2ステージを迎えた写真は、デジタルとコンセプチュアルアートからの、さらなる再編が混じり合った事態をむかえているということ。

③第2ステージを迎えた写真は、その誕生時に色濃くもっていた「メディア性」を再生させ、他者性や実験性、多様性、社会との接続性などの力を、再び全開させているということ。

④さらに言うならば写真は、絵画がその強度生成の変換術とした、歪形やレイヤーの衝突ではなく、次元ディメンショナルな戦略性によって、強度生成できると言う優位性を持つに至ったということ(合成、スキャニング、多様な出力によるインスタレーション、プロジェクション、動画、インスタグラムなどSNS発信、3Dデータ化など)。

⑤そしてその結果、従来の「現実」とは別の(パラレルと言っても良い)リアル、あるいはリアリティの生成に加担することができるようになっている、ということ。ポストインターネットの作品としても写真は極めて有力なポジションにいる。

 

とわいえ、「ピクチャー」だとか「コンテンポラリーアートとしての写真」「コンセプチュアルフォト」「フォトアート」などと、イマイチ座り心地の悪いコトバしかないのが難点である。

流動性からくる、カオスと分裂。

リシツキーやモホリ=ナジらを指す「構成主義者」というコトバのラディカリズムが、いまだ正しく定着しないのと同じぐらいもどかしい(カールステン・ニコライはさしずめ構成主義者の末裔、未来形と呼びたいくらいだ)。

 

ともあれ第2ステージのフォトアーティストにおいて何が起こっているかを、事例をあげ考察しておくべきだ。

 

例えば、1978年生まれの小山泰介は、デジタルネイティブのフォトアーティストである。彼が写真という手段を選択した理由として、デジタルであったということ、そして都市を被写体とする森山大道の作品との遭遇が始点がある。

小山にとり東京の持つ都市性、表層においては無機と有機が等しく変換を遂げているという認識だ。

彼は、マクロレンズで街中の自動販売機に貼られていた「虹」の印刷物を撮影し(「レインボーフォーム」と名付けられた作品群)その変容やハンディ顕微鏡による拡大などによる変換作業、そしてイメージの高速または低速によるスライドプロジェクションなどを10年に渡りつづけている。

彼は『現代写真論』を著したキュレーターであるシャーロット・コットンが構成した韓国・大邱でのフォトビエンナーレや、写真の最前線にいる作家80組を集めたコットンの『写真は魔術』にも選ばれている。

また、日本の文化庁の派遣によりロンドンで2年におよぶレジデンスの間に制作した作品を中心に、ロンドンのコンテンポラリーアートの登竜門ともいえる大和ファウンデーションでの個展を成功させるなど、目覚ましい成果をあげている。

さらに追記するならば2016年の、あいちトリエンナーレ岡崎シビコ会場でのグループショー「trans-dimension」で、彫刻家・名和晃平/ダミアン・ジャレと組み3Dデータ内でキャッチしたイメージを出力し、それをハンディ・スキャニングしたものを再立

体化した作品を発表したことだろ。

そこには、明らかな写真の逸脱とも言える拡張が、企てられていた(この展示には、他に横田大輔、赤石隆明、ルーカス・ブラロック、勝又公仁彦が参加)。

まさにフロントラインに立つアーティストと言えるだろう。

 

彼はいったいどのような認識をもっているのか。

それを公開することは、重要なケース・スタディとなるだろう。

 

スイスのウィンターツール写真美術館は、アムステルダムのfoam写真美術館と並ぶヨーロッパの写真動向を牽引する重要拠点である。

小山泰介はロンドン滞在中に、ウィンターツール美術館が主催するPlat(t)formという現代写真の登竜門に、日本人で初めて選出された。

 

Plat(t)formは、展覧会ではなく、ヨーロッパに在住する才能ある若手写真家を150人ほどノミネートし、さらにそこから40人ほどにしぼり、さらに将来性のある5人のアーティストを招聘しウィンターツール写真美術館で2日間にわたり「プレゼンテーション」をさせるプロジェクトだ。まだ始まって間もないプログラム、プロジェクトだ。

ペインティングではなく、現代写真においてこのような批評性の高いポートフォリオ・ヴューイングが行われているところが、まさにコンテンポラリーアートの現在を表しているといえよう。

 

オランダやスイスなどの中欧諸国は、大国主義(コンチネンタル)ではなく、きわめてネットワーク主義(アーキペラギック/群島的)な戦略をとっている(日本もそうしなければ、グローバルな影響をもち得ないのだが、政治同様に、相変わらず出来もしない大国主義の幻想の中にいる)を取っている。

一時は、フィンランドの現アールト大学の教授でベルリンのギャラリータイクを主宰するティモシー・パーソンズのプロデュースする「ヘルシンキスクール」出身のフォトアーティストがクローズアップされていたが、現在はチューリッヒ芸大やローザンヌのecal出身のフォトアーティストに注目が集まっている。これもベッヒャースクールやヘルシンキスクールという「スクール系」「流派」ではなく、もっともっと地域を越えたネットワーク性に現代写真がシフトしていることを示している。

 

Plat(t)formが注目に値するのは、人種や国にこだわった戦略でないところだ。ヨーロッパにレジデンスしておればアプライの対象となる。極めてオープンな仕組み作りと言えるだろう。

 

小山泰介と僕は、Plat(t)formへの最終「プレゼン」のために、想定問答風のメールのやりとりをしたことがある。

西洋のロジカルな文脈に対してどう「プレゼン」するのか、というトレーニングだと思えばよい。いくつかその時のレスを抜粋しておこう。

 

「今という時代」と「写真」について、どのような関係があるのか?

と僕が問うと、小山泰介はこう答えていた。


「いつの時代も写真はテクノロジーの発展とともにありました。ここ数年で急速に発展したデジタルカメラやインターネット、ソーシャルメディアによって、写真はさらに自由になると思います。それらが写真にもたらした感覚は、真偽不明、オリジナル無効、際限のないコピー、再編集、タグ、キーワード、ソート、シェアやコミュニティといったものですが、僕はそれらをこの時代の写真が獲得した自由だと考えています」


このレスは明確に、第2ステージとしての写真に取り組むすべての人が、共有しておかなけらばならないことに答えている。そして、彼は、自分にとっての「同時代性」についてもこう語っていた。


「僕にとっての"同時代性的な写真"とは、"実験精神""身体性""世界への作用""写真からアートへの拡張"を持ち合わせているものです。世界を流動的なものとして捉え、テクノロジーやメディア環境による不安定な状況を、世界に対する解釈の可能性が拡張されたと考えているかどうかが非常に重要です」


現代写真が、他のアートと大きく異なっているのは、現実世界によりダイレクトにコネクト可能な場所にさらされていること。

そしてデジタルテクノロジーやオンラインメディアの進展と結びついていること。

などが、挙げられる。

例えストレートフォトやもっと絞ってドキュメンタリーフォトであれ、つねにヴァージョンアップ、アップデイト無しには前に進めない。

「真実」の意味が、刻々変化して行くからだ。

小山泰介の認識には、その変化へのダイブが明確に意識されていることが重要だ。

 

もう一つ別の事例を見てみよう。

 

それは僕が、東アジア文化都市2017の連携プログラム(サテライト企画)として、深井佐和子(G/P galleryディレクター)と共同キュレーションした女性写真家展「calling/re- calling わたしは生まれなおしている」(京都造形芸大智勇舘ギャラリーで開催)である。

 

日本、中国、韓国をふくむ東アジア地域は隣接しているがゆえに生まれ続けている、親愛と憎悪の関係史を背景に持つ。

この展覧会も、北朝鮮とアメリカが引き起こした「準・有事」、ある意味で「戦前」と呼んでいい事態の中で、展示とシンポジウムを行うことが、極めて写真にとり重要だと意識してのことである。

 

本稿を書いている2017年10月16日は、「外交的な解決の努力を続ける」と言いながらも、米朝互いが歩み寄るわけでもなく、米韓両海軍の、かつてない大規模な合同演習が実施されている。北朝鮮への圧力のために、米海軍の原子力空母ロナルド・レーガン原子力潜水艦ミシガンなど40以上の艦艇が参加、戦略兵器も次々に朝鮮半島に集結している。一方で韓国の東亜日報は、北朝鮮の3、4カ所で、ミサイルの移動式発射台が移動するのを偵察衛星がとらえたと報道。中距離弾道ミサイル「火星12」、大陸間弾道ミサイル「火星14」などが用意され、グアム近海への発射が予告されているのだ。

日本にも当然ながら、日増しに不穏な空気が色濃く漂っている。

 

3人の日中韓フォトアーティストは、皆女性である。

細倉真弓は1979年生まれ、近年香港、台湾などでも滞在制作を行い、ヨーロッパを中心に国際的な評価を確立している。若者男女のヌードと鉱物や植物被写体と組み合わせは、多くのファンを持つ。

イナ・ジャンは1982年韓国生まれで、現在NY在住。ニューヨークでファッション写真の修士を取得。

シャオイ・チェン 陈萧伊は、1992年四川省生まれで、現在成都市在住。ロンドンLCCにて写真修士を取得し、2015年に三影堂 写 真賞を受賞。2017年にはフォーブス誌が選ぶアジアの30歳以下のアーティスト30人に選出された。

 

アートにボーダーはない、と言う人がいるが事態はそんな簡単には行かない。「東洋的な身体性」を共通に持ちながらも、それぞれの立場からの歴史(第2次世界大戦)、支配体制と思想、経済動向など、全てはコンフリクトな状況にある。また、それぞれの社会が生み出した異なる女性への抑圧形態がある。

アートや写真がそこから無縁で、能天気でいられるわけがない。

しかし、彼女たちの経歴を見てわかるように、彼女たちは国境をこえ、古い「写真」に囚われることなく、横断的に活動している。彼女たちは、しなやかに様々なボーダーをかいくぐって生きているのである。

 

写真展を実施するにあたり、ネットを通じて日常的に会話をする過程が重要だと考えた。

例えそれが、ズレをはらんだエコーだとしても。

(以下の3人の発言は、その時のレスからの抜粋である)

 

イナ・ジャンは古い写真の考えてには全くとらわれてはいない。写真はそのメディアが誕生した時から、客観的な現実ではありえない。「その相容れなさ」が面白い理由なのだと語る。

 

「だから、私の作品の「現実」は探求したいという欲望に依っています。出来上がった写真そのものよりも写真を生むという行為が私のリアリティについて多く語っていると思います。写真は私にとって現実の鏡ではありえない。むしろ現実ーある場所にいること、感情、直面する知的な問題ーからの逃げ道と言えるでしょう。有機的な意味で、写真は現実を探求するための道具のようなものです」

 

写真は現実を写した鏡ではなくて、ある種の逃げ道。しかし、それは逃避というより現実探求の道具なのだ。イナは、様々な作品をつくるが、若い女性のポートレートを撮りそのデータを被写体に戻し、自分を「可愛く」修正できるアプリで加工させ、それを作品化した作品がある。また、日本のグラビアヌードを複写加工した作品も発表している。また彼女は、トランプ政権下における女性蔑視問題が引き起こした、女性たちの新たなフェミニズムへの共感がある。

 

中国のシャオイのおかれている状況は、3人の中で、最も抑圧的だ。日々、情報と表現が徹底した検閲下に置かれている中で制作が続けられている。しかし、彼女はコンセプチュアルアートの知覚戦略や、写真機を使わずスキャナーで制作するなど、全く西欧と同時的なコンテンポラリー性を明確に取得している。

 

「マクロとミクロの境界を混乱させ、観客に現実を経験を覆させる意図でした。これまで長年探求してきた結果、リアルとバーチャルなイメージは私にとって対称物だという結論に達しました。相反するような知覚的体験の数々が、「洞窟」の中を自由に出入りしていても、つまり結局はそれらは本質的には同じものだ、ということです。ゆえに私は現実にフィンタジーを求めず、現実をイリュージョンとしとして作品で表現するのです」

 

シャオイにおいても、現実を切り取り「真実」とするというリアリティは、彼女の写真にはない。もう一つの現実として写真を生成させること。

 

「写真の平面的な見え方を、さらに多様な知覚に訴えかけようと試みています。また、日常生活と時間の亀裂を経験してからは、自分自身のための「洞窟」を生み出す機会として現実に切り込んでいます。いまだに解決しない壁の真ん中に立ち、溢れ出る知覚を少しでも手にいれるために、2つの空間が交差する場所を追い求めているのです。今では私の作品は、現実と幻想の間での混乱を引き起こそうとするものではありません。むしろ、未知なる空虚から生まれる絶え間無き、そして定まることの無いエコーのようなものを、捕らえようとしているのです」

 

細倉真弓は日本の90年代に起こった「ガーリーフォトブーム(その中心にはヒロミックス長島有里枝蜷川実花らがいた)の、「はっきりと後」にやって来た。そして、写真がもはや「自分探し」や「関係」を確認するためのものではない、という方向に自分の写真を発展させて行った。

 

「写真に限らず全てのデジタルデータがそうであるように、再生されるデータがあればそれを再生するデバイスはなんでも良くて、その度ごとに形を少しずつ変えては変奏される核、実質がある。
いわゆる写真のマテリアリティみたいなのって、印画紙のそれとかフィルムのそれであって、写真(実質)そのものの物質性って仮想で、デジタルデータあるいは写真の尊さはその再生の一回性、同じ楽譜を何度も弾くようなその度ごとの一回性にあるのではと最近思っている。そしてその核をどうやって再生するかというその一点が作家のリアリティそのものなんじゃないかと。あるいは印画紙やラップトップなどあらゆるデバイスで再生されるデータは仮想であると同時に現実そのもので、現実と仮想空間は対立するものではなくて地続きで、イメージはいろんなデバイス(人間含む)の往還の中でナチュラルに加工、変化、劣化、高次元化されていくのでそのデバイス間の往復運動にリアリティがあると思う」

 

写真は、「ここ」で「それ」が不可逆的に一回だけ起こったということを所有したい、と思うことに支えられている。細倉が自分が写真という手段を選択した理由としてそのことを告白する。

しかし。と同時に、もはや写真は少し前まであった写真とは随分と異なったものになって行く。

細倉の発言にも作品にも、単なる美学的な陶酔に溺れない分裂やジレンマが感じられるのだ。

 

苛烈な事態の中で、現代写真はこれからどのように、加速的にミューテーションを引き起こしていくのだろうか。

 

 

 

 

 

24来るべき写真。ミシェル・ウェルベック『地図と領土』を補助線として。

 写真は90年代後半から急速に、資本主義の運動性に最もヴィヴィッドに反応するコンテンポラリーアートの領域において、何よりラディカルな存在に浮上した。それは、高速に変容し続ける流体であって、批評が「いけどる」ことすら難しい。

スーザン・ソンタグロラン・バルトが生きていたら、なんと分析するだろうか。

 

「被写体」を撮影するシューティングという写真家の特権とされた行為は、オンライン世界に無限に増殖し続けるイメージの中に溶解してしまっているし、「真実」は簡単に暴けないほど完璧に捏造されるようになった。光学からデジタルへの世界へのシフトが決定的に事態をかえたのだ。

写真をつかまえて批評の審議にかけても、すでに変異して別のウィルスになってしまうのだ。

 

もはやかつてのような「写真論」を書くことは失効してしまったにちがいない。

シャーロット・コットンがある意味でカオスに満ちた『写真は魔術』を出したのもむべなるかな、である。まさに、写真ほどラディカルで(ある意味でいかがわしい)、エキサイティングな領域はないだ。

 

僕自身もコンテンポラリーアートにおいても、とりわけ写真には深くかかわってきた。

2008年には現代写真を扱うG/P galleryを設立し、写真の拡張・変容をより加速させることに共犯してきたし、これからもそうあり続けたいと思っている。

まさに日々写真である。

 

写真批評の失効は、今や写真自体が極めてクリティカルな力を発揮しているからだ、ともいえるかもしれない。つまり、前章で引用したロザリンド・クラウスのある種の予言が、現実のものとなったのだと思われるのである。

 

僕にとって、この20年ぐらいの間、最も刺激的な写真についての記述は、批評文ではなく、作家のインタビューや、評論家「外」の写真論であり、そこからインスパイアされてきた。時にすぐれた小説家は見事に「予言的特性」をいけどってきたし、有効な「補助線」たりうるのだ。

例をあげよう。

リチャード・パワーズの『舞踏会に向かう三人の農夫』やゼーバルトの『アウステルリッツ』である。また、日本ならば自らも写真を撮った安部公房の小説群が挙げられるだろう。そして今ここに書いておきたいのが、ミッシェル・ウエルベックの長編小説『地図と領土』(筑摩書房刊)なのだ。


ウエルベックこそ、「現代小説」の急先鋒である。

フランス現代小説において、デビュー以来これほどまでに、スキャンダルと名声にまみれている作家はいない。遺伝子科学をあつかった1998年の『素粒子』やセックスツーリズムをあつかった2001年の『プラットフォーム』などの作品は、賛否両論の嵐を引き起こしたが、その後も、2015年に発表したムスリムがフランス大統領となる未来世界を描いた『服従』は、発売日がシャルリー・エプド事件と同じ日にあたり、以前からイスラム批判を繰り返していたウエルベックは渦中の1つとなった(『服従』は皮肉にもフランスにおいて、60万部のベストセラーとなってしまう)。

 

そのウェルベックが、加速度的的に変容するアートワールドを舞台にしたのが『地図と領土』であった。

ウエルベックの小説には、『素粒子』のころから「写真の気配」が色濃く感じられた。描かれた風景が、ドイツのベッヒャー系の写真と共通する意識を感じさせ、予感はあったのだ。

そして『地図と領土』の登場である。

 

ジェド・マルタンという1976年生まれの「現代アーティスト」が70歳(2046年)で死ぬまでの物語を描きつつ、あからさまに「アートとしての現代写真」がクローズアップされた作品だったから、読み出してすぐに、とても驚いた(ちなみに本書は、ゴンクール賞を受賞し50万部を越すベストセラーとなった)。

ジェドは写真から始め、絵画へ回帰し、そして映像作家へとメディアアートをわたって行くのである。


書き出しはこうだ。

 

「ジェフ・クーンズは椅子から立ち上がったところだった。興奮のあまり両腕を突き出している。クーンズと向かい合って、白い革のクッションの上でやや体を屈めたダミアン・ハーストは、何か反対意見の述べようとしているらしかった…」

 

なんと挑発的な冒頭だろう
これはジェドがさまざまなクーンズとハーストの写真を使いながら「絵画」を描いているシーンへと続いていく。ウェルベックは、あきらかに凡百の美術評論家、アートセオリー研究以上にコンテンポラリーアートの「価値生成」を掌握し、この小説を書いている。ストーリーは、ぜひ本書をお読みいただくとして、とりあえず圧縮して「写真」のことについてメモしておきたい。

 

ジェドは写真から始め、絵画へ回帰し、そして映像作家へとメディアアートをわたって行く。ウェルベックはアート資本主義のシステムを描くだけでなく、どのようなコンセプト、方法論で作品をつくれば「価値生成」できるのかを見事に書ききるのである。写真の重要性は、小説全編にあふれている。


①ジェドが美大時代に祖父の遺品であるリンホフカメラで撮影した「工業製品」シリーズ
ミシュランの地図をスキャニングし、デジタルカメラで撮った作品シリーズ(個展タイトルは、「地図は領土よりも興味深い」)
③写真をベースにしてつくられた絵画。ポートレート・ペインティングシリーズ(クーンズ&ハーストもこの1枚。小説の中に登場するウェルベック自身のを描いたポートレートもこれにふくまれる)
④これはジェドが撮影したわけではないが「ウェルベックの惨殺現場」を撮影した警察による写真(死人の肉体が「まるでポロックみたい」にちらばっている)
⑤ジェド最晩年(30年にわたり)につくられたビデオ作品(多重露光の独自ソフトを使い、日々出逢った風景や植物)、パソコンなどの製品や人形が硫酸で溶けて行くカット。そして自分が撮った過去の写真プリントが朽ち果てていく。それが多重露光の植物の中に溶けて行く)。


ジェドはアートマーケットで大成功する。彼は何億円もの金を手に入れ、そして死んだ祖母が遺した屋敷と広大なエリアを買いとり、まるで奇人としても知られた富豪ハワード・ヒューズマルセル・デュシャンのように世捨人として生きるのだ…。

 

ウエルベックは、この小説において「工業製品」を撮影した「退屈な(デッドパン)」な写真がコンテンポラリーアートとして扱われること(ベッヒヤースクールの教え)や、ミシュランの地図のグラフィックを撮影してコンテンポラリーアート化すること、絵画が写真を使って価値生成をすること、多重レイヤーの動画など、どんな戦略の選択によって写真がアートたりうるかについて、見事に抽出している。

 写真の本質は鏡であり無である。それ故にストラテジー次第で、いかようにも価値生成ができる魔力をもっている。まさにウエルベックは、写真における変換の魔法を知っているのだ。

 

ウエルベックは小説家ではあるが、小説『ランサローテ島』では、すでに写真も発表したこともあった。僕も今まで、パリでの個展や、チューリッヒでのアートフェスティバルであるMANIFESTAに彼が出品していた作品にであう機会もあった。

アーティストとしてのウエルベック、についてのレビューは未見だが、それを見る限りにおいて、彼の写真作品はもっと騒がれてもよいものだと思う。

写真とコンテンポラリーアートの課題についての戦略的な思考の賜物だからだ。

 

ウエルベックの小説は、『素粒子』の時もそうであったが、ある種の「未来小説」として書かれている。この『地図と領土』も分析でなく、すぐれた「予見」にみちていて、聞きかじりの「絵空事」などではなく、極めて実践的、リアルである。

 

『地図と領土』を読んだ時、この小説を補助線として写真展を企画・キュレーションしたいと考えた。 追記になるが、その報告を書いておきたい。

 

僕が運営するG/P Galleryは、グローバルに活躍する作家を育成・プロモーションすることをミッションとするものだが、「現代アートとしての写真家」が幾人も所属している。

 写真を拡張するラディカルなプロジェクトをいくつも進めている。その1つである「漂流」は、横田大輔、川島崇志、赤石隆明という30代前半の若手アーティスト・ユニットだ。

なかでも横田大輔はここ数年、海外ではいくつも賞をとり、高い評価を得ており、アムステルダムのfoam写真美術館で個展も行った俊英である。

彼らのような才能ある「現代写真家」たちに、予見に満ちたウエルベックの『地図と領土』を読ませ、新作を作ったらどんなことになるのだろう?

 その成果が2014年9月にG/P+g3/galleryで開催された「漂流 on the flow──ミシェル・ウエルベック『地図と領土』と写真と──」展であった。

 

赤石隆明は地図(フローチャート)を撮影し、アート作品をつくることを、横田大輔は、全てが溶解し合った廃墟のような巨大な出力による写真立体作品(Matter)を発表した。

川島崇志は、この小説に出てくる写真の技法を全て試み、その上で、ラストに出てくる「まだ存在しない」技法による作品をつくることに挑戦した(その作品がその後、『地図と領土』の文庫版の表紙を飾ることになったのは、なんという宿命だろう!)。

 

川島崇志は、アントニオ・タブッキゼーバルトらのような、断片的な物語を駆使する小説手法にインスパイアされた写真作家であり、ちょうど3・11東日本大震災というカタストロフを契機とするシリーズを制作中であった。川島はウエルベックにより提起された技法を徹底的に検証し、自らの作品をつくった。  

アートフェア・代官山フォトフェアで行ったシンポジウムになおいて、訳者でありフランス文学者の野崎歓氏をおまねきし、本展の内容を3人のアーティストたちとシンポジウムを行った時、野崎氏がとても驚かれていたのが今も忘れられない。  

 

僕も、チャンスがあればいつの日か、「来るべき写真」についてウエルベック本人と語り合ってみたいと、密かに願っている。

23写真がなぜ、コンテンポラリーアートの前線に躍り出ているのか?

2017年のアートワールドで、最も重要な展覧会をあげろといわれれば、僕はためらうことなくロンドンのTate Modernと、アートバーゼルに合わせてファウンデーション・バイエラーで相次いで開催された、ヴォルフガング・ティルマンスの2つの写真展をあげるだろう。

Tate Modernにおける大規模な展示は「Wolfgang Tillmans 2017」と題されていることからもわかるように、これはティルマンスの2017年、つまり「今」を強く打ち出すものであり、それから間をおかず開催されたバイエラーでの大規模展示の方は、これはズバリ大文字の「WOLFGANG TILLMANS」であり、駆けつけてみて、あまりの完成度の高い回顧展に陶然としてしまった。

tateでは彼のプロジェクトであるBetween Bridge(ティルマンスがキュレーションを行なっている)や「トゥルースタディセンター」に力点が置かれていたせいもあり、tateの展示の方が良かったという人もいたが、僕はバイエラーにも確信というか、決意を感じた。

 

その2つを観る体験は、ある意味で対照的であり、いい意味で随分考えさせられ、実に刺激的だった。

その2つの同時性がティルマンスという「運動体」なのだ。

 

ファウンデーション・バイエラーは、ピカソやモネ、ロスコなどを扱っていた大画商エルンスト・バイエラーがレンゾ・ピアノに設計を依頼してつくったコンテンポラリーアートの「奥の院」であり、ここで個展が行われることは、現代美術の「マスター入り」「殿堂入り」を意味すると言ってよい。この数年、アートバーゼルに合わせてぶつけてくるラインナップは物凄く(2010年のバイエラー亡き後のディレクターはサミュエル・ケラーである)、バイエラーで観たジェフ・クーンツも、ゲルハルト・リヒターも、死せるバイエラーの魂をうけつぐような、選りによった「名品」ばかりであった。

2015年にグローバルコマーシャルギャラリーであるツヴェルナーの扱いとなり、資本主義のど真ん中に突っ込んで行ったティルマンスが、バイエラーでどのような展示をするか、それは実にスリリングな出来事といわずして、何と言おうか。

 

「世界」と向き合いリアリティを掴もうとするストレートフォト、インスタレーションの展開、現実の「果て」としてのアブストラクトフォトその美学的世界、そして「トゥルースタディセンター」と呼ばれる現実への回帰、、、。

世界、コンテンポラリーアート、リアルとアブストラクトなど、ティルマンスのアートの有機的な全体性を俯瞰すると、いかに「写真」がコンテンポラリーアートの最前線に、躍り出ているのか。重要な存在になったかがよくわかるだろう。

 

1968年生まれのティルマンスは、90年代に活動を開始し(1990年にイギリスへ移住)『i-d』マガジンなどでのファッションフォトやポートレイトで知られるようになるが、その一方で1993年にはケルンのギャラリー・ブッフフォルツと、ロンドンのモーリン・パーレイがディレクターを務めているInteriumで初個展を行いファインアートの分野でも注目を浴びるようになる。

偶然にも僕はこのInteriumでの初個展を見ている。もちろんティルマンスが何者であり、その後どのような展開をするかなんて、当時は全く知るよしもない。僕はロンドンに住んでいる友人のところに遊びに行き、ガーデンを見てまわっている時に、モーリン・パーレイのギャラリーは面白いよというので行ったのだ。

それから20年以上の時が経った。その間に、ロンドン(tateやサーペンタイン)、ニューヨーク(PS1やツヴェルナー)、ベルリン(ブッフフォルツ)、チューリヒ(クンストハレ)、バーゼル(アートバーゼルのunlimited)ベニス(ベニスビエンナーレ)日本(ワコー、金沢21世紀、国立国際美)などで彼の展覧会を見続けることになってしまった。

ある意味で自分が生きている世界の変転を、ティルマンスというフィルターで見ることになってしまった。そう思うと、奇妙な宿命すら感じてしまう(もっとティルマンスについてだけ書きたいところだが、そうすると一冊の本になってしまう。それは、またの機会に)。

 

さて、ティルマンスが大きくコンテンポラリーアートワールドで評価されるようになったのは、2000年のターナープライズを受賞したことである。この時の審査員にはtateの館長のニコラス・セロータやサーペンタインのキュレーターであるジュリア-ペイトン・ジョーンズらであり、写真が現代美術の登竜門を獲ったのも始めてならば、従来はイギリス人だけが対象であったターナー賞がドイツ生まれのティルマンスに与えられたことも、極めて「オープン」な姿勢を見せる出来事であった。

 

ティルマンスが写真の世界、いやアートワールドにおける写真という存在を変えたと言ってもよいが、今振り返って考えるならば、時代の変化の必然として2000年のターナープライズはあったということだ。

なぜならば、写真が明確にコンテンポラリーアートの重要な分野となったのは、2000年を超えてからである。

ベッヒャー夫妻が主導してきたデュッセルドルフのクンストアカデミー出身のトマス・ルフやアンドレアス・グルスキー、トマス・シュトルートらが、グッゲンハイム・ソーホー(今はない)でアメリカ上陸をとげ写真の「価値」を絵画と拮抗するものに転換させた。

 

ベッヒャー夫妻の「写真がコンテンポラリーアートにシフトするための教え」は、2点ある。

1つは、写真の意味が変質するまでサイズを巨大化させること。

2つ目は「タイポロジー」。類型を同じ撮影法により蒐集、比較し歴史や社会にインヴィジブルに内在しているものを、見える化すること。ベッヒャーはナチス時代の工場の建築様式を、ルフはポートレイトを、シュトルートは街路やファミリーフォトなどの類型を作品化した。

 

記録の写真ではなく、アートフォトへのシフト。

写真を真実のアリバイとするのではなく、写真そのものを批評の産物と考えるカナダのジェフ・ウォールや、パフォーマンスの記録写真と考えられていた写真を、そのものが作品たりうると転換させたシンディー・シャーマン。頭脳の中のヴィジョンの思考実験として写真をとらえる杉本博司らの、アートワールドにおける台頭と、ティルマンスターナープライズ受賞が、シンクロした事件であることが重要なのだ。

 

写真が生まれて180年ぐらいだが、その「記録」「真実」をめぐって成長した「写真の第1ステージ」から「第2ステージ」へのシフトを見事に整理したのは、イギリスの元V&Aキュレーターで批評家のシャーロット・コットンの功績と言えるだろう。世界各国で翻訳された彼女の主著『Photography as Contemporaly Art(現代写真論)』は、1970年代以前の写真史をバッサリ切り落とし、マルセル・デュシャンに始まるコンセプチュアルアートと現代写真を接続させたことは実に的確な判断だった。

 

以前にも書いたが、絵画に代表されるヴィジュアルアートは、マルセル・デュシャンによって網膜的な限界を指摘されながらも延命し続けてきた。しかし、それが決定的な隘路にたどり着いたのは、アブストラクト・ペインティングをへたミニマリズムと、コンセプチュアルアートの台頭であった。すでにグリンバーグによっても予見的に指摘されていたように、キャンバスの上にペインタリーな手法で、さまざまな「イリュージョン」の意匠を繰り出していた絵画が停止する。

 

ヴィジュアルが失効したかに見えた時、それまでは絵画に追随していた写真が前面に押し出されたことは、ラディカルなシフトではあるが、ある意味で「第二芸術」とすら見なされていた写真が前線化するとは、皮肉である。

ここから、絵画と写真は明確に分岐する。

 

ここで言うラディカルなシフトは、延命としてのフォトリアリズムへの活用ではない。

ここでスリリングな事態として注目すべきは、アブストラクトいや、コンセプチュアルアートによってさまざまな形で提起された「インヴィジブル」なアートの領域。それに対して写真が有効であるとされたことだ。

 

ティルマンスを僕が、絵画と写真の交差点として、重視するのは、このシフトのわかりやすい事例だからである(ベクトルはちがうがゲルハルト・リヒターもまたその事例である。象徴的なことに、ファウンデーション・バイエラーでリヒターの大回顧展が行われていた時に、展覧会場から続く地下のフロアにおいて、なぜかティルマンスの巨大なアブストラクトフォトの展示が行われていた)。


絵画と写真との関係。

この相互のシフトにおいて早い段階でそれを指摘した重要な論考があることを忘れてはならない。

 

1977年に、アメリカの芸術理論誌『オクトーバー』の主幹批評家ロザリンド・クラウスが書いた「指標パート2」での指摘である。

クラウスはこう書く。

 

「写真と抽象絵画――これほどかけ離れていると思えるものがあるだろうか。一方はその画像の源を完全に保存しているのに対し、他方は世界とそれがもたらすイメージを遠ざけているからだ。しかしながら今、七〇年代に生み出されている抽象芸術の広い範囲にわたって、写真の諸条件は容赦ない影響力を発揮している。仮に、一九世紀後半と二十世紀初頭の数世代の画家たちが、自らの作品が音楽の状態に達することを自覚的に熱望していたと言えるなら、今日私たちは、徹底的に異なった要請を扱わなければならない。逆説的に聞こえるかもしれないが、抽象にとって、写真がますます重要な操作的モデルとして機能し始めているからである。
そこでは、美術におけるそのような状況の生成、その歴史的プロセスではなく、私たちが今日多種多様な作品において直面する内的構造に注意を向ける。写真が抽象のモデルとなるということは異例の事態であり、私の考えでは、この異例の論理を掌握することこそ重要なのである」

 

「写真がますます重要な操作モデルとなる」とは、いかなる事態だろうか。

 

ここで問題とすべきことは前章とは、全く異なるベクトルである。真逆だ。

コンセプチュアルアートの発展のために、写真の活用が有効であるという発見。たとえは、ジョン・バルデッサリの薫陶をうけたアラン・カプローはハプニングの表現を記録するだけでなく、写真を多用しコンセプトブックの形式を発展させた。

その、逆もある。似て非なるものである。

画家エド・ルシェは1962年に『26のガソリンスタンド』と題したフォトブックシリーズ、連続した小冊子を作り始める。

これはかつてからある写真集ともいえるが、ある意味では本自体が類型をテーマとした、コンセプチュアルな作品ともいえる可能性を提示していたことが、重要だった。

シンディー・シャーマンは典型だが、「写真を使った」コンセプチュアルアートの誕生である。

コットンの本は、写真の第2ステージでどのような両義性の化学反応が起きているかというガイド書なのだ。

必読である。

 

さて、この章ではヴォルフガング・ティルマンスを事例として書いてきたが、2017年においては、コットンが明示した「コンテンポラリーアートとしての写真」は、さらに加速化して、猛烈なスピードで多種多様な表現をうみだしている。その動きを追うようにコットンも『写真は魔術』を発行したり、新しいタイプのフォトキュレーターやクリティックの動きも盛んだ。

動きの中心はグローバルに雑誌『foam』も発行するオランダのアムステルダムのfoam写真美術館、そしてスイスのウィンターツール写真美術館といえるが、その加速を後押ししているのが、2010年ごろからニューヨーク、パリ、アムステルダム、ロンドンなど世界の主要都市で開催されるようになったフォトフェアとアート&フォトブックフェアである。

この背景にも、写真を取り巻くデジタル化(出力機、プロジェクター、インスタグラム、3Dデータなど)による。

これら現代写真については、シャーロット・コットンの『現代写真論』をアップデートした写真論がかかれることが急務であることは、間違いない。

 

変容と拡張。

写真がコンテンポラリーアートの領域は、まだまだ分断されているともいえるが(現代写真のフロントライトで何が起きているのかをカバーできている美術館キュレーターはまだまだ少ない)、「写真」と「絵画」を隔てさせるのではなく、「ピクチャーの未来形」「来るべきピクチャー」はどのようなものか?を問わなくてはならない。

それをしっかりリサーチし、キュレーションし、理論づけしていかねばならない。

 

今写真は、熱い領域だ。

 

22絵画は写真との対立を乗り越えて、どこに向かっていくのだろう?

人は視覚的イメージを、そのまま、劣化させることなく記憶できない。絵画の発生も、写真という欲望も、ともにルーツは同じだ。

確かに絵画と写真は、仲良く並走しているかのごとく装ってきたが、実は人間とアンドロイドほど違っていると、暴露されるようになった。

写真をもとに絵画をつくることは、写真が誕生した時から始まっている。しかし、ただ写真を使った絵画の歴史をなぞるだけでは、まるで意味はないだろう。

そこにおいて、どのような変換、変成がおこなわれてきたかを考えなければならない。

 

アジェたち写真家は、ユトリロのような、写真をもとに絵を描く画家の注文として写真を撮っていた。また、ドガのように「動き」を写真によって学習しようとした者もいた。また、写真が誕生することにより、印象派の人々(そして後期のスーラやドローネに至る光学の意識化)はもちろん、そのリバウンドとして、肉眼で捉えた世界として絵画を発展させようとした者たちもいる。彼らが意図した「デフォルメ」という問題は、カメラという機械の目が捉えた「正確さ」とは別の意識や、感覚としての「正確さ」「リアル」への戦略化であった。

写真を下敷きにしつつ、「歪形」による強度を生成したフランシス・ベーコンのことについて語ることも、必須である。

絵画と写真の交互関係、共犯関係、上下関係は、実にラディカルな問題であるにも関わらず、徹底しては言及されてこなかった。


2007年にロンドンのヘイワード・ギャラリーで行なわれた『The Painting of Modern Life』は、絵画と写真の単純で厄介な問いを、見事に実に展覧会化したものであった。

ウォーホルにはじまり、リヒター、デュマス、タイマンスはもちろん、ゲルシュ、モーリー、ホックニー、ハミルトンなどの作品群、そしてサスナールまでそろえるというコンテンポラリー・ペインティングのラインナップ。

あくまで作品をして語らせることこそが重要だという、キュレイションの明確な態度が見事であった。絵画作品と、もとになった写真が並置されていたが、絵画と写真の問題が「解かれている」わけではなく、絵画と写真の問題が「提示」されていた。

カタログには、出展作家たちの写真に対する発言が調べられ、引用されていた。

その中から、興味深いものを訳出しながら話をすすめたい。

たとえば、ウォーホルはこう語っている。

 

「僕はランダムにイメージを選ばない。取り除いて、注意深くセレクトする。ペインティングのためのイメージは、すべて何らかの形でメディアを通して見たもの、“メディア・イメージ”なんだ。ルポルタージュフォトや古い本たちからのイメージ。僕はメディアを変化させないし、僕のアートとメディアを区別したりなんかもしない。自分の作品のために、メディアを通すことでリピートしただけだ。僕はメディアがアートだと信じるね。だれもメディアから逃げられない。メディアはすべての人に影響を与える。メディアはすごく強力な武器なんだよ。僕がフォト・シルクスクリーンを始めたのは、お金をペインティングした時だ。お金を描いてみると、あまりにもドローイングだったので、ピンとこなかった。誰かがシルクスクリーンでやってみればと言ったので……」

 

絵画と写真の差異を決定づけているのは、写真が雑誌や広告において、メディアそのものとして大量に流布し、人々の中の意識化にまでおよぶほど機能してしまったという宿命だ。

写真はイメージの消費戦争に駆り出され、絵画はそれを見て城に閉じこもった。

しかしウォーホルは、アート(絵画)の城を守るのではなく、逆に積極的に流入を受け入れることで力が得られると気づく。これはポップアートの発生と関係する重要な革命的なパラダイム・シフトだ。

 

ウォーホルは、手で描く場合であってもイメージは写真からピックアップするし、いやそれ以上に、機械的にメディアを通す方がしっくりくると告白する。

しかし、ウォーホルと同様に「ポップアート」というカテゴリーで語られてきたホックニーは、別の感覚を吐露している。真逆だ。ベンヤミンが生きていたらポップアートにおけるアウラ論を書いて面白がったろう。


「あなたは写真(ピクチャーズ)を撮り始める時、光に強く気がつくことになる。私は、光がピクチャーのエッセンスだと発見した。つまり、光なしには、ピクチャーは存在しない。この発見は、私のペインティングにおいて写真との共生関係が形成されることになったと思う。1968年からは、はっきりと写真を使うようになった。そして1972年頃から、写真に忠実なたくさんのペインティングをつくった。私のペインティングにおける課題は、つねに、ナチュラリズムとしての絵だということだ。つまり、私は決して、カラースライドをキャンバスにあてて描いたりしない。つまり、フォトリアリストのようには写真を使わなかった。そこまでしなくても、私は十分に描けるからね。自分の記憶を揺り動かすための、また、ディテールを思い出すために写真を利用する。類似はアンリアル、つまり嘘のようなものなのだ」


ホックニーの場合における写真は、光の意識、記憶の素材としてあり、彼は写真のメディア性には魂を売り渡さない。ユトリロからベーコンにいたる絵画的強度の生成を狙うペインターに属している(面白いことにホックニーは、ポラロイドなどを使ったパノラミックな「写真作品」もつくるが、その場合はピクチャー化するのではなく、写真に隠されている写真の可能性を引き出すように使っている。ホックニーは、凡百の写真家をこえるメタ写真家なのである)。


「写真が絵画に変換される時に、そこで何が起こっているのか」という問題。

 

ユトリロでも、フォトリアリズムでも、ベーコンやリヒターでもよいが、絵画(ピクチャー)が袋小路に入りこんでしまった時、写真は絵画を死滅させるのではなく、絵画にヒントやメタ化、思考のディメンションのシフトを与え、延命・発展させる道を生み出した。

ウォーホルとホックニーの間には、あきらかに写真に対する戦略に差がある。しかし重要なのは、写真が絵画を気楽にしてくれている、開放感を与えているということだ。写真が絵画の隘路や暑苦しい表現や主体というもの、つまり、「小さな私」から絵画を解き放ってくれる契機になっていることは、バカみたいな意見に思われるかもしれないが、本質的な出来事なのだ。

フォトリアリズムのフリッツ・ゲルシュでさえ、

 

「写真を使って、私の感情から自分を解放した経験はとても重要でした」と告白している。

 

ペインターたちが「絵画」という大きな歴史から自らを解放する上で、写真が大きな役割を果たすことになったというパラドックスは、もっと評価されてよいだろう。

しかも、アートがサバイブしていく時、写真はペインティングについて大きな力を与えることになる。それは、「イメージ」ということについてである。多くのフォトリアリストが写真を、ただペインティング素材としたのに対し、別の回路を発明できた者がいる。

 

リチャード・ハミルトンは、その長いアーティスト活動の中で、抽象、写真、ポップアート、具象画とさまざまに変容を見せてきた。彼の発言は注目に値する。


「50年代の半ばまでは、他の素晴らしい画家のように、アブストラクト・ペインティングを制作していたんだ。そのあと、人物画に戻った。本物の風景や人物を描くのではなく、雑誌の切り抜きとか使ってね。本物の世界と直接コンタクトするのは必要ないし、雑誌やヴィジュアルメディアはたくさんの刺激を与えてくれる。50年代に、我々は巨大なヴィジュアル・マトリックスを通し、一瞬のうちに世界中を見ることができるという可能性に気づいたんだ……。写真が私をひきつけてやまない理由は、写真のイメージがもつ、文脈をほのめかす力なんだ……」

 

「ヴィジュアル・マトリックス」「文脈をほのめかす力」。ハミルトンの思考には、視覚の生成だけに心を捕らえられた画家にはできないジャンプがある。

彼は、我々がイメージという渦の中にいて、それがあたかも自然環境であるかのように暮らすようになったこと。絵画はイメージのマトリックスとインデックスの関係になったことをハミルトンは気がついたのだ。これは、ある意味でイメージのレディメイド化であり、ハミルトンをのネットアートのフロンティアと呼んでもよいぐらいだ。


どのようなインデックスとして写真イメージから絵画を変成させるのか。リヒターはそれをやっていると僕は思う。彼は画家だが、メタアーティストとして実に戦略的に写真を扱える。素材としても写真を多く使うし、またダイレクトな写真や、写真とペインティングを同居させた「オイン・オン・フォト」も作り出す。

面白いのは、彼が写真を絵画をつくるための素材として捉えているのではなく、ウォーホルが機械的シルクスクリーンで行ったことを、わざと絵画的に手で行なっているということ。こう書くとまるでフォトリアリズムではないかと思う人がいるかもしれないが、真逆だ。

リヒターの発言を読んで欲しい。


「私にとって写真は、美術史よりも、もっと自分自身と関係深いものだ。写真は、我々の現在のリアリティのイメージなのです。そして写真は、リアリティの代わりではなく、リアリティにたどり着こうとする時に、助けてくれる杖のようなものです。ポストカードをコピーしたり、奇妙なこと、ばかげたこと、好きなようにペイントできる自由が、写真とつながっているのです。色、コンポジション、空間のような、ペインティングにおいて重要だと考えられているものや、私たちがすでに知っていることは、アートにおいて優先的なことでもないし、必要なものでもありません。私の今の生を、そして私に関係しているものを写し出してくれる写真を探すのです。私は主に白黒で撮影します。モノクロの方が、カラーより効果的に、ダイレクトに、そして非芸術的に、そして明確にものを表現することができるから。これが私がアマチュアによる家族写真や凡庸なスナップを選んでいる理由です。……ペイントされてしまうとイメージは、それがもっていた具体的な状況を伝えることができず、表現は不合理的になっていく。つまり、ペインティングそのものの意味、情報、中身が変質していくのです。私は写真を真似しようとしているのではなく、写真をつくろうとしているのです。写真がただ“露出しただけの紙”という仮定を無視すれば、私はちがった意味で写真を実践しているのです」


リヒターは、恐ろしく面白い。彼はハミルトンがいうように社会のイメージ・マトリックスから写真を選ぶ。好き嫌いをこえて。

ベンジャミン・ブクローがリヒターに「モチーフを無作為にとりあげることによって、絵画の内容も否定した」と発言したのに対しきっぱりと否定しこう言っている。

 

「いや、モティーフを無作為に選んだことなど、一度もない。利用できる写真をみつけるには、いつも大変な苦労をしなければならなかったんだから」

 

多くのペインターが、記憶(たとえば、ピーター・ドイグは、「私は、フォトグラフィーを記憶を映し出すものとして使っているつもりです」と直球語る)や、写真に内在する物語を増幅させようとするのに対して、リヒターは、ウォーホルと同様、非人間、非感情化のプロセスとして、つまり自分が完全に写真機化することによって、新たな次元のペインティングを得ようとしている。

リヒターの写真戦略はウォーホル的であると同時にハミルトン的なのだ。

 

ならば、徹底してコピーであろうとすることで浮かびあがるものは何なのだろうか?

例えば、ヴィヤ・セルミンズは、海だけでなく、爆撃機や爆弾を子細に描くが(リヒターも爆撃機を描いている)、彼は「レイヤー」という考えを語っている。


「私をただ床に座って、写真をコピーしているだけと思う人もいるようです。しかし、それは“もう一つのクオリティ”を生み出しているのです。機械的な行為でもなく、イメージに基づいた作品でもないのです。写真は、撮った人の主観にかわって、もう一つのレイヤーとなります。このレイヤーが距離を生み、私と作品の新たな関係を探れるようになるのです。私は戦争の写真を使いますが、私は戦争写真の表面が好きだったのです」


セルミンズの絵は、たいがい小さく、全く「本物」と見分けがつかない。近寄ってもわからないぐらいだ。見ているものは、まるで意味のないものに異常に魅きつけられて、突然恐怖にかられてしまうかもしれない。「モチーフに内在する緊張のようなもの」が体験の中に静かに浮かび上がる。セルミンズは、そのような「対象」として写真を選んでいるのだ。

 

長くなってしまったが、もう何人か、その「変質」についての告白に耳を傾けてみよう。それはハミルトンが言う「ほのめかされる文脈」と関連するだろう。

マルレーネ・デュマスとリュック・タイマンスの考え方である。


デュマスは、ポラロイドで被写体を自ら撮影し「絵画化」する。あるいは時には、新聞に掲載されているイラク戦争捕虜の写真をもとに絵画を描く。そこで行なわれていることはいったい何なのだろう。

デュマスはこう言う。


「アートスクール時代、私はリアリティと強いつながりを持ちたい、リアルな生活を追求したいと思い、絵を描いていましたが、写真をもっともっとたくさん撮りたかった。そうすれば、リアルライフに接近できると思ったのです。イメージの曖昧さについて考えはじめた時、そしてイメージは鑑賞者の観るというプロセスを経ないと現実化されないという事実に気づいた時、ペインティングを理解し、受け入れはじめることができました。……ペインティングは単なるイメージでもないし、あるイメージを単にリプロダクトしたものでもありません。ペインティングは死体より、もともとフィジカルなもので、むしろゴーストに似ていると思います。みんなはイメージが大好きで、イメージのリプロダクションを見ているだけ。誰もペインティングなど見ていないです……」


ゴーストとしての絵画を生み出すために。

興味深いのはデュマスが、観客が実は「イメージのリプロダクションを見ているだけで、誰もペインティングなど見ていない」とその乖離について語っていることだ。イメージは、社会とのリンク、リアリティについて、暗示あるいは意味をつくる。しかし、誰もみていない。だからこそデュマスは、異物としての絵画を作ることになる。

 

タイマンスの「写真と絵画」についての考えはどうなのだろう。


「私の作品のほとんどが、デリバティブ・イメージ(すでに存在していて、そして、私がそれについて再度とり憑かれるイメージ)についてのものです。私は、イメージが完全に死ぬまで観察し、分析し尽くします。もう何も見るものがなく、代わりになるものがないと確信したのちに、ペインティングをはじめます。これはペインティングのなかでも、きわめて厳密な行為です。なぜなら、何かが完全に死ぬまで観察するのですから。私の絵は、イメージについての純粋な疑問から生まれます」


社会や歴史の中でのイメージ。そしてその死。そこから始まるのだと、タイマンスは言う。表面的なイメージの指示性とは、まるで逆のことが起きている。

彼はある時、日々家に送られてくるDMの写真を素材にしてペインティングを行なったことがある。彼にとって、そのイメージは、何ら美学的基準で選ばれたものではない。あるとすれば、資本主義世界に舞う通俗的なイメージ、凡庸さのサンプリングである。

しかし彼はそれをアイロニカルには描かない。

ポップアートのようなアイコン化もしない。


「イメージを理解する上での疑いだけではなく、制作する過程の中でも疑いは発生します。おそらくこれは、新しいことであり“コンテンポラリー”としてとらえられることでしょう。私は、具体的なイメージを描くので、すでに存在する表現そのものを表現しているとみなされやすいのですが、一方でこれは、表現されたイメージを再構成した要素が絵の中にもちこまれているということです。これは、今までとは全く別なペインティングなのです。ただのヒストリー・ペインティングではなく、歴史は異なるという事実を気づかせることなのです」


タイマンスが写真を使い絵画で行なっていることは、きわめて批評的だ。そして「イメージ」と「絵画」に横たわる「なれあい」を切断する。そして同時に、「写真」の完成度に対して「絵画」の優位性をも強調する。


「写真は流動性を含んでいず、“瞬間”というものから離れることができないのです。……ペインティングは、さまざまな角度からアイデアにアプローチし、イメージを深く理解可能です。これは写真とは違ったメディアであり、タイムスケールなのです。そして脳の中でブレンドされたような、深く認識されたイメージを生み出します。それは自分が記憶したイメージや、記憶を再構築したものを含んでいます。つまり、記憶には必ず何かが欠けています。この不完成さが、ペイントを成立させるのです」


これらの発言でもわかるように、タイマンスは、写真がもちこむ世界のマトリックスとしてのイメージを、徹底的にチェックし、絵画化する。しかし、同時に、現在の世界でいかにすれば、「絵画」が有効たりえるかということについても、きわめてラディカルなのだ。

表現というメタ化、そして同時に展開する厳密な「未完成感」。タイマンスの絵の大半は小品だが、その小さな絵が、この現実世界に対し行い得る逆襲を感じさせる。

 

写真は今やコンテンポラリー・ペインティングにとってはなくてはならないものになってしまった(のだろうか?)。

 

つづいて、いよいよ写真について考える。

21インターリュード:ロバート・ライマンとの対話。アブストラクトの悦び。

前章でも少しだけ触れたけれど、ゲルハルト・リヒターは、1970年に始めてロバート・ライマンの白い絵を見て以来、強いシンパシーを感じていると告白している。

ライマンの白い絵は、シリーズやコンセプトというより、ライマンが白、なにもイリュージョンを呼び起こさない究極の状況が、しかし、実に豊かであり、終わりがないということの実感と獲得のプロセスとして提出されているのだ。

多くの知識人が、ジョルジュ・モランデイの小さな絵を好きなように、ライマンの絵を愛する人はどんどん増えていくだろう。

それは絵画形式のアブストラクトの可能性という話を超え、人間にとってのアブストラクトの快楽の必要からくるものだと思う。

 

ロバート・ライマンは、1930年に生まれた。

そして、最初に作品として展示できると、自分で思える絵を描いて以来、50年以上の月日が過ぎた。その間に何がおこり、そして今なお何がおこりつつあるのか。

ナッシュビルからニューヨークへ。

サックス・プレイヤーへの夢と断念。

盲目のピアニスト、レニー・トリスターノの教え。新進美術評論家ルーシー・リパードとの結婚と離婚。

アンディ・ウォーホルポップアートの隆盛と抽象表現主義の衰退。

 

彼は長らくMoMAニューヨーク近代美術館の監視員としての仕事につきながら、絵を描き続けた。

コンラート・フィッシャーやハイナー.フリードヒリらドイツのディーラーたちからの評価と支援。

白の絵具とキャンバスだけでなく鉄やハトロン紙やアルミニウムなど多様なマテリアルの「支持体」をベースに使った作風にたどりつく。その作業が今も続く。

ゴーキー、ポロックやロスコ(あるいはニューマンも)、彼に先行するアブストラクトに向かった者たちの多くが、精神を病んだりしたにもかかわらず、彼はなぜ大きなスランプもなく、「白い絵」をつくり続けてこれたのか。

 

美術評論家たちは、ライマンを「ミニマリスト」だとか「モダニズムの巨匠」と呼ぶ。

しかし、そんな世間の評価とは別に、彼の「白い絵」が作られ続けてきた。

マテリアルの上の白。それは何の対象の再現を目指すこともなく、ただ白なのだが、見ているうちに、その多様さ、豊かさに引き込まれる。

10年以上も前だが、ニューヨークのDIA BECONにある充実したコレクションを見た夏の体験は忘れられない。

 

「今日は。絵の歓びについて話しましょう」と、インタビューで切り出したら、「ああ、よかった、ほっとしました。また白い絵の“意味”について質問されるのかと思いましたよ」とライマンは笑った。いつもその話になって、彼は困ってしまう。


「作品を見るという体験は一人のものです。それはもう奇跡といっていいくらいスペシャルな経験だと思います。どのように描かれているか、どんな構造か、どんな支持体か、ぱっと見ではわかりません。もちろんそれらを調べることはできても、それがどのように起きたかを知ることはできないのです。私は自分で創っているので、どんな道具、どのような工程で創ったかという事実は知っているのですが、“どのようになるか”というのはまったく予想できなくて、毎回、どのように終わるか、できたものに驚かされる。毎回がユニークな体験なんです」


ライマンは、ある時からさまざまな支持体を使うようになった。そして、かならずプロトタイプを用意し、「見る―創る」の「課題」に気づいてゆく。見たことのないピクチャーへ彼を向かわせ続けるもの、それは何だろう?


「もしも、描いているものが、知っているイメージやシンボル、物語でないなら、“何をするか”ということ自体が“何を描いているのか”ということになります。大概の人は、そこにイリュージョンを加えたりしてしまうわけだけれど、私はそうでないので、違うことができます。表面をどうする、なぜその表面に描くか、どんな色を使うか、そういった“何を創っているか”ということ自体が問題になるというわけです。実にそれは複雑で、いろんな可能性が開けてくる。よくわかっているイメージではなくて、それを描かないことで、新しい世界が開けていくのです」


彼は、作品自体がどんな壁、光の状態、空間にあるのか。それによって作品が違って見えるということにこわだって説明を続けた。そして言った。「そうすると、構造自体がイメージになるのです」と。


1965年のある日、さまざまな絵画表現を学んでいた彼は、「もう自分は学ぶ者ではない」と思い、自らのアプローチに向かう。

 

「なぜなのかはよくわかりませんし、それによって作品をつくることが用意になったということでもない。ただ、制作していて間違ったと思っても、それはそれで仕方がないと思えるようになったんです。何が起こったということではないのです。でも、しょうがないや、とにかく続けようという気になったのです」


朝10時頃から5時まで、彼はスタジオにいる。でも、実際描く時間は、きわめて短い。


「今、新しい何点かの作品に取り組もうとしています。以前は白の作品ばかりつくっていたんですが、ちょっと違います。99年のもので、作品を中断して覆ってあったんですが、来年それを全部開いてみて、そこに何があったのか確認し、制作しようと思っています。なぜその時わからなくなったのか、気持ちが失われてしまったのか。探して、完成させたいのです。なぜか、それを開いて見てみるべきだという気がしたんです」


彼はゆっくりとしている。そして気づこうとしている、探すのでも、待つのでもなく。未知のものへ向かうことは不安定な旅だが、彼はつかんでゆく。ふと、もうサックスは吹かないんですか?と訊きたくなった。


「もうやめてしまった(笑)。好きな曲?(しばらく考えて)、何だろうな……。即興でプレイした時、どうなるかということがわからないと同じように、私の作品もでき上がってっみないとわからない。一方は目に見えない、もう一方は見える。でも共通するピュアネスがあるんです」

 

彼はよく答え、よく笑う。

帰りぎわに

 

「もしかしたら、絵について私はまだ知らないんだろう。しなければいけないことをやってきた。雪だるまをつくるみたいにね」

 

と答えた。

僕がそれを、受けて

 

「スノーボール・イズ・ホワイト」

 

と返すと、ふっふっふと、さも楽しそうに笑った。

20いま、アブストラクションの可能性について

タイトルからして、なんと仰々しく聞こえることだろうか。もうこのような「構え」自体がコンテンポラリーアートにおいて、とっくに失効していると本音では思っているくせに、またそのように提起するのは、実はどうか。カールステンなら、後藤ご苦労さんと笑われるだろう。

 

しかし相変わらず、アブストラクトをめぐる表現についてはリテラシーが定まっておらず、オーディエンスのみならず、美術大学で学んでいる者さえ(者のほうがかな)対応が曖昧だ。

現在、圧倒的に評価(プライスも含めて)の高いポロック、デ・クーニング、ニューマンを明確に位置付けたのは美術評論家クレメンス・グリーンバーグである。彼とアーティストとの相乗効果がアートシーンを形成したのは間違いない。彼の論考である「モダニズムの絵画」は、随分と批判の憂き目をあったとはいえ、彼の炯眼を無視することはできないと僕は思う。

彼はマルクス主義的な視点の批評軸と、文芸に対する豊かな洞察(カフカパウル・ツェランの翻訳書もある)を持っていたので、アブストラクト表現が生まれてきた歴史的経緯を、広い視点で掴もうとする。一つは音楽のメディウムから「純粋性」を、そしてキュビズムと3次元イリュージョンの限界からアブストラクトへのコンテクストをもってくる。誠実な論の展開だ。

しかし確かに、今読むと、今さらという感は否めない。カールステンではないが、僕らは今なら4D以上の、高次元のベクトルからコンテンポラリーアートについてアプローチするのがあたりまえだからだ。

 

とわいえ、共感できる点もある。彼がすっぱりと絵画の内容主義的な歴史や「作家の思い」などと、アブストラクト・ペインティングの意義を切断していることである。グリーンバーグは「さらに新たなるラオコオンに向かって」と題した論考で、でこう書く。

 

アヴァンギャルドの絵画や彫刻はアヴァンギャルドの詩よりはるかに急進的な純粋性を獲得したと言われている。絵画と彫刻のほうが、より完全に機能だけのものになることができる。機能本位の建築や機械のように、外観と機能が一致するのである。絵画や彫像は、それが生み出す視覚的な感覚の中で燃え尽きる。それと結びつけたり、それについて考えたりするものは一切なくて、ただ感じるものだけがある。純粋詩は無限の暗示を求め、純粋な造形芸術は最少限度を求める。もし詩が、ヴァレリーの主張するように詩の感動を生み出す機械であるならば、絵画と彫像は「造形的光景」の感動を生み出す機械である。純粋に造形的、または抽象的に質の高い芸術作品だけが価値あるものである」

 

論旨は「エフェクト主義」と上げ足をとりたくなるほど痛快、明快。ミニマリズムすら予言している。おまけに唯物史観的なな立場から、抽象表現へのシフトは歴史的必然、とまで考えているのだから、ポストモダニズムから当然目の敵にされる。

しかし、現在のコンピュータテクノロジー、デジタルデバイスコンテンポラリーアートを牽引する事態において、グリーンバーグの断言は的確だし予見があると僕は思う。

また、グリーンバーグは、「ペインタリーなアブストラクト」がキュビズムの旧弊を引きずっていることからくる限界や、現物を貼り付けてしまうコラージュが絵画の3Dイリュージョニズムの矛盾から発生した分裂であることを、丁寧に、そして的確に指摘していた(コラージュ論はヒントからあり、再読に値する)。面白いことに、抽象表現主義の擁護者と思われているグリーンバーグが、それを「ごた混ぜ(ジャンブル)と批判的にあつかっていることである。

そして僕が実に示唆的だと思うのは、色と場について早くに指摘していることだ。1955/58年に書いた「アメリカ型絵画」と題した論考で

 

「最も新しく、また皮肉なのは、ニューマンとロスコが、キュビズムに由来したり、あるいはどんな仕方にせよキュビズムに関係する直線性を拒否していることである」

 

と書き、直線性を容認したモンドリアンや他のペインタリー(美術史家ヴェルフリンが使ったマレーリッシュというドイツ語を翻訳してグリーンバーグはこう呼んでいる)な線と区別する。彼が抽象表現主義を超越するものとしてニューマン、ロスコ、スティルに見出した評価点は2つ。「色彩と開放性」という言葉を使っている。そしてなにより大切なのはニューマンの絵画を、枠の中で生成する「イーゼル絵画」から免れて、「ついには、「場(フィールド)」と呼ばれねばならない」と明記していることだ。

主体が表現するのではなく、場が表現するというヴィジョン!

グリーンバーグが使った「カラーフィールド・ペインティング」という名前はとても居心地の悪いネーミングだったが、アブストラクト・ペインティングを「場(フィールド)」というコンセプトでくくった人は、彼の前にはいない。大概は、線による造形や絵の具のマテリアルというペインタリーな世界に足を引っ張られたままだからである。

話は飛躍して聞こえるかもしれないが、現在、コンテンポラリー・フォトアートがデジタル化により、マテリアルの拘束や絵画史の桎梏を切断する「純粋性」の好機を迎えている時に、グリーンバーグの視点は復活する。アブストラクト・フォトなどのデジタル表現は、アブストラクト・ペインティングから全く離脱する。カールステン・ニコライなどはそのかっこうな事例だ。

 

グリーンバーグは大胆に予見している。1962/69年の論考「抽象表現主義以後」において

 

「これら三人(ニューマン、ロスコ、スティル)の画家全員の芸術において達成された究極の成果は、色彩の強度以上のものとして記述されなければならない。むしろそれは殆ど文字通りの開放性の効果であり、それによって創造がなされている最中には、その開放性が色彩を包含し吸収してしまう。開放性は、絵画芸術においてのみならず——この時代に馴染んでしまった眼を最も活気づけると思われる質である。ここでは簡単に説明するに留めて、私は読者に自分で確かめてもらうことにする。危険を承知で言うのだが、ニューマン、ロスコ、スティルの絵画における新しい開放性が、近い将来の高度な絵画芸術にとって唯一の方向への道を示していると私は考えている、と述べるだけで良しとしよう」

 

グリーンバーグがたどり着いた地点は、僕にはもはやペインティングの領域を突破してしまったように見える。「新しい開放性」は、「純粋性」へ向かうアブストラクト・ペインティングすらも突破してしまうのだ。唯物論的な彼の宿命としての筆は、彼にこう書かしめてしまうのだ。

 

「芸術において価値もしくは質の究極の源泉とは何であろうか。そこから導き出された解答はこうであるように思われる。すなわち技量でも訓練でもないし、制作や実作に関係したその他のいかなるものでもなくて、唯一、構想(コンセプション)だけであると」

 

このテキストを書いたのは1962年であり、そして69年に改稿されている。もちろんグリーンバーグは抽象表現主義の凋落やポップアートの台頭、コンセプチュアル・アートの出現を見ていた。彼は1994年まで生きたし(85歳)、後期の批評については未見なので彼がコンセプチュアル・アート以降どのような展開を見せたかはわからないし、実のところあまり興味もない。アートワールドの野蛮な動向は、精緻な批評家を乗り越えてしまった。しかも彼の「開放性」や「コンセプション」という「到達点」は、もはやモダニズムをこえた地点にある。予見と限界とがここにある。

 

さて、ここでさらに別の事例を出してアブストラクト・ペインティングあるいは、アブストラクションの可能性とあ再編についてさらに「相対化」して考えてみよう。

 

 ゲルハルト・リヒターのことだ。

 

リヒターは1962年なカールステンと同じく旧東ドイツ生まれで1961年に西ドイツに移住した。言わずもがな。現在のアートワールドの頂点にいる存在であるが、古典的な意味での「巨匠」ではない。彼の「絵画」は、フォト・ペインティングやアブストラクト・ペインティング、具象画、ガラス作品、写真作品など多くの「系」が錯綜してエコロジーが形成さるれている。それを多くの批評家は、作為的で戦略的な「メタアート」として分析したが、リヒター自身はそれを否定・撹乱する言動をおこなってきた(その言説の歴史のドキュメントとして彼のインタビューを編集して作られた『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』は必読である)。しかし、興味深いのは、リヒターがアートに対してシニカルなのではなく、常に批評家たちの意味づけの拘束を振り払って、可能性を探し出そうとしていることだ。美術史家ベンジャミン・ブクローとの対話は殆ど喧嘩である。

 

ベンジャミン・ブクロー「すべてがやりつくされた現在において、芸術家は美術史の模倣として存在するしかないのに。」

リヒター「さあね。べつにそうは思わない。」

 

こんな調子である。ブクローはリヒターをひたすら挑発して「アブストラクト・ペインティングは、絵画の内容を否定して、絵画という事実だけを示しているのではなく、現代の表現主義を皮肉って、パラフレーズしているのでもないわけ?」とつっこむ。リヒターは、いったいなんということをききんだ!と怒る。

この対話であきらかにされるのは、ブクローのポストモダニズムからの視点が、まるでリヒターと噛み合わないということ。しかしそれによってリヒターが不可能性の隘路にある絵画において、ブラックホールのような裂け目、まさに分裂生成として出現しているという事実である。リヒターは対話のラストでこう言う。

 

「つまり絵画を通じて僕がしようとしているのは、ほかでもないもっとも異質なもの、もっとも矛盾に満ちたものどうしを、できるだけ自由で活発に生きられるように、結びつけようとしているわけだ。天国ではないんだ。」

 

彼のアブストラクト・ペインティングは、多様な技法が使われているがその1つに、絵の具をスキージで引っ掻いて、元の画面を破壊(別のレイヤー化するといったほうが良いけれど)するものがある。この行為はアブストラクトといえどペインタリーに陥らはがちなアブストラクト・ペインティングを「寸止め」する処置として、非美学化するために導入された技法に見える。リヒターはブクローが指摘するように20世紀美術を相対化しインデックス化し、絵画制作をしていないといいながら、実際はその選択を的確に行なっていると思われる。彼は東側からタイムラグをもって急速に、非リニア的に西側のアートワールド、アートヒストリーに参入したのだからら、人一倍の相対化する視点を獲得しているのだ。かれが画家のロバート・ライマンを評価するのは、「彼の作品がはじめて「無」を表現していたから。僕の立場に近かった。」からであり、また、一番好きなアーティストとしてアンディ・ウォーホルをあげるところも、彼の確信犯ぶりがよく分かる。ロバート・ストアに対してこう告白している。

 

「拭き取るというむしろ機械的な手段をみいだせてラッキーでした。その点、私はウォーホルに恩がありますね。彼は機械的なものを正当化してくれました。どうやるかみせてくれた。除去は仕事をするなかでは普通のことですが、ウォーホルは細部を消す現代的な方法を私に見せてくれた。少なくともその可能性が有効であると確信させてくれたのです。彼はシルクスクリーンと写真でおこない、私は機械的な拭き取りでおこないました。それは私を非常に自由にしてくれました。」

 

リヒターにおいても絵画は、何かを再現する場ではない。それが具象画であったとしても。そしてとりわけアブストラクト・ペインティングは、彼の活発現実」を表現しているという。それはグリーンバーグが指摘したような3Dイリュージョンを活用する絵画、つまり物語や参照項を喚起する絵画ではないという意味で「現実」そのもの、つまり生々しい分裂生成として出現するということ。ストアが「つまりアブストラクト・ペインティングのなかにイメージの連想や暗示を読む込むのは許すが、具体的な図像が見えてはならないのですね。」という質問に、リヒターはリラックスしてこう答えている。

 

「絵画をおもしろいと思うのは、そこに見知ったなにかに似たものを探すからに他なりません。なにかをみて、頭のなかのなにかをくらべ、なんに関連しているかをみいだそうとする。、、、マレーヴィチだろうがライマンだろうが同じです。そういうふうにしかみるほかない。、、絵をみる行為はどのように機能するかにこだわりたかっただけです。、、ほとんどの画家はそれを回避しようとしてきました。でもこのメカニズムを回避することはできない」

 

矛盾、やはりリヒターは1つの矛盾である。アブストラクトを脳がイリュージョンを認知することに委ねようとするのだから。これはグリーンバーグがニューマンについて語ったこととは真逆だ。しかし、リヒターはニューマンを尊敬しているのだから。リヒターのアブストラクト・ペインティングへの望みは、アブストラクト・ペインティングを見てくれということに尽きるだろう。

 

さて、最後にアブストラクト・ペインティングの力の生成について語っておきたい。グリーンバーグはそっけなく「ただ感じるものがある」と言い、リヒターにおいては矛盾、分裂としての「現実」だった。ジル・ドゥルーズは前にあげた『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』の中で、ベーコンが「図表(ダイアグラム)」と呼ぶものについて分析している。

 

「偶然の痕跡を残すこと(軌跡—線)、場所や帯域を洗浄し、一掃し、あるいは拭うこと(染み—色彩)、いろんな角度、速度で、絵の具をなげつけること。」

 

すなわちダイアグラムとは「画布の上、具象的蓋然的前提を襲ったカタストロフィーのようなもの」なのだ。これらは「意味を無にする軌跡」だ。「画家は、カタストロフィーを通過し、カオスを抱擁し、そから出ようと試みる」。ドゥルーズが提示する「来るべき絵画」の方向は3つ。

 

①抽象   ドゥルーズによれば、カンディンスキーのように「抽象絵画は、ダイアグラムをコードによって置き換えた。このコードは、手動的という意味ではなく、数を数える指という意味で「デジタル」である。、、」。コードと光学の力としての抽象。

②抽象表現主義あるいはアンフォルメル芸術とよばれてきたもの  「深淵またはカオスが、最大限に展開」さるたもの。「もはや形態の変形ではなく、物質の解体によって、物質の曲線や顆粒が与えられる。したがって絵画がカタストロフィー—絵画になるのと、ダイアグラム—絵画になるのとは同時なのだ」。内的ヴィジョンではなく、絵の全面を覆う手動的能力の延長としての「オール・オーヴァー」。

③これがベーコンにあたるもので、輪郭を救出しつつ、カタストロフィーから出る。「内部に沈ませるのではなく、外部にだす」。神経系への直接的な作用を捕える方法。「抽象絵画のように光学的ではなく、アクション・ペインティングのようにも手動的でない」とドゥルーズは言う。

 

ドゥルーズからすれば、絵画的強度を得たいならば、宇宙言語の再構築としてのアブストラクトも、ポロックからリヒターにいたる視覚的主体な放棄、消滅(カオスあるいは無)させるアブストラクトも中途半端だということだろうか。

 

しかし、現時点から再編的に見ると、グリーンバーグが気づいた「場(フィールド)」とドゥルーズ—ベーコンのダイアグラムは、全く別の文脈ながら、重なるように思われる。つまり絵画的強度を出すためにのベーコンにおける歪形ではない、アブストラクトな強度の生成術である。

しかし、これはもはやアブストラクト・ペインティングの可能性にとどまる話では毛頭ない。

神経系への直撃、時間的な連続性(動画、アニメイションなど)などもふくめ、やはり、カールステン・ニコライらが切り開く領域を指標にすべきだろう。

 

これらの事は簡単に結論づけられはしない。

さらなる宿題にして、アブストラクト・ジャーニーに出かけたい!