コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

34あとがきにかえて。さあ、コンテンポラリーアートの旅に出よ!

 僕はアーティストたちの「才能」が好きだ。

「才能フェチ」と言ってもいいぐらいだと思う。

AIが世界を管理しつくしたって、奇妙でミラクルな才能の人間が現れて、世界を変えていくと信じている。

 

インタビューしたり、原稿をかいたり、さまざまな企画、展覧会のキュレーションやプロデュースをやるのも「才能」を「見える化」したいという衝動からくるものだろう。

世界を旅し続けるのも、この世界のどこかで生まれた新しい才能、作品に出会って興奮したいがためである。

 

この「コンテンポラリーアート虎の巻」をしめくくる「あとがき」にかえて、書いておきたいことがある。

皆さんと共有しておきたい10のことである。

 

⚫️コンテンポラリーアートを学ぶ者の心得

1 コンテンポラリーアートとは、まだ評価の定まっていない、たった「今」のアートのことである。フレッシュなアートだ。 「わからない」かもしれないが、「コワイ」ものではない。魅力的なら、その冒険にでかけよう。

大切なことは、 「アートが好きだという初期衝動」。「感じよう」とするカラダをつくること。それはあなたを変えるだろう。


2 コンテンポラリーアートには、創る、見る、理解する、見せる、集める、売買する、などの「学ぶ」分野がある。アー トを学ぶことは、エンドレスだ。

ありがたいことに、フレッシュなアートは、次々に生まれてくる。好奇心を全開 にすれば、学び続けられる。


3 コンテンポラリーアートは、「問い」である。「問い」を創る「、問い」とつきあう「、問い」と格闘する「、問い」と旅する。 「問い」はなくならないが、体感によって開ける。

そして、「問い」は、アップデートされてゆく。それを楽しみたい。


4 コンテンポラリーアートには、さまざまな「アートの仕事」がある。アーティスト、ギャラリスト、批評家、研究者、 ライター、インタビュアー、アートブックのディレクター、キュレーター、アートプロデューサー、コレクターなど、 社会がアートを求めるにしたがって、これからますます増えていくだろう。
コンテンポラリーアートを学ぶことは、あなたの身を助けるにちがいない。


5 コンテンポラリーアートを学ぶことは、知識の積み重ねが必要だが、それだけでは進んで行けない。

アートには、 アートの思考法、ツボがある。自転車はコツをつかめば乗れるようになる。それと同じだ。
例えば、「メタ」と「次元」。さあ、学んでみよう。


6 コンテンポラリーアートを学んでゆくと、発見が多くなるだろう。そして、答えは1つでなくてよいのだと、気づ けるようになるだろう。思考のシフトができるようになるのだ。
1 番新しいアートと、古代のもの。日常的なものと、宇宙が同じに感じられる時が、来るだろう。


7 コンテンポラリーアートは、最初難しいと思っても、結局は、アーティストというニンゲンのイトナミである。 コンテンポラリーアートを学ぶということは、ニンゲンの面白さ、奇妙さ、可能性について学ぶことになる。


8 コンテンポラリーアートは、誰に対しても開かれているが、アートワールドという、独自の価値観による世界を つくっている。コンテンポラリーアートを学ぶことは、そのパスポートを手に入れることであり、旅し、住むこと ができるようになるということだ。


9 コンテンポラリーアートの世界は、この世を支配している「お金」とは別の「価値」でできているところがある。 コンテンポラリーアートを学ぶことは、この世に、「お金」では買えないものがある、ということ。パラドックス を教えてくれるだろう。


10 コンテンポラリーアートを学ぶことは、誰のためのものではない。

誰に言われてやることでもない。

自分の快楽、 自分の歓びのためのものだ。

フランスに、アール ド ヴィーヴルという言葉がある。例え最先端のコンテンポラリー アートの研究者を目指したとしても、生活をアートにすることを忘れてはならない。

 

僕は今まで、沢山のアーティストと接してきた。

そしてインタビュー、批評や作品集制作、展覧会、コミッションワークなどさまざまな形で、交わってきた。ギャラリーを自ら運営もし、プロモーションだけでなく、セールスにも力を注いできた。

沢山の魅力的な、可能性を内蔵した、若手アーティストがすぐに頭に浮かぶ

今あげた10のことは、彼らとの相互作用から生まれたものでもある。

 

この連載では次代を拓く若手アーティストについては、名和晃平や、G/P galleryの幾人かについては触れることができたが、他の特定のアーティストについてはあまり書いていない。深掘りした本は、機会をつくって、また別に書きたいと思っているからだ。

 

aatmアートアワードトーキョー丸ノ内から出てきたアーティストもアートワールドの前線で活躍しはじめていて、実にたのしみだ。

荒神明香とwah document南川憲二らとのユニット「目」は、ともにaatm出身だし、ニューヨークで活躍するヒョンギョンもまた第一回目である。

そして、もはや紙面の関係で、少しだけしか触れるスペースがないが、同時期に出てきたアーティスト、大庭大介について書いておきたい。

なぜなら大庭は、村上隆奈良美智ら95年組のグローバルな活躍を見ながら育ち、そしてコンテンポラリーアートにおける絵画の「不可能性」の中で赤裸々に格闘し、新たな道を拓こうとしている者だとはっきりと思われるからである(他にも村山悟郎や大山エンリコイサムなど優れたアーティストたちがいるが、ページ数の関係でここでは触れられない。残念無念!)。

大庭大介に触れることは、コンテンポラリーペインティングの未来について語ることにもなるだろう。

 

大庭は1981年 静岡県生まれ。2005年 京都造形芸術大学の総合造形を卒業し、07年には 東京藝術大学大学院美術研究科油画研究領域修了した。 

彼は偏光パール絵具を使ったペインティングでしられるが、その思考は、小さく絵画に限られたものではない。美術館でのグループショーはもちろんのこと、野心的な個展をSCAI THE BATHHOUSEで定期的に行ってきた。2009年「The Light Field -光の場-」や2012年「永劫の灰、是を辿り」。そして 2017年の個展も、視覚の問題を絵画史の「内/外」から捉えようとしていた。

 

ここからは、彼の個展を見たときに書いておいたメモを添付したい。その方が生々しくつたわるだろう。

 

⚫️

 アーティスト大庭大介の個展に行った。

彼とは彼が学部の時からの知り合いである。

彼はまだ30代だが、その活動や作品を、もう10年以上ずっと並走して観てきた。

 

彼の個展の最終日にギリギリ間に合うことができた。角度によって色が変わる特殊なパール絵の具を使った大型の平面作品群である。

 

直接的な感想をいえば、抜群によかった。

 

話にならないぐらい良いと思う。世界の絵画作品の中でも、群を抜いた素晴らしい作家、作品だと思う。断言したいが、彼の評価は国内的には、まだまだ低すぎる。
僕は過去2回の個展(magical.ARTROOMの時を含むと今回で4回)も観ているが、その中でも抜けていて、作家の実力、確信、将来性がはっきりと感じられる。


なぜ、そこまでおまえは断言できるのだという声が当然上がるだろう。そのことについてラフだが、考えをメモしておきたい。


大庭大介はまず表現のメディアとして平面に絞っている。初期にはオブジェやインスタレーションコンテンポラリーアートとしては当然のこと取り組んだが、彼はあえてそれらをやめ、「絵画」の可能性、再生を意図的に選択したことがまず重要だ。

そして、次に初期にやっていた「だまし絵」風に現代的な表象(たとえばスプラッタームービーやコマーシャルの表象)が見え隠れするキャラクターの力を借りた絵画の強度を獲得するストラテジーもやめた。桜の林というレプリゼンテーションもやめた。結果それは、アブストラクトとマテリアルによって平面の再生をこころみるという一見、後退戦的に見える選択となる。

 

現代絵画は、隘路にある。

現代絵画は美術史的に見れば、コンセプチャルアートとミニマリズムまでの過程で、そのスタイルの更新、可能性がほぼだし尽くされているにもかかわらず、アートマーケットの要請によって延命している。

世界のアートフェアはゾンビ化したポップアートで溢れているのだ。

その言い方が極端すぎるならば、現代絵画は時代性と無関係に存在し続けるようになったといってよい。

デュマスをみよ、サスナールをみよ、バゼリッツをみよ、ボレマンスをみよ。

それらは絵画の「可能性」を問うて提出されているというより、やはり見事な「絵画」としてうみだされるようになった。


大庭大介が様々な、「イリュージョン」生成にたよらないで絵画の再生を考えるということは、結果的には、「絵画」の外に出てしまう。

つまり、逸脱の場所を選ぶことになる。

これが大庭への過小評価につながる。つまり、仕方なく大庭を「光の画家」としてわかりやすく呼ぶ評価である。

しかし、この評価の仕方は、極論すれば間違いだ。


大庭大介がイリュージョンの排除によって獲得したことの第1は、絵画をメディアそのものとしてあつかうことになったということである。

わかりやすくいうとテクノロジーアートが最新のテクノロジーによって表現主体とは無関係に、新しいアートを獲得できることを例えにあげるとわかりやすい。

ポラロイドとシルクスクリーンのウォーホルも、ポアリングのポロックも、スキージのリヒターも、インスタントを選んでいるところが重要だ。切断とインスタント。新素材、新技術。これは極めて重要だ。


次にアブストラクトのこと。

大切なのは、アブストラクトのイリュージョンではない。僕はアブストラクトペインティング史に対する持論としては、3種類のアブストラクトがあると思っている。

 

1つはバウハウス集結組カンディンスキーやクレーのような宇宙言語開発としてのアブストラクト。点、線、面、次元、運動。

2つ目は、ポロックやニューマンら主体のどん詰まりの中から生まれたアブストラクト。ノイズしか映らないTVのようなもの。

そして3番目は1の発展形だが、ちょっと未来形で数学的なものだ。建築的、構造的といってよい。古くは霊能者のシステム絵画であり、昨今ならばカールステン・ニコライやラファエロ・ローゼン・タール、セシル・バルモント。数学的な構造そのものがエモーショナルな感情を生成する。


僕の持論はともあれ、一方、大庭大介の今回の絵画は、4種類あって、

1つはパールをスキージで、かつての中西夏之の絵画風に半円形に一発アクションしだもの。

2つ目が電動ゴマでつくったもので、ある意味、具体の金山明。

3つ目は卵に絵の具を入れ投げつけたもので具体の嶋本昭三

4つめが隕石の錆。

 

これらのサンプリングは、全てみごとなまでに確信犯的に成功していると思う。

日本のアートのグローバルの強みは、実は、西洋美術史のコンテキストからの切断、破裂、逸脱にあることを大庭は確信犯的に意識化し、その文脈と手法をみごとにサンプリングすることに成功しているのである。


しかし、ここまでならば大庭大介も試合巧者なサンプラーでしかないかもしれない。

重要なのは、大庭大介を新たなコンテキスト、つまり先に述べた3番めのアブストラクトのコンテキストにシフトできるかにかかっている。批評家・水野勝仁氏はインターフェイス論からラファエロ・ローゼンタールらを論じているが彼のような人が、絵画をインタフェースとしてとらえ大庭を論じたら面白いだろう。

また、セシル・バルモントのような、造形ではなく、構造から抽象をあつかう視点から大庭の作品のもつ可能性を議論しても面白いと思う。

 

ともあれ、絵画を絵画の良し悪しだけで評価する時代はとっくに終わっている。

今我々は、大庭大介という優れた、そして可能性が絶大なアーティストをめぐって、ポジティブな議論とアクションを行わればならないと痛感する。

 

⚫️

この文書は、大庭大介の個展を見た直後に、反射的に書いたものだが、このような作業を、ざまざまな作家のために、丁寧な千本ノックを行って行きたいと 言う自念をこめて、「あとがき」としたいと思う。

 

ここまで読んできてくれた人たちが、素晴らしいコンテンポラリーアートの冒険旅行に旅立たれることを祈る。

 

ボン・ボヤージュ!よい、旅を!

 

 

 

 

33目の問題。未来のアートワールドはどんな目が作り出すのか?

この20年、僕はずいぶんアワードに関わってきたな、と思う。かつてヤノベケンジ束芋名和晃平らを輩出したことで、今や伝説と言ってもいいぐらいの「キリンコンテンポラリーアワード」の審査員を務めたのが始まりだった。

その後も2007年に、全国の美術大学の卒展を可能な限り見て周り、優れた才能を発掘する「aatmアートアワードトーキョー丸ノ内」を立ち上げプロデュースと審査員をつとめ、また2011年からは、最もラディカルな現代写真のアワードであるTOKYO FRONTLINE PHOTO AWARDは、自ら主催し今に至っている。

他のアワードのゲスト審査にも、随分かかわってきた。

 

コンテンポラリーアートのアワードの審査。

それはとても重要な、「自分への問いの道場」、千本ノックだと思っている。

 

人間は前例や、成功事例に縛られやすい。

権威に騙されやすい。

褒められると、いい気になりやすい。

逆に、打たれ弱い

世の中は、審査員が偉くて、高みに立って、無名のアーティストを見つけてあげると考えるかもしれないが、そんなくだらない話はないと思う。

コンテンポラリーアートにおいては、つねに問われるのは、審査員の方である。

ヤキが回った審査員は、審査の資格なし。これ以上の害はない。

僕はそのことにずっと自覚的に審査に取り組んできた。ヤキがまわったら、自分などお払い箱だと思っている。

 自分の知覚を鍛え、知見と体験をふやし、なおかつ謙虚で自由たるべし。

 

素手で、裸眼で、世界に触れなくてはならない。

可能性を、常に見落とさないようにしなければならない。

素晴らしい才能や作品に出会ったら、カラダ全体から褒め、励まさなければならない。

 

下らない既成概念であしらおうとする審査員がいたら、 審査員同士でもケンカするぐらいじゃないとダメだと思う。自分の好き嫌いで判断する、直感で判断する、と言う審査員がいるが、僕は審査は好き嫌いや、自分を超えたものだと思うから、そう言う物言いを、当たり前な顔で言う審査員には、つい噛み付いてしまう。

 

あなたはどんな立場で、批評し、審査しているのですか?

アートワールドのルールに精通している人が資格があるの?

アート専門の批評家で、他のジャンルは全く門外漢ですって言う人がコンテンポラリーアートの査定ができるの?

 

オーバーかもしれないが、審査とは、自分のイノチガケの場だ。間違った判定をしたら、アーティストの未来や可能性の芽を摘むことになるだろう。

なめたら、終わるのは、審査員の方なのである。

 

批評とはなんだろうか。

審美眼とはなんだろうか。

 

素朴なな問いがある。

骨董を見る審美眼と、コンテンポラリーアートをみる「目」は、同じなのであろうか?

古美術は分かるが、コンテンポラリーアートは分からない。

その逆を言う人もいる。

それはおかしいのか、おかしくないのか。

そのことをいつも、ずっと考えている。

 

あなたなら、どう答えますか?

 

古美術には、「目利き」というコトバが生きている。仏像や陶器などは、我々よりもはるかに長い時間を経て、現在まで生き残ってきたものだ。

それに対する「目」は、どうすれば獲得できるのだろう?

数寄というコトバがあるが、これは「好き」でありつつ、ある特別な美意識の「偏り」「偏愛」を示している。

お茶の世界は、役に立つとか、体に良いとかという世界と、全く無縁だ。無用であるがゆえ、かえって美意識の、たぎった格闘の場であり、同時に平安の境地をえる「セレモニー」である。

それを戦国時代に千利休が、生成させた。

すごいシステムである。

亭主と客の間で交わされる趣好の交歓は、ある意味で、互いの「目」を鍛える場だ。数寄は、そのような場によって育まれる美意識のチカラなのである。

いかに趣好を誘発する「お道具」を集める(寄せる)ことができるのか。

数寄もまた、美的な編集術といってよい。

 

たとえば文芸評論家の「神さま」と呼ばれた小林秀雄は、古美術蒐集家であった。彼は作家に質問し続け、作家が「もう勘弁してくれ」と泣き出すまでつづけたというエピソードがあるが、それはまるで批評の鬼を示すものだろう。

しかし、それが彼の「批評家としてのモラル」のありようであった。その他にも彼ののモラルはある。エッセイ「栗の木」にでてくる「木」は本当は「なかった」ようであるし、彼が未完成で終わったアンリ・ベルグソン論には路上で体験した謎の声との出会いが語られる(小林秀雄は生前、この未完の連載の単行本化を禁じていた)。それも、おそらくは「作り話」であったろう。『本居宣長』も、「宣長さんのことを考えていて、気がついたら東海道線に乗っていた」と彼は堂々と書くことができた。

小林秀雄は、批評の「自立」のためには、批評にフィクショナルなものをもちこむという「禁じ手」を使うことを犯しても、リアルを撃ちたいというモラルがあった。

これはつねに傍観者としてものを言いがちな批評家において、異様な選択であり、そのリスクゆえに、小林秀雄の批評は、いまも賞味期限切れにならないという魔術をうみだした。

小林秀雄の批評は、矛盾、分裂生成、パラドクスなのである。

僕は小林秀雄が生きている間は、「神様」だったのであまり興味がなかったが、死んでから、愛読するようになった。

無い物ねだりだが、生きている時にインタビューしたらどんなだったろうかと、よく想像してみている。

 

「真贋」と題されたエッセイや「様々な意匠」というエッセイ(一種の批評文)を、コンテンポラリーアートにかかわる者だれもが、必読だと僕は思う。また、小林秀雄に古美術を教えた青山二郎との対談も必読である。

批評の神様に切り込むことができたのは青山二郎だけであり、それは青山が恐るべき「目」の人であったからに他ならない(青山二郎のエッセイを集めたアンソロジー『目のひっこし』は実に面白い)。

 

コレクションとは、古美術であれコンテンポラリーアートであれ、その人の「数寄」の精華である。

コレクションを見れば、その人が「どれくらいの人」ががわかる、厄介なものだ。

財力とか、資産、肩書きとかさえ、裸にされてしまう。

ニセモノをつかまされたり、趣味の悪いモノを買ったり、カネに騙されたり。それはとりわけ、小林秀雄のような神様には怖いことであり、彼の一生は、その格闘の歴史であったと言ってもよい。

 

もう少しだけ小林秀雄の「目」と「批評」について書いておきたい。

小林秀雄は「目利き」であったが、彼はファン・ゴッホについて書き、レコードを通してモーツァルト論を書いた。彼の時代にウォークマンが普及していたら、彼はそれを使ったろう。小林は決して、古臭い伝統崇拝者ではなかったところが重要だ。

小林秀雄は、骨董で日常的に牛乳を飲んで過ごしたが(同じく、骨董を偏愛した俳句作家・永田耕衣も日常的に骨董の食器を使った。以前、拙著『独特老人』でインタビューで家を、訪れたおり数々の金継ぎされた骨董が並んでいたのは、凄みがあった)、彼にとって美術品は鑑賞するものではなく、「偏愛」「過剰な愛」の対象であったのだろう。

小林秀雄が死に、そのコレクションが美術館で展示されたことがあった。

奇遇なことに、同時期に作家・川端康成がコレクションしていた美術品もまた別の美術館で展覧会があり、この2つを見比べる機会があったのだ。

共通する美意識もあったが、圧巻は川端がコレクションしていたロダンが作った「女の手」だった。

川端は毎日それを机の上で玩弄しながら、小説を書いたに違いなかった。

ここには、批評家を超えたアーティストの持つ、狂気に近い、ロジックを超えた「過剰な愛」があった。川端康成、おそるべし。

 

コレクションとはこのように、人を裸に暴露する。

アートとは、いじらしいまでの愚かにして崇高な、アーティストの所業なのである。

 

しかし、今までの章で述べてきたように、コンセプチュアルアート以降のアートワールドは、「真・善・美」などという美学とは、全く異なったポストモダンな、頭脳プレイにシフトした。

その意味では、小林秀雄的な「目」が、今も有効かは、即断しがたい。

「目利き」の意味も、随分シフトしているのだ。

 

以前、青山二郎小林秀雄の薫陶をうけた白洲正子さんにインタビューしたいと思い、長い依頼のお手紙を差し上げ、お電話したことがあった。

お話の要点は、赤瀬川原平の著作『千利休』を下敷きにして、古美術と現代美術の「目」が、どのように同じで、異なるのかということであった。

伏線としては、青山二郎は無類の写真マニアでもあり、写真の「目」と、古美術の「目」についてもお話願いたいと思った。

お電話したところ、病気のあとのご様子で、ちょっとインタビューはお断りするということであったが、意外な長電話となった。「あなたが、お手紙でおっしゃっている目のことは、とても面白い視点です。大切なことね」

そうおっしゃっていただけただけでも、光栄であった。

 

ハイレッドセンター赤瀬川原平は後年、「トマソン」や「老人力」で大衆的に知られるようになったが、れっきとした「前衛アーティスト」である。同じく前衛アーティストで華道家勅使河原宏の映画『千利休』のタイミングで赤瀬川が書き下ろした著作であった。白洲正子は、この赤瀬川の本を大変高く評価していたのだ。

 

長々と「アワード」の話から逸脱、脱線してきたが、お許し願いたい。

 

確かに青山二郎小林秀雄白洲正子の「目」は、古美術の「目」であり、コンテンポラリーアートの批評眼とは無縁なものだ、と言うのは、あまりにも容易い。

 

リヒターやデュマスや、オラファーの作品は別の「目」で見なくてはならないのか。いや、進化した新しい「目」をどのように手に入れるのか。

それは、単に安全な「鑑賞教育」で手に入るはずもない。

アートワールドのルールは、どんどん書き換えられ、再編集されているのだから。

 

美術大学で教鞭をを取るものの中で、学生の作品を見て、何年でその人がアーティストとして大成できるかを、言える人はあまりいないだろう。

それを言うことは、教育としては、あまりに不安定要素が多く、リスキーだからだ。

そして、もしその学生が、教員より優れた才能があったとして、それを素直に認めることのできるアーティストあがりの教員の、なんと少ないことであろうか。

 

僕は、アーティストとして成功するには、美大を出て7年から10年というのが目安だと考えている。つまり、30歳から35歳ぐらいまでに、3つぐらいの初期の作品の山(シリーズといってもよいが)が出来上がり、自分のクリエイションの動機(モチーフ/モチベイション)、原理、ヴィジョンなど、始点が明確になる。初期衝動だ。

何にせよ結局は、初期衝動がその人を規定する。

 

アーティストの人生は、努力すれば報われるわけでもなく、たくさん作ったからといって成功が保証されるわけではない。

生活環境、ネットワーク、経済状態、コレクターや支援者や友人、運など全てがアーティストとしての成功を左右する。

アワードはその中の、一つのファクターであり、生死をわける決定的なものではない。

芥川賞木村伊兵衛賞ターナープライズを取らなくとも大作家になったものは数多くいる。

 

だからこそ、才能を発掘し、有効なフィルター、トリガーとなるアワードはますます重要を増していく。

 

再度言うが、問われるべきは審査員の批評眼、審美眼の進化である。

 

アートワールドの未来は、アーティストだけでなく、コンテンポラリーアートを見抜く、クリティカルな目の責任にかかっているのである。

 

 

 

32カタストロフからアートは始まる

コンテンポラリー・アートのパラダイムは、確実にシフトしている。

その変化は、もはや内在的な要因でおこるというより、外部との衝突、摩擦、亀裂、交換、反映などによって引きおこる。

何がきっかけで、作品が生まれてくるのか?

もちろんそれは千差万別。

しかし、アーティスト自身が、意識していなくても、アーティスト自身が時代の変換装置になって作品が出現してくるようになってしまっているのだと、考えるべきだろう。

時代をストーリーテリングするのか、時代の切断や穴、ゼロ点としてアートをやろうとするのか。

 

時代の中に内にいる?

時代の外にいる?

時代の中にいながら、しかし同時に外にもいる?

あなたは、どこにいる?

 

僕は、いま、ここにいて、コンテンポラリーアートの一つの大きな動因は、カタストロフだと思っている。自然災害や放射能事故や、不条理な事件や、戦争である。

 

僕は2014年にアムステルダムのunseenで、港千尋との共同キュレーションにより、特別展「anima on photo」をプロデュースした。

これは、「物語」「モノノ怪」など、日本の身体性の中にあるアニミスティックな感覚を軸にして、現代写真を再編する、読み直すと言う野心的な試みだった。総勢16名の写真家は、荒木経惟森山大道を始めとして、東日本大震災を撮影した篠山紀信の「ATOKATA」や上田義彦の「鎮まる」。そして、横田大輔の「matter」や滝沢広の作品など、実に壮観だった。この時始めて横田大輔の巨大なモノとしての写真を前にして、tateの写真キュレーターであるサイモン・ベイカーとウィンターツール写真美術館のトマス・シーリグの両氏が、感嘆の声を上げていたのは、わすれられない出来事だ。

 

写真展「anima on photo」は、東日本大震災が動機となったものだった。

その時僕は2つのこだわりがあった。1つは荒木経惟の、廃墟化してしまった「愛のバルコニー」をメインビジュアルとして使うことであり、もう1つは、テキストにおいて、これらの写真の現像として、広島に原爆が投下された時に、あまりの強い光と熱線で、壁に焼き付けられた「影」のことを書くことだった。

荒木経惟の廃墟の写真には、怪獣ゴジラのオモチャが、散乱している。東日本大震災にインスパイアされ、ハリウッドは新作のゴジラ映画をつくったし(福島の原発事故も取り上げられている)、極めて象徴的な存在だ。

ゴジラは原爆実験によってミューテーションを引き起こした古代の恐竜であり、生物であるにもかかわらず放射能を吐く。

映画ゴジラは1954年に、作られたがこれは偶然にも、僕が生まれた年であり、はっきりと僕の個人史は、この「ミューテーションしたモンスター」によって刻印されていると思っている。ある意味で、存在のモデルなのだ。

 

この東アジアの群島は、宿命としてカタストロフに取り憑かれている。

その終末は、「西洋の最後の審判」ではなく、なんども繰り返される終末という、モデルなのである。

 

3.11東日本大震災が勃発した時、僕は台湾にいた。

国立台北芸術大学ドゥルーズ研究家・でキュレーターの黄建宏と僕が企画した、日本と台湾の若手アーティスト合同展「TRANS-PLEX」展のために、訪台していたのだ(メンバーは、後藤繁雄椿昇、千葉雅也、後藤桜子など)。

僕らは単純な「交流」などではなく、もっと複層的な関係生成をイメージしていたので、超えるを意味するtransと、ラテン語であるplex(conplexなど)を合体した造語を作り、展覧会のコンセプト、タイトルにしていた。plexには、たたんだり、曲げたり、編んだりする語源の意味合いがあり、千葉雅也は、襞が盛りズレる様をイメージし、黄との協議の上、タイトルを決めた。

 

「その襲来」は、僕が「ヒトデナシの自然がもたらす倫理性」についてレクチャーをしている最中だった。会場には現代哲学者の千葉雅也君がいて、彼が手をあげて「ゴトーさん、日本で今大地震が起こったそうですよ」とツイッターを見ながら言った。

今もありありと思い出す。

津波が発生したことがあまりに話の内容とあまりにジャストで、「ああ、これで決定的に事態が変わるなあ」と強く実感した。

その前日の朝、千葉雅也は、東洋のオーガニズムに回収されない生命哲学について喋り、また椿昇はヴァイタル・フォースについてレクチャーしていたので、3人ともあまりのショックに呆然自失だった。


宿舎のテレビで、繰り返される津波を見続けた。そして、福島第1原発が水素爆発をおこし、放射能は世界にまきちらかされ、日本は被曝の孤島と化した。地震津波放射能。三重のカタストロフの中で、何ができるのだろう。

その時に考えつづけたのは、最悪を最善に変成すること。

政治もコトバも無力で、全く機能不全だからこそ、アートでなければ出来ないことは何か。

新たな自然観・生命思想・倫理観・表現をもって生きていく世になったと、腹をくくらなければならないだろう。

危険のどまん中で、あえて生きるもよし、海外逃亡もよし、都市を捨てるもよし。

 

3.11直後は、いろんなクリエイターに逢って、ウォームアップすることにしていた。

以前から3月末に、日本で初めての写真と写真集の新しいフェア THE PHOTO / BOOKS HUBの実施を計画していた(表参道ヒルズのスペースオー)。幸いにも実施することができ、多くの人の来場によって、塩竈のフォトフェス復興に、義援金が出すことができた。しかし、世の中は右も左も既存作品を使ったチャリティばかり、同じパターンしかできないことが、想像力の限界に思えて、もどかしかった。

 

また、地震津波原発事故の三重の「悲劇」写真は、さまざまな形で氾濫していた。それらの写真は、「事実とヒューマニズム」の枠をはみ出すものはなかった。自然観や倫理、生命思想、表現のシフトをせまる表現、つまり、「アートにできること」が浮かび上がってくるのは、「事件」からもう少し日が経ってからになる。

 

カタストロフと写真は、親和性が高い。

評論家スーザン・ソンタグが『写真論』、『この時代に想う テロへの眼差し』、『他者の苦痛へのまなざし』などの著作で警告したように、写真は人の災いを吸う。写真にモラルはない。

写真という表現自体がスキャンダラスで、いかがわしく、曖昧なものだ。

いや、かえってそのトリッキーな性格を使って、写真はコンテンポラリーアートの分野にも侵入しているのだ。

例えば、イラク戦争を撮ったリステルフーバーの「事後写真」や、9.11を撮ったマイヤーウィッツの「アフターマス」。ミッチ・エプスタインのハリケーンカトリーナの「美しい廃墟」も、「事件」から日を追うごとに「アート作品」として成長している。「悲劇を食いものにしている」と批判する人もいる。
しかし、実は写真というメディア自体が「いかがわしく」、つまり極論すれば「ヒトデナシ」であり、しかしそれ故に、「ヒトデナシ」な戦争や災害に立ちむかい、それまでの倫理を超える新しい価値を提起できるのだと思う。

 

僕がまず取り組んだのは、花人・川瀬敏郎と写真家・上田義彦とのコラボレーションだった。

 

鎮魂。

 

「鎮まる…」というテーマで花をいけていただき、それを写真家・上田義彦に撮ってもらうというプロジェクトを行うこと。

花は、人間のもくろみでは生きてはいない。花という絶対他者が、自ら「鎮まる」ことで、逆に人間が鎮魂される。東北はもちろん、すべての人間の心を鎮めるために、花が自ら鎮まるのだ…。

川瀬敏郎の花は、白洲正子が生前、絶賛し続けていたものだが、それは華麗だからではなく、逆に「存在」の根源に迫るものだからだ。

流派をつくらず、比叡山などの山にわけ入り、野の草を採り、いける。そこは、もはや花とよべるものもなく、切りとられるが故にきわだつ古代の緑、いのちの循環がそこに出現する。

 

9枚の写真は、もはや通常の意味でのいけばなではなかった。

 

これがまず、個人的な東日本大震災カタストロフ以降の始点である。

この写真の展覧会を企画し、そして同時に、全国のさまざまな場所に、写真を「立て」、鎮魂したいと思った。

 

被災地には、アーティストたちと誘いあって、何度か通った。

しかし、行ってみないと何も分からない。そう思った人は多かったし、実際それが正しい判断だったと思う。

喪失した記憶。

コミュニティの復興。

自然と生命。

ガレキそのものをマテリアルとして撮影したもの。ポエティックな表現…。

さまざまな「表現」がカタストロフ以降、生まれた。生まれ続けている。

それのどれが素晴らしい表現で、だめな表現と言えるのか、その美学倫理は何なのだろう。

 

篠山紀信の写真力展を東北に巡回するときに、被災地を撮った「ATOKATA」を展示しては、と僕がある学芸員に問うたとき、「いやもう地元の人は、被災地の風景を思い出したくないんですよ」と返され、驚かされた経験がある。

そんなことでよいのだろうか?

なんと早く記憶喪失になろうとしているのだろうか!

新しいモラルへ向かえるかという「問い」を、アーティストたちは、何度でも、いつまでも繰り返したっていいはずだ。

 

あの日から6年がたとうとしているが、福島第1原発は、全く解決のめどはたっていないままだ。

 

しかし、あの不条理な「出来事」の前と後では、何かが決定的に、変わってしまっている。

 ビフォア&アフター。

目ざめることを選んだ人、目ざめない人。

なんらかの形で、あのカタストロフを経由することなしに、2020年を東京オリンピックのお祭り騒ぎにうつつをぬかすアーティストがいるなら、それは、どんなに無神経なのか。

 

その後僕は、三越伊勢丹東日本大震災への義援プロジェクトとして、KISS THE HEARTを3年間にわたり150人近いアーティストととともに考え、作業する時間をすごした。

これは、カタストロフがもたらす「最悪」を、アートの想像力で「最善」に変成させる貴重な、アルケミーの体験だった。

それは、単に高い価格で売れる作品を作ったり、有名になるためのアルケミーやアート戦略とは、全く異なっているけれど、既存の価値を破る、最も重要な価値生成のプロセスであった。

 

東日本大震災の後、熊本で大震災があった。

阿蘇をおとづれた時、道路は寸断されていたが、人は例え火山が近くても、自分の故郷からは、簡単には逃げ出さないものだと痛感させられた。

 

またカタストロフは来る。

今は、事後なのではない。

いつも事前なのだ。

この国のアーティストたちは、それをキモに銘じて生きなくてはならないだろう。

 

やり続けよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

31国際アートフェアは、どのように進化し続けているのか?我々は、どのような戦略をたてなくてはならないのか?

さて、いよいよアートフェアについて書きたいと思う。90年代以降、アートワールドの仕組みを根底から変えたのは、経済のグローバリゼーションに連動し、世界の主要都市で連鎖反応的に広がった国際アートフェアである。コンテンポラリーアートを、ビジネスの領域に変成させた、大転換の事件だと、はっきりと認識しなければならない。

 

極論すれば、今までならアートヒストリー程度を勉強していれば済んだスキルでは到底だめで、ピーター・ドラッガーなみのビジネス・ストラテジーやブランディングなど、包括的な戦略スキルなしには、やっていけなくなったことを意味する。

コンテンポラリーアートに、芸術経済学という明確な領域が発生したといってもいい。

 

現在、アートワールドは、ベニスビエンナーレのような「国際展」と、「アートフェア」を両輪にして価値生成が動いている。

この動きに対して、傍観者ではなくて、いかにプレイヤーとしてかかわるかが醍醐味となる。

それは、机上で経済学を勉強したり、本でデザイン史を勉強するのではなくて、会社やビジネスにおいて実践的に、リスクを負いながら活動したり、お客さんに訴求力あるデザインが出来るか、というぐらい異なったことなだ。「プレイヤー」と呼ぶのは、そのためだ。

試合にでない野球選手など、意味がないのと同じである。

 

キュレーションの章のところでも、まだ定式はないと書いたが、アートビジネスにおける定式もまだない。

いや、まだないというより、日々更新。開発されつづける毎日と言ってよい。開発しなくてはならないものになったのだ。

 

僕が初めてアートバーゼルに行ったのは、2002年ごろ。そこから毎年通うようになり、現在に至っている。ニューヨークのアートフェアであるアーモリーショー、ロンドンのフリーズアートフェアにも、毎年では無いにしても、よく通ってきた方だと思う。

始めのころはよく、知り合いのギャラリーから「後藤さんも、コレクションを始めるんですか?」とよくひやかされた。

しかし、僕の目的は別のところにあった。

 

そのあとすぐに僕は、京都造形芸大でアートプロデュース学科(ASP)を立ち上げ、学科長に就任することになるのだが、就任後に研究センターである「芸術編集センター」をつくって、活動の3つの柱を決めた。

一つはキュレーションにも通づるコンテンポラリーアートセオリーの研究とプロデュース(シンポジウムなどのイベントの運営。先端のテキストの翻訳と出版)、二つ目が鑑賞者教育。そして三つ目が、アートマーケット・リサーチであった。

流動的に動くグローバルアートマーケット。

それを知るために、世界のアートフェア巡りが始まったのだ。

また学科で独自に、ギャラリーARTZONEを京都の繁華街の中に作ったのも、コンテンポラリーアートのリアルな演習場が必要だと考えたからだ(僕が学科長をやめたあと、現在も学生による運営が続いている)。

 

世界のアートフェアに通い出した頃すでに、日本のコンテンポラリーアート・ギャラリーも数軒だが、出展をはたし活躍し出していた。

SCAIザ バスハウスや小山登美夫ギャラリーや、シュウゴアーツ、ギャラリー小柳、タカイシイギャラリーなどが、村上隆奈良美智杉本博司をブッシュしていた。

彼らは皆、日本の古美術商が発展した丁稚奉公的な世界と離脱した、新しいタイプのギャラリストたちであった。そして前後の日本の前衛美術とも違った、「同時代」のアートを売ることに挑戦した。

 

彼らがアートバーゼルなどに打って出ていなければ、日本のコンテンポラリーアーティストが、世界のコレクターやキュレーターと出会うことはなかっただろう。

その頃は今ほど、中国のコレクターやアーティストが今ほどは存在感を発揮してしなかったから、欧米のギャラリーも今ほどアジアのアートフェアに出展していなかった(ローカルだが国際的に活動を模索していたアートHKが買収され、バーゼル香港に改組される前の話だ)。欧米との接続をはかるには、バーゼルやニューヨーク(マイアミ)、ロンドン、パリのアートフェアに出展しなければならなかったのだ。

 

日本のコンテンポラリーアートギャラリーが、海外のアートフェアに出展しだしたのは、日本のアートマーケットが拡大せず、やむなく海外に岐路をみいださざるを得なかったところもあるし、ちょうどグローバルにアートマーケットが拡大したタイミングにも当たる、好機と重なった面もある。

 

しかし、国際的なアートフェアは、高い出展料を払えば、誰でも出れるというマーケットではない。基本的には「見本市」をモデルにスタートしてはいたが、資本主義の荒波のなかで、みごとに「プラットホーム」として進化しだしていた。

 

ここでまず、プラットホームという戦略が何か、そのことをまず理解しなければならないだろう。

オーガナイザーという、価値を取り仕切る胴元がいる。例えばアートバーゼルの事務局である。会場は通常は金や宝石の見本市なども行っていふメッセプラッツ。背景には、バーゼルを国際的にコンベンションシティにしたいというバーゼル市の思わくがある。そして世界の富裕層の資産管理を囲い込みたいスイスの銀行UBSの思わくがある。

メッセ会場。ここにギャラリー仕様のホワイトキューブ空間を作り、世界のギャラリーに向けて出展を募る。スペースは300余しかないから、当然、有力なものと、そうでないものの「淘汰」が行われることになる。

出展希望のギャラリーは、アプリケーションを提出しなければならない。これは、アートフェアでどのようなアーティストの作品を売ろうと計画するのか。アーティストのプロフィールやサイズ、値段などのポートフォリオの提出が、当然求められる。

また、ギャラリー自身のキャリア、活動歴、アートフェアへの出展歴、所属アーティスト一覧などが必要になる。もちろん全て英語である。

つまり、そのアーティストが世界のアートシーンでも話題足りうるか、高い値段でセールスされた実績があるのか、そのセレクションを提出せよ、ということだ。そして、ギャラリーが順調な経営状態にあり、国際的にセールスできるスキルを持ち、継続的にコレクターに対して信頼関係が形成できるかがチェックされるのだ。

 

どのような国際アートフェアであれ、出展すればよいというものではない。一流の店には、一流のコレクターもビギナーも来るが、三流店には一流のコレクターは決して来ない。

アートバーゼルは、正式なサテライトとしてはLISTEだけで、同時期に開催されるSCOPEなどは、便乗商売でしかない。厳しいことに、出展料やアプライの敷居が低いからと言って、間違ってSCOPEにでてしまうと、もうLISTEやアートバーゼルへの道は閉ざされてしまうのだ。このような、書かれていない暗黙の掟もある。

 

資金的にも後ろ盾なく、無名で国際的なセールス実績の無い若手アーティストを、同じく新参者の若いギャラリストが、世界で勝負することなど、できるだろうか?

どうみても簡単ではない。

 

おまけに、初期には単なる見本市や協同組合的な性格だったアートフェアは、セグメントされた戦略的プラットホームに変成し続けている。

ギャラリーは土産物屋的な「商店」ではなく、キュレーションの効いた「セレクトショップ」であることを求められ、胴元であるオーガナイザーは、さらにギャラリーの集まりをキュレーションする。

そのアートフェアに出展が認められるということは、世界の一流店として認められることであり、超注目のギャラリーであるというお墨付きをもらう事を意味する。

さらに重要なのは、アートフェアは入場無料ではないということだ。

 

世界のどの百貨店が、セレクトショップが「入場料」をとるだろうか。

国際アートフェアは、テナントビルのようなショップでありながら、同時に美術展である。これは従来の「常識」からすれは、矛盾に見えるかもしれない。

各ギャラリーが持つ顧客、コレクターをギャラリーに集めさせながら、しかし胴元はそのリストと入場料を徴収する。新しいさまざまな仕組みが、アートフェアのプラットホーム戦略として発明されるのだ。

 

プラットホーマーであるオーガナイザーが、ギャラリーの「淘汰」の次にしなければならないことは、出展ギャラリーがもつ魅力的なアーティストや作品を「ラインナップ化」「メニュー化」して、アートフェアのコンテンツとして、再編集することだ。わかりやすく言えば、それぞれのプロダクションに属しているタレントを再編集してAKBというユニットを作るようなものだ。これは、重要なブランディング、商品作りのプロセスである。

また、アートフェアのオーガナイザーは、アートワールドにヴィジョンを与え引っ張り、新規の顧客や、新たな価値形成(例えば、美学的なアートコレクションにとどまらない、投資的なアートコレクションをいかに行うかなどの)の「開拓」「開発」を行わなければならない。

 

前章で、フューチャーキュレーションについて書いたが、アートフェアの根幹である「プラットホーム」戦略、「セレクト」と「開発」のスキルこそが不可欠となるのである。

 

このようなアートフェアのプラットホーム戦略について描かれた本がなったので、僕は自分でリサーチし、考え、実践することにした。

 

それが2007年から東京の六本木で、共同で始めたオルタナティブなアートギャラリーmagical,artroomであった。開設当時の運営メンバーは5人。市原研太郎・岡田聡・後藤繁雄ヒロ杉山・吉井仁実であった(回廊後まもなく吉井が抜け、コレクターの岡田が中心となりコマーシャルギャラリーとして2008年に、恵比寿のNADiff a/p/a/r/tに移転。2010年に休廊)。ギャラリー業務は、芸術編集センターの研究員で、現在は自らislandを主催する伊藤悠が担当した。美大を出たばかりの若手アーティストばかりだったが、プレス、webはもちろん全てバイリンガルで発信。アーティストのポートフォリオをかねた機関誌スモールマガジンを発行し、海外にプロモーションするだけでなく、書店などでも販売した。

当時の世界のアートシーンは、加速化する資本主義の隙間に多様な表現が、まるでキノコのように発生する面白い時期だった。2007年にはニューヨークの辣腕ギャラリスト、ジェフリー・ダイチが主宰するDeitch Projects において日本の若手アーティストのグループショーである「After the Reality」が開催され、またニューヨークのMomaの分館であるPS1では2000年から5年に一度のアートショーGreater New Yorkが同時多発テロを挟んで開催されていたし、オルタナティブな新しさを帯びた表現がカオティックに、湧いてでいた。

今から振り返れば、リーマンショック前の、ユーフォリックな季節であった。

magical,artroomは、3年という短い期間に見えるが、それまでの日本のコンテンポラリーアート・ギャラリーの手法からすれば掟破りでクリエイティブな活動を他になく、精力的に実践した。

大庭大介、大田黒衣美、ヒョンギョン、ヤマタカアイなど多くのアーティストがmagicalから巣立ったことも大きな成果だが、なにより海外のアートフェアに積極的にアプライし出展したことは、評価されるべきだろう。

magicalは、アートバーゼルのサテライトであるLISTEに2回、ロンドンで始まったfreezeアートフェアに1回出展(サテライトであったZOOアートフェアにも)あと、ニューヨークのアーモリーショーにも一度出展した。

おそらくプロジェクトベースの日本のギャラリーが、これほど短期間に、国際アートフェアに出展したことは、かつてなかっただろう。

 

それまでギャラリーセールスの体験もなく、もちろん海外のアートフェア出展もしらない。アートコレクターのリストもない。無謀と言えば全く無謀だが、それ故に我々は誰よりも多くを学んだと思う。

 

ライナップの構成。プレゼンテーションの仕方、セールスのスキル。なにより重要だったのは、グローバル・アートマーケットの動向を肌で感じ、日本の同時代のアーティストをいかに接続できるのかという判断力、思考法だろう。 

僕は2008年からは、自身でコンテンポラリーアートとしての現代写真作品をメインで扱うG/Pgalleryを自ら主宰するようになり、magicalからは実質離脱したが、magical,artroomとしてLISTEに初出展したときの体験が、その後非常に役にたっている。

その後、パリ、アムステルダム、ベルリン、ロンドンなどのヨーロッパでのフォトアートフェア。台北シンガポールなどアジアの新興アートフェアなど、国際アートフェアに出展してきたが、今も工夫の毎日である。

 

ミッションやステートメントを明確に持つこと。

ポテンシャルあるアーティストをいかに発掘し、協働できるか。

アーティスト・ラインナップのメニュー化の作り方、ポートフォリオの作り方。

接続すべきコンテクスト、価値増幅のためのクリティック。

コレクターやメディアとの継続的な関係作り。

 

これらのスキルは皆、実践の中で取得したものだ。

 多くの日本のコンテンポラリーアートのギャラリーが、国際アートフェアという最前線で闘っているが、どのギャラリーも楽な試合などしているところは一軒もない。

グローバル経済の動向、ビジネスモデルの変化。これらに対応できなくなり、「新商品」の開発を怠ったギャラリーは、有名ギャラリーであれあっというまに、アートフェアの出展を取り消され、落とされる。

 

最後にアートワールドの変化について書いておこう。2017年のアートバーゼルは、僕が通い始めてから一番日本からのギャラリーが少ないアートフェアとなった。95年以降、日本のコンテンポラリーアートを欧米に接続させていたギャラリーが次々に落とされているのだ。

僕はギャラリーの苦労を肌身で知っているので、単純に批判するつもりはまるでない。しかし、なんらかの発明、変化が求められており、後手にまわっているのだ。今は僕らがmagical,artroomを始めたころと、全くシーンは変わっている。

 

リーマンショック以降に、時代のカーブを曲がるために、アクセルを踏んで曲がったのか、ブレーキを踏みながら曲がったのか、それぐらいの差が出ている。

 

リーマンの直前ともいうべき時に、メモしていたアートフェアレポート(備忘録)が出てきたので添付しておきたい。

 

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この稿を書いている2008年6月は、911からすでに7年を経て、911以降急激にあからさまとなった、ポリティカルであったり、ゲリラ的であった表現衝動は、沈静化しつつある。

今年2008春の、ニューヨークで開催されたホイットニー・ビエンナーレは、前回と打って変わって、クールな写真表現(アブストラクトフォトなど)やコンセプチュアリズム、インスタレイションが前面にあらわれ、潮目の変化を強く予感させるものだった。
この稿を僕は、アートバーゼルの帰りの空港でメモ書きしている。いみじくも今年のバーゼルは、アメリカの2007年のサブプライムの発覚、原油価格の高騰、オバマ民主党候補に選出されるなどの影響が、はっきり出て、アメリカからのコレクターが減ったアートフェアとなった。

もちろん、連日アートマーケットで配布される「業界紙アートニューズペーパー」は、堅調を強調していたが、例年のように、バーゼル、リステ、ヴォルタの3会場をまわっての肌での感覚から言えば、アートシーンは微妙な局面を迎えたようだ。

それはこの数年、今までならば、どのような作品であれ売れていた「アートバブル」が沈静化し始め、モダンペインティングへの回帰がはっきり見られるということだ。はっきりと、すでに価値づけられたものへ、コレクターの人心が帰ろうとしている、ということである。

典型的には、バーゼル直前に、ウォーホルが史上最高の価格(130億円)で落札されたこと(それに加えてラウシェンバーグが死んだことや、直近に、モダンペインターの最後の大物とも言うべきサイ・ツォンブリの大回顧展が今年控えている)こともあいまって、多くのギャラリーがここぞとばかりにウォーホルを前面に売りに出したことにあらわれる。

そして、もう一つの注目すべきことは、ドイツのコンテンポラリー・アーティスト、トーマス・ヒルシュホーンを、いくつものギャラリーがプッシュしているという異常事態だろう。

ヒルシュホーンは、ヨゼフ・ボイスを師と仰ぐ、社会運動系のアーティストであり、「なぜアートが必要か」、「アートは今、何をなすべきか」を強く打ち出し、政治的な動きを行ってきた(トニ・ネグリを借りるのはあまりに安直だが、最も反「帝国」的なアーティストと言ってよい)。

最も「反資本主義」の代表のような彼の作品が、アートマーケットに2~3年ほど前から出始めていたが、ここに来て、市場自体が彼を強く押し出すような動きすらある。折しも、バーゼルと機を合わせるように『ART REVIEW』誌は、ヒルシュホーンのインタビューを載せるだけではなく、異例にも10数ページにもおよぶ別冊をつけた特別号としたのである。

ここではヒルシュホーンの「戦略」については詳細を延べる余裕はないが、彼が挙げる「緊急に読むべき37冊の本」のラインナップを見るかぎり、新たなアートの戦略というより、バタイユフーコーなどを思想的なベースとし、ダダやボイスをミックスした折衷的なものにとどまっているとも言える。

しかしそんなことよりも、彼がアートの根元的なあり方を「WHY?」「TELL ME」と反復しつづけることを前面に押し出している点や、作品自体のクオリティや美学よりも、「関係の創出」に力点を置いていることを評価すべきだろう。
ヒルシュホーン自身も、作品自体は極度に「政治性」を露出しているにも関わらず、発言や「マップ」においては、慎重とも言えるほど時事的なステイトメントは避けている。彼が強調するのは実は、「アートの起源」にあるラディカリズムなのだと考えた方がよい。


ロスコ、ポロックやクーニング。あるいはポップアートのウォーホルが強く価値づけされるのは、「アブストラクト」という、「対象性なきもの=ダイレクトに政治性を感じさせないもの」。

あるいは、ウォーホルという、資本主義アートの「原点」を最大評価するという「ピュアリズム」である。

これをもちろん、「政治性からの逃避」として批判することはたやすいが、ヒルシュホーンをマーケットが評価しようとしていることと、ウォーホルが評価されていることの価値軸は、真反対に見え、実は同根ではないか。

ある種の揺り戻しとしても感じられる(あくまでマーケットを中心として見た時において)「アブストラクト」や「起源」「ピュアリズム」への志向が、単なる「反動」なのか、それとも深くアートシーンを動かすことになるのか。

そのこと自体も今、検討されなければならないだろう。

⚫️

 

リーマンショックは2008年の9月に起こった。その一年の間に世界の株価は、軒並み40%は暴落した。

世界同時不況への突入。

アートバーゼルのメインバンクのUBSも被害を被り、一時は2009年のフェアを危ぶむ声があったが開催された。期間中にプライベートジェットでバーゼルに来るVIPは姿を消し、あんなにも来ていたアメリカのコレクターの姿は消えた。

フェアの中身も大きく変わった。ヒルシュホーンを代表とする反芸術的な作品、ユーフォリックなオルタナティブな評価の定まっていないアーティストの作品は一切消えた。

残ったのは、価値の定まっているモダンマスターか、手頃な値段の、売りやすい作品ばかりである。

ギャラリーは、こぞって、出展料だけでも回収したいという本音が強く出た。ギャラリーにとり、事態は死活問題であり、新たな「開発」などは消えてしまった(これが10年後にひびいてしまう)のだ。

つまり、新たな価値開発ではなく、売れそうなものの再編、つまりは、新たなエスタブリッシュなメニューの再編である。

 

2009年のロンドンのフリーズアートフェアは、実に象徴的だった。オルタナティブなサテライトだったZOOアートフェアは中止。

資本主義の混乱は、決してオルタナティブに追い風にはならないのか。

 

サテライトは解体され、フリーズの本体が「魅力的なオルタナティブなメニュー」として、フェア時代を補強するものとして、キュレーションを再編。新たなセクションを作ったのであった。このような時は、必ず新参者のギャラリーには、そのギャラリー一押しのアーティストのワンマンショーをやらせることを条件に、出展させることになる。

このような出展形式は、ギャラリーにとり、一か八かのバクチ的な性格が強くなるし、ギャラリーのキュレーションの戦略を見せられなくなるので、オーガナイザーであるプラットフォーマーには利があっても、ギャラリーにとっては、イマイチおいしくないかもしれない。

とにかく見せられるアーティストの数は限られる。

日本は元々が、アートビジネスの規模が小さかったから、リーマンショックでギャラリーには大きな被害はなかったからかもしれないけれど、コレクターの心理は不況で、はっきりと冷えてしまった。

 

世界に打って出ようとしていた気運は、削がれてしまったし、しかし停滞している間にも、グローバル・アートマーケットは、すぐに再編し、さらに強い資本主義芸術を生み出しにとりかかってイノベーションされている。

このズレは痛かった。

アートフェアトーキョーや2010年からのG-TOKYOのような、国内マーケットの再編のこころみは行われたが、グローバルな積極策や、開発は停滞してしまった。

アジアのアートのイニシアティブも、シンガポールと香港が握り、トーキョーのポジションは、さらに低下してしまった。

 

僕がG/P galleryという、コンテンポラリーアートにおいても写真だけに特化したものにし、ひたすらにグローバルなセールス&プロモーションに比重を置いているのも、リーマンショック後の、日本のギャラリーを見ての危機感からであった。

 

アートフェアは、ますます貪欲な資本主義の装置になっていくだろう。

我々は、それと並走し、いかなるプレイが可能なのだろうか?

 

景気が回復したからといって、アートバブルは再来しないだろう。

不可能性の谷は深い。

しかし自らの条件のなかで、もっと出来ることがあるはずだ。

考えよ、そして実践せよ。

新たな突破点が必ずあるはずだ。

諦めてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

30アートフュージョンの戦略と、フューチャーキュレーションについて

キュレーションは、ますます進化する。しかし、前章までで取り上げてきたキュレーションの本において、全く取り上げられていないことがある。それは、昨今の、ファッションブランドや企業がコンテンポラリーアートを、様々な形で取り込むキュレーションの事例である。

 

ルイ・ヴィトン、シャネル、ブルガリ、ディオール、ボッテガ、エルメス、フェンディ、フェラガモ、グッチ、プラダバレンシアガ、、、。これらのハイブランドほど現在、コンテンポラリーアートを必要とし、積極的なプレイヤーはいない。

 

コンテンポラリーアートと、コマーシャルな分野との融合。この融合の戦略を僕は、アートフュージョンと呼んでいる。

昨今のメインは、上記のファッションブランドにおける戦略的ブランディングのためのアートフュージョンだが、もはや、コラボ商品を作ったり、ブランドのイメージアップや付加価値をあげるためだけでなく、企業価値そのものを上げるアートコレクション形成や、美術館運営まで含めて、アートフュージョンの戦略と考えるべきだと思われる。

 

この戦略的なキュレーションは、今のところ、美術館のキュレーターたちにはあまり評判はよくないかもしれない。公然とは批判はしないにしても、明らかにまだ距離をおいている。

アーティストたちも、はじめは距離を置いていたが、今ではかなり態度が積極的に変わってきたように思う。

したたかになったのだ。

 

加速的に変容する資本主義の中で、とりわけ活性化した領域として動いているアートワールドを考えた時、あきらかにアートフュージョンは、今や無視できないところまで来ている。

かえって、どのような未来的なフュージョンが可能か、その新たなキュレーションを積極的に考えるべき時ではないのだろうか。

 

ここでは、価値接続のためのディスコースの形成力、価値生成のための、選択と開発の力が問題となるだろう。

 

しかし、美術館的なキュレーションのスキルや、充分なコンテンポラリーアートの知見を持っていて、なおかつアーティストの内在的なことを理解するだけでは、アートフュージョンを果すには、まだとても足りない。

アーティストと信頼の絆を作ることができ、かつ有効な助言やディレクションできるだけでなく、商品開発、ブランディングデザイン、ディスプレーやデモンストレーション、プロモーション、マネージメントなど、新たな「現実生成」のためのダイナミックなプロデュース力を取得することが、同時に問われることになるからである。

しかも、この必要とすべきスキルを、トータルで学習できる学校は、今までの美術大学には未だない。

 

このようなアートとブランドの接近の背景には、アートヒストリーを作ってきた表現スタイルの「変遷」や、アートムーブメントの「潮流」が失効し、コンテンポラリーアートが、「トレンド」として語られるようになったということが大きい。

 

またアートワールドにおける価値生成の定式が、プレイヤーたちの連携によって、確信犯的に生まれるようになったことも大きい。

 

特定のアカデミックな批評家や、アートヒストリアンの権威が、絶対的な力を持つことは無くなってしまったのである。

 

アーティス、キュレーター、クリティック、コレクター、ギャラリストたちが連携しあい「新しい価値」の「トレンド」が形成(捏造)されるようになっているのである(さらに今は、FacebookInstagramなど、オンラインにおける「人気」が価値を左右するようになった)。

 

たしかに、アートは太陽と同じで、離れていると美しくて暖かいが、近くと目が潰れ、焼け死んでしまうもの。

簡単にコマーシャルが飼い慣らせるものでは、到底ない。

 

とわいえ、従来のようなヤバイ「実験エクスペリメント」や「前衛アヴァンギャルド」も、実質的に失効してしまった今、価値生成のアルケミーは、ブランドとのフュージョンの機会にもちこまれていくだろう。

年々、新たな価値生成の仕組みが、発明されていくのである。

 

アートとファッションのフュージョンの事例を振り返ってみよう。

ベルナール・アルノー率いるLV MHグループ傘下の、ルイ・ヴィトン(当時のクリエイティブ・ディレクターは、マーク・ジェイコブス)と村上隆が手を組んだのは、2003年のことだから、はや15年前の話。LVのマークをモチーフとしたモノグラム作品は、今や数千万円となっている。

 

またシャネルが、2008年に建築家ザハ・ハディッドに依頼して移動式の美術館「モバイル・アート」のプロジェクトを開始していたことも忘れてはならない。

ザハによる「美術館」は、720平米もある宇宙船型のもので、いくつものパーツに分かれていて、香港をスタートに、東京、ニューヨークなど世界主要都市を2年かけて、巡回できるよう設計されていた。

 

僕は東京の、代々木体育館駐車場に巡回した時に行ったのだが、荒木経惟やオノヨーコ、束芋のアニメーションなどもセレクトされ、キュレーションされていて、それらは、明確に「ブランド」と融合するものもあれば、まったく独立したりと、ある種の曖昧な共犯関係が感じられた。

一番はっきりと印象的だったのは、「美術館」の出口近くで、シャネルの高額のカバンなどが売られていたことである。コンテンポラリーアートの、破格な価値体系に高額なブランド商品を接続させるというあからさまな誘導、作為が強く感じられた(しかし僕にとっては、この時に作品展示していたのだが、なぜかアート界からの取材が少なかった写真家スティーブン・ショアと仲良くなれたという貴重な機会をもたらしてくれた)。

 

この体験は、アートの新体験だろうか、それとも高い贅沢な買い物をしたり、リゾートホテルに泊まった時のようなラグジュアリー体験と同質なものだろうか?

 

シャネルとザハの、コントラバーシャルな試みは、残念ながら2008年のリーマン・ショックによって中止に追い込まれ、1年でプロジェクトは終了してしまったので、この「問い」は、中断されたまま。

 

しかし、高額なプロモーション経費をかけた、コンテンポラリーアートハイブランドフュージョンの実験を、決して「失敗」などと総括してはならないだろう。

僕は否定的ではない。

アートを活用した差異の生成の手法は、決して後戻りなどしないと思われるからだ。

もちろん、富裕層向けの単純なゴージャス系の価値生成だけではなく、さまざまな発明が試みられなければならない。

まだフュージョンは、始まったばかりなのだ。

 

ハイブランドの大半が、なんらかの形で、コンテンポラリーアートとのフュージョンを行っている。そして、それはかつてと比較にならないほど増大化している。

 

ベルナール・アルノーのLV MHグループは、2014年1に、現代美術館FONDATION LOUIS VUITTONフォンダシオン ルイ・ヴィトンを、パリにオープンさせた。アルノーのコレクションだけでなく、時代の最先端を行くコンテンポラリーアーティストへのコミッションワーク、企画展を開催(美術館の設計は、フランク・ゲーリー)。ここでしか手に入らないグッズなども開発している。

 

また、アルノーの最大ライバルともいうべきフランソワ・ピノーは、グローバルなコングロマリットであるケリングを率い、バレンシアガ、グッチ、サンローラン、ボッテガ・ヴェネタアレキサンダー・マックイーンなどのブランドを有するだけでなく、コンテンポラリーアートの大コレクターでもある。

彼はすでにベニスに2つの現代美術美術館をもつ。2006年にはパラッツォ・グラッシを、そして2009年には安藤忠雄の設計によるプンタ・デッラ・ドガーナ を開館。マウリッツォ・カテランや杉本博司コンテンポラリーアートのコレクションを誇り、また2017年にはダミアン・ハーストと組み「Treasures from the Wreck of the Unbelievable 」を両館を使って開催し、ベニスビエンナーレに来たアートファンの度肝を抜いた。

現在、ピノーは悲願と言うべきパリでの美術館にとりかかっている。設計は今回も安藤忠雄である。場所はルーヴル美術館からもポンピドゥセンターからも近い一等地。オープン予定は2018年末の予定だという。

 

このほかにもプラダなどハイブランドが、独自の現代美術館を開館する動勢は、ますます強くなっている。 しかし、アートフュージョンは、ハイブランドだけの現象ではない。

 

コムデギャルソンやマルタン・マルジェラのようなブランドは、ファション自体をアートそのものに、生成変化させることを狙っているし、またユニクロH&Mのようなファストファッションもまた、アートの要素を積極的に取り入れている。

 

この、総アートフュージョンへの志向は、なんなのだろうか?

それは、単純にはコンシューマーの変化。

そして、アートフュージョンを新たなアートワールドの「ゲーム」として受けいれるアートピープルの変化である。

欲望のシフト、次に、未来に何をもとめているか。「欲望の進化形」を、いかに先取りし、新たな「市場」を切り拓けるか、そのトライ&エラー。

 

ブランドもさることながら、パリの老舗百貨店であるギャラリーラファイエットは、以前から、パリで毎年開催される国際アートフェアFIACの公式パートナーだったが、独自の現代美術館の設立に打って出た。こんどの建築家は、レム・コールハースである。

 

 アートフェアによるグローバルマーケットの活性化と、ファッションのブランディング手法が出逢うことで、どのような発明が行われるのだろう?

単に、百貨店のショーウィンドウにアート作品と、服を着たマネキンを併置したからアートフュージョンになるということは全くない。

それは、ルイ・ヴィトン村上隆草間彌生オラファー・エリアソンと組んだ新しい価値創出よりも、さらに後退した、お茶濁しでしかない。

ハッキリ言えば、商業がアートを利用している陳腐な事例でしかないし、少しでもコンテンポラリーアートリテラシーを持ち、また、ハイブランドのブランド戦略のスリリングな挑戦を知るものならば、失望を誘うだけだろう。

いかにキュレーションのイノヴェイションや変成がおこなわれたか、そこが問題なのだ。

 

日本においても、先駆的な挑戦の事例があることを明記しておきたい(自分の事例なのだが、お許しねがいたい)。

2012年に三越伊勢丹は、新宿の本店をリモデルしたが、その時に2つのプロジェクトを実施した。

1つは2011年に発生した東日本大震災をアートによって支援するプロジェクトKISS THE HEARTである。新宿、銀座、日本橋の旗艦三店の全てのショーウィンドウを、若手アーティストと組み、独自のキュレーションのもとに、商品は入れずに、あくまでも企業ヴァリューの施策として計画された(作品はなんらかの形で、1ヶ月の展示のあと、百貨店内でオークションを行い、売り上げは全額、東北復興のために寄付された。3年間で約1000万円)。

僕はこのプロジェクトのディレクターとして指名され、キュレーション開発をおこなったのだが、いかにアーティストのヴァリューと、企業ブランディングのヴァリューアップを相乗させるかに最大腐心した。

アーティストは全て新作制作を依頼したが、直接的に、東日本大震災をテーマとすることは求めては、いない。また同様に、商業空間、ひいては資本主義のスペクタクル空間への批評性への表現規制、注文も行わないようにした。津波・震災・放射能汚染というトリプルな厄禍を、想像力の力で、いかに未来に向けてポジティブに変成できるか。

課題は、そこにある。

最悪を最善に変成できるか?

それは、コンテンポラリーアートに突きつけられた正念場でもあった。KISS THE HEARTは、超商業的な、ブランディングであったのだ。

 

3年間で150人を超える、最も才能ある若手アーティストが参加する巨大なプロジェクトとなり、ここでは少しだけの事例紹介にとどめたいが、例えば、アンリアレイジというブランドを率いる森永邦彦は、伊勢丹新宿の角の最も商業価値の高いスペースに、特殊な塗料で真っ白に塗られた「シキビ」をオリジナルで作品化した。シキビとは葬式の時の花輪である。そこに一定時間ごとに、強いブラックライトが当てられると色彩が浮かび上がる。これは、見事に状況を逆手に取ったある種のコンセプチュアルアートであり、傑作と言ってよい。

また、その後、さまざまな国際展から引く手あまたとなった片山真里や、ニューヨークで成功をとげたヒョンギョンらのキャスティングには、普段は商業主義へ厳しい意見を述べる美術館キュレーターからも、高い評価の声がよせられた。

加えて述べると、日本のコンテンポラリーアートの巨匠格である宮島達男(決っして商業の仕事はしない)が、これも他のアーティストとのコラボを絶対しない三宅一生と、組んで作品をつくったことも明記しておかなければならない。

これは、直接的には商業価値を生み出していないように見えるけれど、実は大きな企業価値を生成させることに成功した事例だと言えるだろう。

 

日本においては、厄禍は、反復して訪れるものであり、決してKISS THE HEARTは、特殊ではない先行事例と知るべきなのである。

 

さて、もう一つのアートフュージョンの特筆すべき事例が、新宿店のリモデルにあたって作られたコンセプト・カタログ『Future Curation』(編集は後藤繁雄+後藤桜子)である。

メインヴィジュアルとして制作された名和晃平による立体(いよいよブレイクというタイミングだったスーパーモデルmonaを3Dスキャンし、1.5倍に変換し出力したミューズ)と、ハイブランドを着たmonaを写真家・篠山紀信が名和のファクトリーであるsandwichスタジオで撮りおろしたこともアートフュージョンであるが、さらに重要であったのは、世界的に活躍する美術館キュレーターとファッションデザイナー数十人に、アートフュージョンについての意見、戦略をメールアンケート、メールインタビューしたことだろう(また巻頭には、トップキュレーターのベアトリクス・ルフ、最もラディカルなアーティストであるカールステン・ニコライ、そしてマルタン・マルジェラと組み、またメゾン・キツネに関わるデザインユニットであるアバケのコメントも入っている)。

 

これはある意味では、来たるべきアートフュージョンの「ソースブック」であり、コンテンポラリーアートハイブランドフュージョンをさらに加速する戦略であったと言えるだろう。

 

ギャラリーラファイエットのような百貨店が、コンテンポラリーアートを包括したビジネスに挑戦し、またコムデギャルソンがドーバーストリートマーケットのような戦略的なセレクトショップを世界展開するように、アートフュージョンの戦略は、景気動向に左右されながらも、確実にすすんでいる。

この流れは、不可逆なものだ。

 

来るべきキュレーターが、ハイブランドから輩出されるのか。

それともガゴシアンのようなグローバルなギャラリーが、「フィギュア」や「アートグッズ」「アートピース」「エディション」を生産・販売する中から、新たなキュレーターを輩出するのか。

それとも新たな「セレクトショップ」の進化をはかるリテイルストア、百貨店やオンラインストアから新型キュレーターが登場するのか。

 

アートフュージョンは、かつてない強力な「価値創出」のためのキュレイションの手法である。

このキュレーションのイニシアティブをにぎる者が、価値の未来を手に入れることができるのである。



29キュレーションは、どのような新しい戦略的な手法に進化していくのだろう?

2012年に出版された、ハンス・ウルリッヒによるインタビュー集『キュレイション』は、アートシーンを牽引していく重要な役割をはたすキュレイターという存在を、はじめて歴史化する作業であった。したがって、まずは彼が選んだのは、パイオニアたちということになる。

しかし彼の目論見は、変動するアートワールドに対して、キュレーションもまた変動するわけであって、その始原のラディカリズムと、未来への可能性を再編・再生・新生させることにある。

彼が21世紀アートシーンのキュレイションの始原に、ハラルド・ゼーマンやポントゥス・フルテンらがもつ「包摂性」を重視するのは、その意図のあらわれである。

 

今やアートの文脈をこえ、キュレーションというコトバ は便利なものとして、すでにwebで「キュレイション・サイト」と称し、既存にあるサイトを複数とりこみ、より影響力のある「プラットフォーム」を再編する編集手法が、有効な戦略として脚光をあびている。

アートの文脈で使われていた「キュレイション」という用語が「編集」というコトバにかわり、進化形としてとりあげられているのだ。DJ、料理、インテリア、ライフスタイル、、。さまざまな分野で自称「キュレーター」と名乗る人が次々に現れる。だからこそオブリストは、そのアートにおける始原を明確にする必要があると考えたのだろう。

 

かつてバックミンスター・フラーは、先駆的に「専門分化とは事実上、奴隷状態の少々おしゃれな変形に過ぎない」(『宇宙船地球号  操縦マニュアル』)と明確な否定を行い、「包括的な知性」をもつ大海賊(グレート・パイレーツ)てなければならないと説いた。彼は専門化を単に否定するだけでなく、オルタナティブな一般原理としてシナジェティックスを提唱したが、キュレーションにおいて今、まさにこのことが強く留意されなくてはならないだろう。

 

「キュレーション」を、テーマとした本が雨後のタケノコのように次々に出版され、ネコもシャクシも「キュレーター」を名乗りだしている。しかし、情報を編み。価値を生成させる「拡張された編集」という限定的なノウハウ化するのではなく、その全体性をこそを問わなくてはならない。

 

例えば、イエンス・ホフマンが編集した『Show Time: The 50 Most Influential Exhibitions of Contemporary Art』は、そのための必携の本の1つである。すぐれた仕事は、まず最初に現れる。

ニューヨークベースのホフマンは、1974生まれで、1968年生まれのオブリストより、さらに若い世代に属するコンテンポラリーアートのキュレーターである。彼は世界の様々な美術館での修行をつみ、現在はジューイッシュ美術館のヘッドキュレーターであり、アートマガジン「Mousse」の編集にもかかわっている。

また、キュレーションの原理を議論するための編著「Ten Fundamental Questions of Curating」を2013年に、また小冊子ではあるが必読の著作「(Curating) From A to Z」を 2014年に発表するなど、「キュレーション」の可能性を開拓しようとする重要なプレイヤーなのである。これらの本は、キュレーターを目指す者にとって、必読の本をとなるだろう。

で、ホフマンの「Show Time」であるが、これはこの20年間に世界中で開催された、美術館や国際美術展の中から「イノベイティブ」と思われる50の展覧会を厳選し、9つのベクトルに分類したものである。

 

最初にいきなり脱線してしまうことをお許し願いたいのだが、まずはハラルド・ゼーマンの話を前振りでしておきたいのだ。

ホフマンもまた偉大なパイオニアであるキュレーター(exhibition  maker)ゼーマン(1933–2005) の信奉者であることを隠さない。「Show Time」は巻頭に、ゼーマンに捧げる、と明記されているのだから。

ゼーマンについての「研究書」も、彼の没後から急速に進みだしている。2007年に出た「Harald Szeemann : Individual Methodology」は、彼の主要な展覧会と彼が展覧会を組織するために作り続けた、アーティストリサーチの膨大な資料アーカイブ、関係者インタビュー、展覧会のスケッチや交渉資料などがコンパクトに編集されている。

彼の「カオス」というべき資料は、28,000 冊を超すアーティストブックや出版物、36,000 枚を超す写真資料などからなるものだった。スイスのマッジャMaggiaに建てられていた「資料館」に保存されていたが、2016年には、アメリカのThe Getty Research Instituteに移送され、まるごと保存された。これ以降、急速にアーカイブの全容。ゼーマンが構想していた「キュレーション」の全貌が研究対象になっていくのだろう。

この巨大なアーカイブや資料館の写真を見るにつけ、すぐさま連想されるのは、バックミンスター・フラーの、これもあまりに巨大なスクラップブック「クロノファイル」であり、IBMコンサルティングを行っていたデザイナー、チャールズ&レイ・イームズ のスタジオ「901」である。

キュレーションというコトバ同様、アーカイブというコトバも、オンライン世界の重要なストラテジーになりつつあるが、やはり、モノが時空を孕みながら持つ「情報の奥行き」を、忘れてはならないだろう。

 

僕は幸運にも、個人的に2017年の夏に、ベニスビエンナーレを観た後、列車で、現在もゼーマンが行った「展覧会」が常設で、そのまま保存されているスイスのアスコナにある Monte Verità(Casa Anatta Museum)を訪れることができた。

 ゼーマンは、1978年にモンテヴェリタ展「The breasts of truth」を組織した。最初に言っておくと、このキュレーションには美術作品はまったくない。イタリア語版とドイツ語版のカタログにももちろん作品は載っていない。

しかし小さな3フロアにギッチリとモノ、本、写真などの資料が蒐集され見事に整理されキュレーションされている。美術館の入り口には、モンテヴェリタ展で観客を引き連れギャラリーツァーを行うゼーマンのビデオも流れてるいる。未来のキュレーターや研究者には、格好のケース・スタディーになるだろう。

ゼーマンのモンテヴェリタ展への熱の入れようは、異様なほど強い。この、ヨーロッパの北の文化圏と南の文化圏が交差・混交する場所に、20世紀において、たくさんのアーティスト、思想家、運動家たちが訪れ、移住し、コミューンを形成した。

アナキストバクーニンクロポトキンら)、シュタイナーなどの神秘主義者たち、多様なヌーディストやコミューン主義者たち、アーティスト(ダダイスト、クレーやモホリ=ナジら)、深層心理学者によるエラノス会議(ユングら)、ダンスアーティストたち(シャルロット・バラたち)が集まったのだろうか?

メンバーを列挙するだけでも、西洋の隠されたアンダーグラウンド文化論としてあつかうことは興味深いことだ。

 

しかし、ゼーマンはそんな「博物館」「文化芸術史」的な興味にとどまっていない。キュレーションを観て思った実感は、磁場生成過程や、磁力がいかに生成・変成するかにゼーマンは興味があったのではないか。

誤解を恐れずにいえば、文化やアートを生み出す始原としてのアルケミーにこそ、彼は興味があったのだろう。

モンテヴェリタに集まったのは、筋金入のユートピスト、聖地をここに建設しようとする霊能者、国家を解体し自由なプロレタリアートの時空を出現させようとする革命家。思想と世界の包摂性を持つヴィジョナリーたちである。

 

ヴィジョナリーになるということ。

 

アスコナは光に溢れている。

聖なる山々と湖水。

温暖な気候は、植物を生命力あふれるよう育成する。地球上でも特別美しく、そしてスピリチャアルな作用の働くパワースポットだ。

展覧会をどう作ると同時に、ゼーマンはヴィジョナリーになるということをキュレーションを通して学んだのではなかったか。モンテヴェリタのヴィジョナリーたちの一員に、彼もなろうとしたのではなかったか。

アーティストは、アルケミーを操れる、価値の魔法使いである。美術館という白い箱、いや世界そのものを磁場に変換すること。彼のキュレーションの営みは、資料館や図書館をつくるためでも、美術論を書くために集められたものではない。

それは、そのあと彼がドクメンタやベニスなどで破格なキュレーションをやってのけるための、エネルギー注入のようなものだったにちがいない。

 

ゼーマンにインスパイアされた、若きキュレーターたちはこれからどのようなキュレーションを「発明」するのだろうか。

さて、イエンス・ホフマンの「Show Time」にもどろうか。

 

先ほど、ホフマンは9つのベクトルに分類していると書いた。

①Beyond  the  White  Cube

②Artists as  Curators  as  Artists

③Across the  Field  and Beyond  the  Disciplines

④New  Land

⑤Biennial  Years

⑥New  Forms

⑦Other  Everywhere

⑧Tommorrow’s  Talents  Today

History

それぞれの項目に対して、5から6つの加古の展覧会や国際展が取り上げられ、写真とキュレトリアル・テーマ。キュレーターなどのスタッフリスト、参加アーティストリストが、リスト化された十全の資料がついている。

 ①は、ミュンスターの彫刻プロジェクトのよいに既存の美術館ではなくて、街中の展示など社会実践的なもの

②は、アーティストたちが批評性をもってキュレーションするもの。ダミアン・ハーストの1998年のFreezeやジョセフ・コスースが1990年にブルックリン・ミュージアムでキュレーションした「The Play of the Unmentiomable」など。

③は、建築や科学、マスメディアなど別分野とのコラボレーション。ハンス・ウルリッヒ・オブリストとホウ・ハンルが1997年にやった「Cities on the Move:Contemporary Asian Art on the Turn of the 21th Century」、そしてオブリストの「Laboratorium」らが取り上げられている。

④は、文字通り地球的な探求であり、象徴的には、かのJ- H・マルタンによる「大地の魔術師たち」展でからオクウィ・エンヴェゾー らのキュレーションなど。

⑤は、マニフエスタやドクメンタ、リヨンビエンナーレ、ベルリン・ビエンナーレイスタンブールビエンナーレを取り上げる。

⑥は、20年間にさまざまにイノベーション開発された展覧会の多様性集。第50回のベニスビエンナーレなど。

⑦は、民族、ナショナリティ、階級、性などを扱ったキュレーション。

⑧は、ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」がクローズアップされた「Traffic」展など。

最終章⑨は、美術の歴史やフェミニズムコンセプチュアルアートの歴史そのものを再編しようとする展覧会などである。

このように「Show Time」は、ざっくりとではあるが過去のキュレーション史のパースペクティブを概括するにはもってこいの本だ。ラストでスーパーキュレーター7人がホフマンの司会で、キュレーションのイノベーションについて議論しているのも刺激的だ。

 

ならば、現在、そして未来のキュレーションはどのような道が開けているのか。

 

最後に、アートヒストリアンのテリー・スミスが、現役最前線で活躍中のキュレーターインタビュー集「Talking Contemporary Curating」や、2016年に出た極めてホットなキュレーションの事例を集めた「The  New  Curator」も、コンテンポラリーアートにおける世界のキュレーションの動向を知るには、必読といえるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在のコンテンポラリーアートが、美術館や国際美術展ビエンナーレトリエンナーレ)とアートフェアの二極を中心に動くようになった今、アートにかかわる者はすべて、この事態を直視しなければ、アートワールドにおける「試合」に参加できなくなっている。

極論すれば、「オルタナティブな価値」を独自形成するか、逆に、資本主義よりも速い速度で消費を免れ、トリッキーなプレイをマーケットの中心で行ってみせらるか問われるのだ。

あるいは、ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』やオルタナティブモダンという論点も、ダミアン・ハースト村上隆らアーティストたちのストラテジー、あるいは、ヴェニスに美術館をつくり、オークション会社を買収し、またブランドとアーティストとのコラボレイションを積極的にはたすピノー率いるルイ・ヴィトングループの動きなど、すべて新たなキュレイションの手法を開発しようとする挑戦と考えることができる。コンテンポラリーアートの未来は、キュレイションという手法・技術なしには、考えられないのである。

 

さて、最後に、今までの論点をふまえて、新たなキュレイションの代表的な手法となっている「アートフュージョン」について考察しておきたい。

 

 

28ハンス・ウルリッヒ・オブリストの「キュレーション」から学ぶこと

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト(ロンドンのサーペンタインギャラリー/プログラムディレクター)が、主に1950年代から70年代に活躍した欧米11人のキュレイターにインタビューした『A Brief History of Curating』は、「キュレイション」というものが、アートの世界においてどのように生まれてきたか、その重要なオーラルヒストリー(記録集)である。

キュレイションが生まれてきた背景事情、キーマンたちと彼ら同士の相関/ネットワークについて明かした重要な本だ。

まずは、この本が明かすことをかいつまんで、要約しておこう。

 

第2次世界大戦後アートの中心は、ヨーロッパ(パリ)からアメリカ(ニューヨーク)に移行したが、ことはそれほど単純ではなく、ヨーロッパがアメリカの抽象表現主義からコンセプチュアリズムにいたる変革のアートを、どのように受け入れ、評価体制を作っていったか。そのことの理解なしには、モダンからコンテンポラリーアートへの、移行と接続のコンテキストを読み解くことは難しい。

 

例えば現在、最も影響あるグローバルなアートフェアであるアートバーゼルが、「なぜバーゼル」なのか。オブリストもそうだが、バーゼルチューリッヒ出身のキュレイターたち、あるいはオランダ、スウェーデンのキーマンが、現在のアートシーンで強い影響力を持っているのはなぜなのか。その背景の「小史」が語られているのである。

 

「キュレイション」は今や、アートの分野を超え、グローバルな情報/イメージ世界において、「価値」を再定義(再編/再生/新生)する「ノウハウ」としてもてはやされるようになっているが、実は本家であるアートの分野で、世界をリアルに動かしてきた「その実態」、つまり関係と歴史は、なかなか見えてこなかった(「日本のアート」が世界にコネクト出来なかった歴史的理由も、この本を読み進めるうちに実感されるだろう)。

 

キュレイションについてその要点を整理しておきたいと考える。

 

①60年代、70年代の前衛アヴァンギャルド・実験エクスペリメンタルが起点であるということ。

 

 歴史はリニアに進行するように見えて、実は歴史を作る者は、「例外者」である。あるいはカタストロフのようなゼロ点(リセット)であるというパラドックスがある。

歴史は等価な日常/エブリデイの積み重さなりではあるが、実はそこからはみ出す「特異」な者により、ドライヴはかけられる。

キュレイションの歴史もまた、例外者によりその起源がつくられてきた。価値の定まらない「前衛」や「実験」つまり「問い」としてのキュレーションから、美術あるいは美術館を、再定義されなおすことが行われてきたのだ(例えば「常設展」メインのものから「企画展」へのシフト。展示場から実験場あるいは人と人を結びつける「メディアとしての場」への再編など)。

 

だからキュレイションのダイナミズムは、「前例のない仕事」を創出するアティチュードと深く関係する。当然のこと、パイオニアたちは、領域横断型(アートの内と外を往復するタイプ)として活躍することになるのである。

 

例えば、スイスのベルン生まれのハラルド・ゼーマンのことをハンス・ウルリッヒは、

 

「キュレーターというより魔法使いのようだ」と評す。「アーカイヴィストであり学芸員であり、マネージャーであり、広報担当者であり、会計士であり、そして何よりもアーティストの共謀者なのだ」

 

と書く。ゼーマンは、30代でクンストハレ・ベルンの館長をつとめ、年間に12~15回の展覧会を組織し、ヨーロッパとアメリカの新鋭アーティストを出会わせたが、69年の『態度が形になる時ー頭の中に生きる』展での混乱を問題視したクンストハレ委員会と、ベルン市行政からの圧力によって辞任。それ以来フリーランスのキュレイターとしてラディカルな活動を精力的に行う道を選んだ。

 

とりわけ1972年のカッセルのドクメンタ(5年に1度開催)で彼は、ヨーゼフ・ボイスの「直接民主制のオフィス」などのイベントを100日間にわたりプロデュースし、アートシーンに大きな「問い」を提出。ゼーマンは、キュレーターとは、突出したアートにおける「例外者」であることを身をもって示したパイオニアと言えるだろう。

ゼーマンのキュレイションは、アーティストたちへの徹底したリサーチと、共謀関係をベースに、「構築されたカオス」を出現させることを特徴とした。

 

またハンス・ウルリッヒは、コンセプチュアル・アートを中心とするキュレーターでもあり、パブリッシャーであり、ディーラーだったセス・ジーケローブ。評論家であり同時にキュレイターとして、政治的な展覧会を作り続けてきたルーシー・リパードなどをキュレイターの先駆像として評価し取り上げている。

これはキュレイションという仕事がアカデミズムのような確立化、体系化された「学」や、「理論」を目指すものというより、展覧会をメディアや実験としてとらえ(ゼーマン)、来たるべき価値、あるいは社会への問いを組織する実践的な術であると捉えることを意味する。

つまりアートを通し、社会や観衆にダイナミックに働きかけ、フィードバックを誘発させ、運動を起こし続けることを目的とするのである。

 

昨今、「キュレイション」とは情報を戦略的に編集し、力を増幅させるだけのノウハウと考える者もいるが、実験(破裂/衝突/交配/破綻と再生etc.)というモチベーションなくしては存在しないし、経済や政治の抑圧や制約があろうと、したたかに対応出来る「フレキシヴィリティ」(ゼーマン/ジーゲローブ)が不可欠であることを先駆者たちは物語っている。

 

②歴史(時空)の再編/接続

 

キュレイションの原点は、逆説的に言えば、ただ上手に配置、編集するだけでなく、異質性の衝突、その実験ということにある。それはリニアな時間軸の無化と、再生の提案をいかに行うかということ、つまり、切断し、ワープさせ、新たに接続させるという技術である。

ポンピドゥーセンターの創立に携わったポントゥス・フルテンは冷戦体制(東西陣営の対立/戦後の都市の再配置)をキュレイションのエンジンとして、『パリーニューヨーク』『パリーベルリン』『パリーモスクワ』『パリーパリ』という画期的な展覧会を組織した。それはアート(イメージの生成)の背後にある世界自体を動体として捉え、キュレイションしようとする挑戦であった。当然そこにはアート作品以外にも資料、映像がフル動員され、「総体を編み直す」作業が行われることとなる。

しかも重要なのは、「公式化された歴史」ではなくオルタナティブな、「もう1つあり得た歴史」、つまり「ユートピア」の視点がキュレイションに盛り込まれることだ。退屈な墓場としての歴史のキュレイションではなく、現実に作用し、「歴史の可能性」を再提案するキュレイション、そこにはあからさまではないが徹底した批評性が不可欠となるのである。

 

③キュレイションをキュレイションし直すこと

 

ハンス・ウルリッヒ・オブリストがインタビューした「キュレーター」たちはある意味で、モダン社会がポストモダンの時代に突入した時に闘った人たちである。そこには、不定形だが可能性に賭ける「愛と情熱とオブセッションゼーマン)」がある。

その意味でコンテンポラリーアートという分野は、人間の想像力が最もラディカルにプログラム開発されている領域だと言ってよいだろう。

と同時に、極度に加速化される資本主義=消費主義に抗うクリエイションを、アーティストたちと共謀しつつ生成・増幅できる力がキュレイターの腕となる。

 

その意味でハンス・ウルリッヒのねらいは、60年代/70年代のキュレイション創世記のキュレイターたちに学びつつ、今後ますますキュレイションというプログラム開発が押し進められなければならないという宣言とも受けとれる。

21世紀を迎えてからのグローバル経済の動きは、地球の文化的地勢を大幅にぬりかえしているし、(メガシティの誕生、南北問題、経済のアシンメトリー性、中国の台頭の誕生など)、逆にキュレイションは政治・軍事的大国主義と抗するマルチチュードや文化的戦略性をおびるようになっている。そして、また情報の巨大化によっておこる無思考状態(判断停止)や記憶喪失状態といかに抗するかも重要になる。あまりに巨大で高速な情報は逆に「すべては無かったことと同じ」になってしまうからである。

 

僕がオブリストに2008年にインタビューした時に、彼が言った発言はきわめて印象的であった。

 

レム・コールハースとデジタルエイジにおける健忘症についてよく話をします。”忘れない”ということはアートに関わる者にとって、本当に大事なこと。私のような”新しいプラットフォーム”をアーティストたちに提供する立場にある者は忘れてはいけません」

 

消費や忘却に抗しながらクリエイティブな力を再編/再生/新生させること。”新しいプラットフォーム”は才能とクリエイティブな組織が出会い、新たな価値を生み出す仕組みやプログラムのことを指す。キュレイターは、常にフレキシブルで、オープンで、横断的で、新しいアーティストや作品の生成(開発)に参加しなければならないのである。

 

キュレイションの目的は、止むことのない価値の活性化、生成にある。それは言い換えれば「問い」を製造し続け、人々に思考と行動の場を与えると言ってよいだろう。そのためにキュレイションは、ただものごとを食べやすく並びかえるためのものではありえない。ポストモダン社会という、歴史の時系列がバラバラに情報化され、猛烈な資本主義/消費主義にさらされた嵐の中で、そのつどつどの結成点を再編/再生/新生させる作業なのだ。

 

その意味で、これからのキュレイションを考えることは、すでに生み出された過去のキュレイションもまた再編の対象としてキュレイションしなおしていく過程ともなる。

また、あるキュレイションを「決定項」とするのではなく、「もう一つのありえたかもしれないキュレイション」、つまりオルタナティブなキュレイションを再組織することにもなるだろう。

 

その意味で、ハラルド・ゼーマンが1969年行ったキュレイション『態度が形になる時ー頭の中に生きる』が、その時の展示室ごと再現されたことはきわめてシンボリックな事件であった。

時代の行き方がますます見通せなくなる中で、60年代や70年代のアーティストの活動やキュレイションを再考し、来るべき未来へと接続することは、「キュレイションの現在」にとって基本姿勢と言えるものなのである。