コンテンポラリーアート虎の巻

コンテンポラリーアート論

10ゼロが新しい道を、再生成させてくれるということ

アートにとって、破壊とはなんだろう。個人的な経験として、一番破壊を感じたのは、津波の直後の石巻の街だった。風景の廃墟化にではない。全ての日常的な事物が、強力なミキサーの中に放り込まれたように、文字通り「粉砕」され、ヘドロ化したのを間近に見て戦慄を覚えた。コンクリートの電柱は握りつぶされたように丸まっていたし、重く硬いもの、軽くて柔軟なものも、全く差別なく粉々だった。文字を読み取れるものは一切無かった。津波の映像からは想像だにできない異様な力が、全ての細部を破壊していた。しかし、物質としての波は、無慈悲なまでに無邪気に暴れまくったにすぎず、人間の悲嘆やモラルなどを海に問うてもまったく意味はなく、ただただナンセンスが突きつけられていた。

 

破壊自体の無目的生を考えた時、アートにとって破壊そのものは似合わない。アートは時として、破壊を利用はするが、破壊を目的とはしない。

これはどういうことだろう。

例えば、「分裂生成」というコトバは、どうだろうか。グレゴリー・ベイトソンが言い出した言葉であり、それ自体は、文化人類学的なリサーチから彼が得た人間の精神のありようだ(追記しておくと、彼の研究成果として、「愛しているから殺すのだ」という「ダブルバインド」の精神モデルも重要である)。このコトバ自体は、統合失調症などを前提にしたコトバだし、このコトバでアートの本質を説明したいとも思わない。しかし、自己がコントロールできない破壊性、他者性や敵対の関係性を引き受けながら、表現を提出しようとするコンテンポラリーアートの流れ・動向を見ているときに、この「分裂生成」というコトバは魅力的だ。

前章で見たように、100年前の第1次世界大戦における機械兵器による無差別大量殺戮は、人間の精神に大きな切断をもたらし、アートもそれまでの歴史、思想、スタイルへのゼロ化に突き当たった。ダダは、そこから発生した止むに止まれぬ衝動だったと言ってよい。しかしダダの破壊行為が、「創造」のためのものだったと事後的に、あっさり説明する者がいるが、それは間違っている。正常が主で、異常は一時的なものと考えているからだ。

生成とはつねに、様々な様態の分裂として現れると考えるべきではないのか。アイデンティティなどという抑圧したものを設定するから、間違うのだ。

そう考えると、アートにおいて分裂は異常なことではないし、アートにおける破壊は、あたりまえに破壊を活用するメタな創造であり、同時にセラピーであり、オルタナティブな開発作業というべきなのである。

個人的な経験を再び書くと、僕は母親が統合失調症だったので、世の中では異常と思われていることが日常である青春をすごした。そのときに驚いたのは、人間の隠された能力である。彼女は夜中に幼少期に覚えた歌を夜通し歌うことがあったが、異常なほど正確だった。チャネルが開きすぎると人間は、壊れて異常者ということになる。幻視や幻聴もそうだ。インヴィジブルな車が家の中を走り回り、よく皇太子から電話がかかってくると彼女は言った。しかし僕にとって、それは常態であり、おかげで逆に、異常をよそおったり、狂気や集合無意識を表面的になぞったアート作品の欺瞞が見抜けるようになった。

今は、分裂はアートの友だと思っている。

 

そのような視点からもう一度ゼロの意味、ゼロの効能について考えてみたい。そして1960年代末にピークとなるコンセプチュアルアートの要点について考えたいのだ。

 

コトバとモノの分裂。

リテラルなアルガママの世界と、虚として構築されるフェノメナルな世界の分裂。

 

ダダから50年後にブレイクしたコンセプチュアルアートの「分裂生成」が、これから我々が生成するアートに大きなヒントを与えているというヴィジョンをもっている。ジョセフ・コスース、ドナルド・ジャッド、ソル・ルイットについて考えることになるだろう。

 

まず誤解を取り除くために、単純な「破壊」や「ゼロ」を装ったアートについて見てみたい。破壊は行為であって、残されたものはムザンなヌケガラにすぎないからだ。ポロックのアクション・ペインティング(1943)は、絵画を生成させるためのものでしかなく、破壊とは無関係だ。またキャンバスをナイフで切ったルーチョ・フォンタナの絵画(1947「空間概念・期待:Concetto spaziale・Attesa&Attese」)も同じく。また昨今、国際的な評価が高い具体美術協会嶋本昭三の穴(1950)や絵の具投げや、村上三郎の紙破り「通過」(1955)も、単に「破壊的にみえる」にすぎず、リーダーであった吉原治良の禅書の円相をパクった「円」(1955年ごろ)も、無の境地とは真逆の、評価されたいことのコンプレックスが生み出したムザンなものである。これらの一見「破壊的にみえて」じつは造形主義的でしかない作家たちに比べて、同時代のイヴ・クラインは1962年に34歳で夭折してしまったが、多くの注目すべきヒントを残した。彼は薔薇十字団に属し、独自のヴィジョンのもとに何もない展覧会『空虚』(1958)、『空虚への跳躍』(1960)、『人体測定』(1960)、『火の絵画』(1961年)など、破壊を偽装するのではなく、ある種の「錬金術」「再魔術」的な変換手法が開発されている。彼のIKB(インターナショナル・クライン・ブルー)を使った青一面の絵画は、アメリカのモノクロームペインティングやミニマリズムとは、まるで異なるメタペインティングの実践である。

 

これらのアーティストは、コンセプチュアルアートやハプニング、パフォーマンス、写真、インスタレーションの揺籃期の錯誤の作家たちだ。単なる思いつき的な初期衝動を反復するだけで終わった作家もいれば、クラインのように「ゼロ」以降の作品生成、「価値」の変成の領域に踏み込んだ者もいる。

 

さて、いよいよコンセプチュアルアートの初期において最も重要なアーティストについて語りたい。それは意外かもしれないが作曲家のジョン・ケージである。彼は1912年に生まれ、1992年に79才で死んだが、その生涯のストーリーは語り出すとキリがないほど魅力的だ。ロスに亡命していたシェーンベルグに教えをこうた日々、ピアノに木片など挟みオルタナティブな楽器に変えてしまうブリベアド・ピアノ曲の誕生など、アヴァンギャルドな格闘はまさに「分裂生成」と呼びたいほどの矛盾と生成の過程だった。キノコや自然の話も実に面白い。しかしここでクローズアップしたいのは、かれのニューヨーク時代だ。

彼は自分の現代音楽の教え子のインドギタ・サラバイから逆にインド音楽とその背景にある東洋思想を知り目覚めてゆく。彼は禅を発見し、そしてコロンビア大学に講義に来ていた鈴木大拙の講義にでる。ケージはこう言っている

「私は変わりつつある---成長しつつあるといってもいいが---と感じた。そして、それ以前の知識は子供の域をでていないとしみじみと感じた」と。

鈴木大拙はケージを「開いた」が、音楽については何も言わなかった。ケージはみずから考え音楽の役割とは、「われわれが生きている生活に目覚める」もの、「自然をその働きの本質において模倣」すべきだと気がつく。マース・カニンガムとの出会いへと続き、ともにブラック・マウンテン・カレッジで教えることとなる。サティ再考。そして同時に、転機にたっする。それは「チャンス・オペレーション」の選択だ。彼は破壊者だが、魅力的な分裂を生成する力があった。

ケージが書いた「プリペアードピアノと室内オーケストラのための協奏曲Concerto for Prepared Piano and Camber Ochestra1950/51」は、図面が演奏者に提示されていているだけで奏者は即興をしいられるものだった。聴衆、批評家、また前衛芸術家からも反感と冷笑でむかえられたが、ケージはなおも前にすすみ、「易の音楽Music of Chamges」にたどり着く。70年近くも前のこれらの曲は、しかし今聴いても実に刺激的だ。実験のヌケガラではない、生きた強度がクルのはなぜだろう。

ケージの「分裂生成の手順」は、絵の具を瓶に入れて放り投げれば「偶然絵画」がえられる、というものとは、極北の手間のかかるものだ。いまならコンピュータを使うかもしれない。音、継続時間、強弱、速さ、沈黙などを書き込むための26枚の図面。図面の中の記号は易経による偶然の方法で決定する。カルヴィン・トムキンスの取材によればケージがとった手順はこうだ。

 

1つの記号を書きこむためにケージは3枚の硬貨を投げて、その結果を紙に注意深く記録。図面上の、ある位置と対応する番号を導き出す。しかしこれで決まるのは、音の高さだけで、継続時間、音色、その他の特徴を決めるために、ケージはその同じ手順を繰り返す。作品は43分あり、ケージが硬貨を投げる回数は天文学的な数となり、彼は9ヶ月かけてそれをやった。一章完成するごとに演奏のパートナーともいうべきディビッド・チュードアに渡した。

 

ほとんど無意味と等しい「変換」によって作品が生成されている。重要なのはケージが手順を開発していることだ。その後、彼は透明なプラスティック・スライドを使ったグラフィック・スコアも作り出した。

単なる破壊ではなく、いかに破壊しながら別の何ものかを生成させること。

アナーキーな無秩序礼賛ではなく、別の自由を生み出すこと。

それがネガティヴではないゼロ点のありようだ。

 

ケージはそのモデルを見事につとめ、ブラック・マウンテン・カレッジのゼミ生(多い時でも8人以上になることはなかったらしい)からは、ハプニングを始めたアラン・カプローやナムジュンパイクがでた。またフルクサスに参加するものも多数いた。

つまり、時間や参加や関係を問う雛形モデルの、始点となったということが重要なのだ。現時点、つまり関係性や、参加の問題を考える時に、ケージがとった思考は、極めて役立つだろう。

 

ここまてま書いてまたしてもコンセプチュアル・アートまでたどりつけなかったので次回も引続き。

 

ジョン・ケージのコトバでしめておきたい。

「ほんとうに深く考えてみたいのは放牛図における最後の図だ。これは言葉のかわりに挿し絵をもって教える禅の基本だが、ご存知のように放牛図には二種類ある。一つはからっぽの円---無---つまりデュシャンの例である。もう一つでは、最後の図は大きな肥った男が満面の微笑みをたたえつつみやげをもって村へ帰るところだ。彼は将来の目的をもたずにかえってきたが、ともかく帰ってきたのである。その思想はつまり、無へ到達したのち、人は再び活動へ戻るということである」

 

では次回11回をお楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9アートの「反復」するゼロ点

歴史はリニアに動いてはいない。スパイラル状に、回帰と再編を行ないながら動く。前に向かってゼロへ進む。それが破壊と再生の意味だ。アートは、この100年の間に2度のゼロ点、アートワールドの決定的なゲームルールの改変、システムのシフトを行なった。この転換のバックには、戦争というカタストロフや、機械やテクノロジーの暴力的な介入がある。そして我々は今、3回目のゼロ点にいる。その認識が作品を作ったり、批評、キュレーションの基本認識となる。第9回は、アートにおける「反復するゼロ点」という考え方の話をしたい。

 

まず1回目のゼロ点の話からだ。

ダダである。

チューリッヒ、ここからダダが始まった。

チューリッヒは、大好きな街だ。なんだか相性が合う。アートバーゼルに毎年通うようになってもう16年。わざわざチューリッヒに宿泊し、バーゼルへ通うこともたびたびだ。今はアムスのステデリック美術館の館長になったが、ベアトリクス・ルフの統括時代のクンストハレ・チューリッヒは見逃せないキュレーションが必ず行われていたし、レーベンブロイのビール工場をリノベしたコンプレックスには、イカすミュージアム、ギャラリーや出版社、ブックストアが入っていて、今でも入り口の階段を登るたびに、身体の底からワクワクする。僕にとっては、世界で一番刺激的な場所だ。

そしてこの街には、近年リニューアルしたチューリッヒ芸大があり、そこを出身とする才能溢れるコンテンポラリーフォトアーティストたちと出逢ってきた。今や教鞭をとるマリアンヌ・ミュラー、鬼才ステファン・バルガー、タイヨー&ニコなど。彼らはみなチューリッヒ芸大出身だ。ちなみにフィシュリ&ヴァイスもチューリッヒ生まれ。モノの連鎖的爆発ともいうべき傑作「事の次第The Way Things Go」や食器や家具を絶妙なバランスで組み立てた写真シリーズ「均衡Equilibres series」を彼らはつくった。直接的な影響とまでは言わないが、明らかにそこにはダダやレディメイドの影を誰もが感じるだろう。不思議なことにバルガーやタイヨー&ニコたちも「コンテンポラリーアートとしての写真」の代表選手でありながら極めてオブジェクティブな志向が強い。以前、ミュラーに誘われてチューリッヒ芸大のディグリーショー卒展に行ったことがあるが、学生の作品の大半が、映像プロジェクションと出力と材木などを組み合わせたインスタレーションで、それらはオブジェクト志向において共通性が高かった。ミュラーが学生をつれて東京にリサーチツアーに来た時に、フォトアーチストの赤石隆明を紹介したのだが、一瞬で意気投合したのはいうまでもない。

 

さて、チューリッヒにはダダの発祥地 、活動拠点キャバレー・ヴォルテール があった。今はカフェ兼アートセンターのようになっていて観光地化されているが、迷路のような路地裏の雰囲気は、往時をしのばせる。ちなみに裏奥の通りには革命家レーニンが亡命して一時住んでいたアパートが残っていて、その前の小さな公園は僕の愛して止まない場所の1つだ。

キャバレー・ヴォルテールは1916年に開店。ドイツ文学者フーゴ・バルと彼の妻エミー・ヘニングスがスタートさせ、トリスタン・ツァラは「ダダは何も意味しない」と宣言する。ハンス・アルプ、リヒャルト・ヒュルゼンベックら亡命者系のアーチストが戦火を避けてアジールであるチューリッヒに集まっていた。バルやツァラによる宣言や無意味な音響詩の朗読、異装によるパフォーマンス。アルプらが始めたコラージュなどの実験室といってよい(追記しておきたいが、2004年にバーゼルのKunstmuseum で開催されたアルプとクルト・シュヴィッタースのコラボ展は最高で、今でもわすれられない。戦争の破壊の中からコラージュという「分裂と再生の手段」を始めた2人のダダイストが、晩年にそれぞれが新たな「生命表現」に向かったことが、極めて示唆と予見にあふれているからである)。

昨年2016年はダダ100年で、スイスは年間を通し、記念イベントのプログラムを多発させた。国をあげてダダを祝う。そんなことは日本では考えられない素晴らしい見識だ。

 

ダダという「反芸術」あるいはデュシャン的に言えば「非芸術」の精神を持ち続けること。

それは「精神」だ。

 いや「精神」と書くと分かりやすいが、誤解されるかもしれない。

「物質的でないもの」と言った方が正確だろう。

 

ある体験について書いておきたい。2005年の秋にポンピドーセンターで、過去最大のダダ展を見たことがあった。1960年代末期に高校時代を過ごした者にとってハンス・リヒターの『ダダ ― 芸術と反芸術』(針生一郎 訳)は、最もヤバイ本だったから大半の「作品」は写真で見覚えがある。

しかしその時に味わったショックは、それら全てがすでに「ヌケガラ」だったということだ。寒々しい「ザンガイ」と言ったっていい。我々は、ありがたく「反芸術展」をみているわけだが、実はもうそこにはダダはない、生きたものはない。ダダなるものは、去ってしまったか、蒸発してしまっているのだ。ツァラやバルら、ダダ「イズム」の始祖と言われる者ほど早く離脱した理由もここにあるだろう。

ダダにしがみつくことは、最もダダではない。そんな体験だった。

 

しかし誤解しないで欲しいのは、この体験は、オブジェとしての作品を否定しているのではなく、決定的に言葉的な意味での「コンセプト」あるいは、「精神」と「モノ」の「否和解的な分裂」がダダだと言いたいのだ。

フーゴ・バルの本『時代からの逃走』は、当時の日記やアフォリズムで構成された、リアルタイムのダダ資料だ。バルはこう言う。

「のろわしい言語には、貨幣をたえずなぶってきた仲買人の手で汚されたように、汚れがこびりついています。わたしは、言葉が言葉であることをやめ、そして言葉が言葉でありはじめる、そういう場所で言葉をもちたいのです」

これは、言葉に対する根本的な「疑念」「問い」である。「言葉で話しても分かり得ない」「言葉なんて無力」。このかつてない、決定的な「不条理」は、第1次世界大戦という史上初めて無差別大量殺戮兵器が導入されたカタストロフがもたらしたものだ。

美しい夢のような絵を描き続けた画家オーギュスト・ルノワールの息子である映画監督ジャン・ルノワールは、映画『大いなる幻影』で、第1次大戦がいかに古き騎士道精神など、過去に人間が信じていたものを無残に失効させたか、非情に描いた。

この不条理がアートにダダを発生させたのだ。

 

ダダ100周年を祝うイベントは、日本のスイス大使館でも行われたがそのパーティで、その年の「あいちトリエンナーレ」の統括ディレクターとなった港千尋は、非常に印象的なスピーチをした。

「ダダのもうひとつの重要な点は、これが世界で初めての同時多発的な芸術運動になったということです。チューリッヒハノーファー、パリ、ロンドン、ニューヨーク。今のネット社会を先取りしていたとも言えるのです」

港千尋は鋭い。彼のダダ解釈は過去のものではなく、エジプトや香港、台湾での、多発的な民衆の創発的レジストとポストインターネットの「今」を、ダダと重ね合わせていた。

 

ちょっと話が前に行きすぎてしまったが、生涯移動しつづけることになったクルト・シュヴィッタースのように逃避と亡命の運命の中で、アーチストという「価値」の騒乱者が、世界にバラまかれた。

「すべては崩壊し、その破片の中から新しいものが生まれてこなければならなかった。この破片が「メルツ」だ。破片をもとあった姿でなく、そうであるべきだった姿へと変えることは、私の中の革命のようであった」

(The Collages of Kurt Schwitters: Tradition and Innovation by  Dorothea Dietrich )

「メルツ」とは、シュヴィッタースが生み出した分裂生成のアートフォームであり、2次元表現に止まることなくメルツバウのような建築や、音響詩など、

「物質的でない」パフォーマーティブな表現にまで及んだことが重要だ。

もう1つだけ指摘しておきたいのだが、ダダはじつにノンシャラン無頓着に、姿を変えつづけることも「精神」として受け入れたということ。ダダに節操はない。「ゼロにする」ということを巧みにあやつるマルセルデュシャンのようなアーチストが生まれる一方で、無節操、アンチモラルにやることを変えつづけるアーチストも出現する。2016年のダダyearにおいてKunsthaus Zürichは、デュシャンの友人でもあったフランシス・ピカビアの生涯を200点を超える作品で再構成した。そこにはとても1人の人格ではありえないスタイルの作品が並ぶ。多様性ではない、まさに分裂生成でなのである。

 

ダダについての饒舌に語りすぎてしまった。

話をすすめよう。

第2のゼロ点、シフトは、ダダと現在のちょうど中間時点、1960年代末〜70年にやってきたコンセプチュアル・アートの出現である。

コンセプチュアル・アートについて概括できるガイド書としてはトニー・ゴドフリーの『コンセプチュアル・アート』が必読書だ。最低読むべき。ゴドフリーは、コンテンポラリーアートの研究者だが、現在はフィリピンの大学で教鞭をとり、アジアのアートに興味をシフトしているようだ。訳者は、今はリタイアされてしまったが東京芸大先端芸術表現科教授で、スーザン・ソンタグとの交友などでしられる木幡和枝。授業でもよく使われていたのだろう。

この本は、コンセプチュアル・アートの混乱をそのまま反映したようなところがある。ゴドフリーは苦労してイントロで、コンセプチュアル・アートにまつわる不毛とも思える「発祥」「定義」「本家争い」について列挙している。ソル・ルウイットやジョゼフ・コスースや評論家ルーシー・リパードなどの「定義」合戦は、我々にとっては全く、意味がない。

しかし、コンセプチュアル・アートの嵐のようなシャフルの闘争過程がなければ、現在の我々のコンテンポラリー・アートは無いといっても過言ではない。

昨年ロンドンのテートブリテンで開催されていたイギリスのコンセプチュアル・アート展「Conceptual Art in Britain: 1964–1979 」を「観た」のだが、ほぼただ延々とケースの中にタイプされたテキストが入っているだけ。あんまり「観客」もいないので、まさにゼロ点。つい爆笑してしまった。

 

次回10回目は、コンテンポラリーアートの2度目のゼロをめぐって、あるいは、具体美術協会(前身は0ゼロ会と言った)とオランダの前衛美術グループZEROなど、ゼロがどのように「価値」を分裂生成していったか、そのやり口について突っ込んで考えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8続々編 その3 お金で買えない「価値」とアートについて

飽和。逃走すべき秘境はなく、買いたいと思う商品も減り、世界やネットに溢れるイメージは既視感をおびている。資本主義は袋小路に突き当たった。これは僕だけの実感ではないだろう。飽和は急速に様々な分野で、機能不全の症候をひきおこしている。

その一方で、ミクロな「隙間」や「局所」でオルタナティブな可能性の追求が多発している。生命現象はタフだ。不可能性の中に、それがたとえ虚のイリュージョンであるとわかっていても、想像力で「バイパス」を捏造するのである。

しかしアートワールド帝国は、強力で怪物的なイノベーティブな力を進化させている。キャスティリの時代が、古き良き時代と思えるほどだ。

世界最強のコンテンポラリーギャラリーであるガゴシアン・ギャラリーは、主要都市15に店をかまえ、経済のグローバリゼーションによって非対称的に生まれる富裕層に、高額のアートを売る。年間売り上げも1000億円を超える。プライマリーとセカンダリーの合わせ技に加え、ラリー・ガゴシアン自身がアートコレクターであり、オークションにおいても強力なプレイヤーなのである。しかしガゴシアンの凄いところは、徹底的に市場価値のあるアーティストをセレクトすること(近代絵画からニューヨーク・スクールはもちろんダミアン・ハースト村上隆など)、そして戦略的なキュレーション(ハイパー資本主義的な)を組みセールスを行うこと。売れるようになったアーティストを強引に引き抜くこともしばしばだ。その戦略は「アートグッズ」開発にもおよび、ブックス、エディション、ポスター、プリント、デザインをセールスする単独のショップも出店している。

多国的展開をしているグローバルギャラリーは、ペース・ギャラリーやイヴァン・ヴィルト、デイビッド・ツヴィルナーなどいくつもあるが、それと比べても資本主義的な戦略に抜きん出ている。

 

確かに自分が生きている間に、成功したアーティストになりたいなら、いかにして、これらのグローバルコマーシャルギャラリーに属することができるのか、その作戦を考えなければならないのかもしれない。いや彼らにケンカを売るほどのアンチな批評性と圧倒的な制作力で、エスタブリッシュする道も、不可能ではない。帝国にも必ず弱点があるし、ハックすることだって出来るかもしれない。帝国を前に、無力な奴隷根性こそ、最低の選択でしかない。

もう少し考えてみよう。

戦略的なミュージシャンがやるように、自分自身のレーベルをもち、必要に応じて大手レコード会社と組むような選択もある。これは二択ではなく、オルタナティブな戦略の1つだ。アンディ・ウォーホルパラダイム・シフトというべき発明はいくつもあるが、「ファクトリー」は初期オルタナティブ・モデルかもしれない。それが発想のモデルとなり、村上隆Kaikai Kiki名和晃平のsandwich、オラファー・エリアソンのStudio Olafur Eliassonなどが生まれたと言っても過言ではないからだ。それらは、今や単なる工房ではなく、作品セールスを委託するギャラリーからは独立した組織として、様々なプロジェクトを自由自在にコントロールするクリエイティブ・プラットホームとして進化している。

 

ここで話しを転調させよう。別の「価値」観のことに。

例をあげよう。

 

もしあなたが親友の誕生日のお祝いの会に招かれたのに、一銭も無く、なにもプレゼントが買えなかったら、どうするか?

気持ちを伝えるのに、いつから僕らは「贈り物」を「お金」で買って表現するようになったのだろう?

あなたがアーティストなら、

その人のために自作の詩を読む。

自作の歌を歌う。

その場でその人の、肖像をかいてもよいだろう。

ここにあるのは、「金で買えないモノ」だ。

交換そして交歓。

そのようなイマジネーションから、コンテンポラリーアートは生成できないのか?

無力なのか?

 

 ガコシアンに代表される「産業的」な「価値」生成が、アートにおいて、今やオールマイティなどであるはずがない。飽和の中においては、時空はカオス化していて、「成功」のヴィジョンも「右上がり経済」や「出世」「成り上がり」とは随分異なっている。

1998年という20世紀から21世紀というタイミングで世に問われたニコラ・ブリオーの『関係性の美学』が、論文というよりエッセイであるにもかかわらずジワジワと影響力あたえたのも、飽和からのバイパス探しに適応したからだ。そして転調を行いながら2009年のテート・トリエンナーレで打ち出されたのが「オルターモダン」というキュレトリアル・ディスコースであった。2014年の台北ビエンナーレでは「アントロポセン(人新世)」をキーワードに「速度」をテーマにもってくるなど、アカデミックというよりキャッチャーだと批判されがちなブリオーだが、時代を読む力量は実践的で、すぐれている。彼の横断的で、逃走的な、一時的で旅人的な知性のあり方、関係の作り方は、確実に多くのアーティストにアイデアを与えたと思う。

ブリオーの、ある意味で軽い『関係性の美学』のヴィジョンがなければ、2003年の第50回ベニスビエンナーレにおけるキュレトリアル・プロジェクト「UTOPIA STATION」も実現しなかったろう。ミレニアムをこえて我々を待ち構えていたのは2001年の911という戦争とテロリズムの「新世紀」であり、期待と失望のカオスが蔓延しいく最中であった。

2003年のベニスのディレクターはフランチェスコ・ボナミだったが、彼は「dreams and conflict」をキュレトリアル・ディスコースとするだけでなく、複数のコ・ディレクターをたてアルセナーレの会場において多角的で様々な再編の試みを行なった(ちなみにジャルディーニの日本館のキュレーターは長谷川裕子で、アーティストは小谷元彦と曽根裕で、カオティックな魅力があったのをよく覚えている)。「UTOPIA STATION」は、ラディカルな批評家であるモーリー・ネズビットとキュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリスト、アーティストのリクリット・ティラワニの3人の合同企画で(キュレーションにはリアム・ギリックも参加)、2002年からプロジェクトをスタートさせ、ニューヨークやフランクフルトなど様々な都市でも実施。それこそ「旅人」のように移動するアートプロジェクトとして構想されていて、2003年の時には、ベニスビエンナーレに寄生するような形で開催されたのだ。

60人ものアーティストが現場に参加し、ポスターなどの形で100人が参加した「ステーション」は、仮設のブースやスタイルもバラバラでぐしゃぐしゃな展示台の集合体で、そこではある種の「Exchange交換」が企てられているように見えた。売り物になるような形態の「作品」は、ほとんどなかったような印象しかない。

戦争とテロリズムグローバル資本主義の嵐の中で、泡のように見えるが、ある種のアジールの生成がアートの立場を活用し、ビエンナーレの会場をハックして、夢みられているのだ。

ユートピアとは、どこにもない場所。トマス・モアが発見したこのヴィジョンは人間の心を捉えつづけている。改めて言うまでもなく、20世紀は見事に人類が考えたユートピアは、見事に破綻し悲劇を生んだ。国家社会主義ドイツ労働党ナチスは、全世界を戦争に巻き込み、一方コミュニズムの発展形は、プロレタリアートの天国とはならず、ソビエト、中国、カンボジアなどで大量粛清が行われた。哲学者のテオドル・アドルノは「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」と言ったが、まさに安穏と表現にうつつを抜かすなど出来ない宿痾を人間は、背負うことになってしまった。

ユートピア失敗は、現代人のイマジネーションの失敗を突きつける。もう美の謳歌など犯罪的だし、全ての日常は「政治性」の枷がかけられている。我々の幸福は、侵略や戦争、誰かへの搾取と抑圧の上になりたっているという「政治性」をはっきりと認識しなければならない。

このようなリアルな状況において、アートワールドを1つのアジール、実験場とし、不可能性に満ちたユートピアを、「ありえたかもしれないユートピア」に変換すること。

「UTOPIA STATION」というプロジェクトは、パーマネントなものではない。生まれては消え、作用するものとしてコンテンポラリーアートをとらえている。

どのような作用か?

それは交換である。

近代社会の成立時においては、様々な社会形態が実験され淘汰されていった。まるで進化生物学者のスティーブン・J・グールドが描く世界のようだ。

民主自由主義陣営とコミュニズム陣営の成立以前には、アナキズムやアソシエーション組合主義や空想社会主義などが乱立した。

バクーニンクロポトキンプルードン、サン=シモン、フーリエらは、今からすれば「お金」や「労働力商品」「余剰」「物神化」に対して、オルタナティブな道を発明しようとした。彼らは途中で政争に敗れ失脚し、歴史のゴミ箱に敗者として放り投げられたが近年、この資本主義や政治の飽和と、インターネットによる創発性、アナーキーなレジスト、コミュニティ形成によって、彼らのヴィジョンが再編、再生、新生をとげ始めている。ことは極めて重要でここにアートと「価値」をめぐるヒントが詰まっていると思う。アーティスト達によるスクワッターやオキュパイ、あるいはハキム・ベイが説いたTAZ(Temporary Autonomous Zone)もあわせて参考にすべきだろう(あるいは2011年からスタートした、トルコのイスタンブーとアンカラを拠点とするネットワーク型のSALTの動きも、ノンプロフィットなアート活動として注目したい)。

 

さて、この章をしめくくるにあたって、きわめてエクストリームで極端な「交換価値」についての事例を述べておきたい。それは文学者ピエール・クロソウスキーの本『生きた貨幣』だ。

興味のある人はAmazonで検索してかってみたらいい。手に取ったらなんとも「不穏」な気分に襲われるにちがいない。全編にわたって経済学風の難解な文章が連ねられているくせに、秘密クラブでのプレイを思わせる男女の睦み合いの写真が文章と同量入っているからだ。

巻頭には1970年にミシェル・フーコーからきた書簡が収められている。この本は「欲望と価値とシミュラークル」の三角形こそが、何世紀も前から我々を支配してきたものだと書かれる。フーコーはこの本を「息をきらせるほど」興奮して読み、「私たちの時代のもっとも偉大な本」だと絶賛する。

クロソウスキーこそは、バルテュスの兄であり、あの2001年に96歳で死んだ人物であり、バタイユの友人にして『わが隣人サド』『ディアーナの水浴』『ロベルトは今夜』などの作品を書いた。彼はこう書く。

「あきらかに不可能なひとつの退行を一瞬想像していただきたい。つまり、産業社会のある段階で、生産者たちが消費者たちに、支払いのかわりとして、感覚の対象物を要求することができたらどうかということを。その場合の対象物とは、生きた人間である」

女も男も、自らを生きた貨幣として支払う経済。彼はサドとフーリエの思想を軸に、社会システムの可能性を考察するのだ。フーリエは、ファランステールと彼が名付けた共同体においては、「あらゆる財の共有化を、情欲の生きた対象にまで拡大しようとしたもの」だった。クロソウスキーが自問自答風に書いている言葉が印象的だ。

 

「与えることによって、小さくなるのではなく、大きくなるということは、どのようにして可能なのか」

 

これはコンテンポラリーアートに与えられた、大きな問いではなかろうか?

 

次回第9回目は、コンテンポラリーアートにおける「反復するゼロ点」について語ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7続・アートの「価値」はどのようにして生まれれるか?その2

2つの世界の衝突がある。作品の「価値」を有り無しを判定する世界と、「価値」を生み出そうとする世界の、複雑な衝突だ。それは愛憎と、ビジネスの駆け引きと、理解と誤解が混じり合った衝突である。ある者はアートは無駄なモノだと排斥し、また別の者はアーティストたちがアイロニーたっぷりに作った「反価値」なオブジェさえ、非常識とも思える高値で購入する。

世界のアートコレクターたちの中心は、オーナー社長やカタールのような王国だ。彼らのアートにおける「価値」判断は、常識的な経済を超えて動く。

僕はよく、コンテンポラリーアートの金の卵である若手アーティストと「組みたい」と相談してくる企業や広告代理店の方にこう言う。とりわけ日本のようなサラリーマン社会では、オーナー中心に動くアートワールドの常識に比べて、アートは甘く見られがちだからだ。

 

コンテンポラリーアートという、今生まれてきたアートは太陽なんです。離れていると暖かいけれど、接近すると失明するし、核融合の熱で焼け死んでしまいますよ。まず、そのことをお分かりでしょうか?」と。

 

アートは社会の中で力を増している。言い方を変えれば「価値」あるものだと思われているのだ。

商品やブランドのヴァリューをアップする上で、デザイン以上に、アートの神通力が使えると思って接近してくる。それは決して悪いことではない。僕は古いアートの価値を保守しようという者ではなく、「来るべきアート」の開発者の一員でありたいと願っている者だ。アーティストが資本主義に消費されず、そして資本主義も新たなアートフォームの創出の共同者になるにはどのようなソリューションをしなければならないのか。そのように考え活動している。

アーティストのモデルは、デュシャン/ウォーホルで一度刷新されている。僕らがプレイしているアートワールドはフェイズ2の世界だからアートを「価値付け」する仕組みもゴッホセザンヌの時とは全然違っている。おまけにアートの「価値」の生態系の仕組みもまるでちがう。

だからこそここでは問題にしたいのは、1:「価値」をめぐる生態系がどのようにうみだされていくのか。そして、2:「価値」あるものをどうやって生み出せばよいか、ということにつきるだろう。

 

たった今は、アートの「価値」を決めているのは、ギャラリーシステム、オークションシステムだ(変動期をむかえようとしているが)。そして批評家、キュレイター、コレクターたちだ。前章でのべたように、「批評性」と「市場性」を両輪にアートの「価値」は流動的に動いている。しかしそれは、決して普通の意味でのロジックでは動いていないし、1つのセオリーが「価値」を判定できない。

最近よく、広告代理店の人々が、「アートビジネスの可能性」を説くが、ほとんどがトンチンカンだ。人の欲望は不可解で、「どうしても欲しい」というコレクターのパッションによって、事前予想の10倍もの値段でオークションで作品が競り落とされることがある。問題なのは、その値段が、オークションブックに書きこまれ、その後、その作家の値段の指標となっていくことだ。おまけにオークションにおける作品価格の上昇は、オークショニアの腕に委ねられていて、タクシーのメーターやホテルの客室価格のように機械的に上がっていくわけではなく、理由なきジャンプがある。確かにアート作品は、バンバン売れはしないが、1人の人間が理由はさておき、バスキアのペインティングに200億円以上支払うことの意味を、単純な経済やアート愛好で解こうとしてもダメだし、なぜバスキアなのかに踏み込めない。広告代理店的分析は、たいてい事後的にすぎず、まったく事態を甘くみている。

 

課題の1だけを解いても意味はない。

金の卵を産むニワトリがいかに生まれ、改良、進化をとげてきたかという2が問題だからだ。

これを解くのはますます複雑になっている。

 

1についての限定的に有効なモデルをあげよう。限定的というのは、もはや「絵画」がコンテンポラリーアートにおいて主役でないからだ。

そして2017年の現在においては、アートワールドもグローバル資本主義化してしまい、もはや1つの都市だけでアートの生態系を考えることが失効しつつあるかもしれないからだ。

 

とはいえ、1940年から1970年のニューヨークの生態系は、今振り返っても、実に魅力的な事例だ。

第二次世界大戦による歴史の切断。シュルレアリストたちは戦火を避けてアメリカに亡命。ヨーロッパの重要なコレクションもアメリカに買われる。現代美術後進国のアメリカがイニシアチブを握るチャンスが到来する。

抽象表現主義(ニューヨーク・スクールとも呼ばれる)やネオダダ、ポップアートまでの30年を短いと見るか長いと見るか。1900年代生まれのデ・クーニングやニューマン、ロスコと、ステラ、ジョーンズ、ラウシェンバーグやウォーホルらとは20歳以上の年齢差があったけれど、それらが多層なレイヤーと相互作用、化学反応、起こしながら次々に「作品」を作っていったのが、とても重要だ。そのつど位置を議論する批評は重要だが、反応と増殖の速さがそれを上回り、もっといえは、そうやって総がかりで生成したものは、メイド・イン・ニューヨークのアートともいうべきもの。全くヨーロッパと別の所への到達した(とわいえ当時のアート先進国ヨーロッパが認知して初めて国際的な「価値」として認められたわけだが)。

 

ニューヨーク・モデルは、重要なプレイヤーたちが不可欠であることを教える。

「彼ら」がなければ、2017年今日におけるデ・クーニングの3億ドルを越す最高値もないにちがいない(そしておそらく、ペインティングではなく、「メタペインティング」というべきアンディ・ウォーホルジャスパー・ジョーンズの作品が史上最高値になる日も遠くないだろう)。

当時の重要なプレイヤーとは、批評家のクレメンス・グリンバーグ、ギャリストのレオ・キャスティリ、キュレイターのヘンリー・ゲルツァラー、そしてフィリップ・ジョンソンらアートコレクターたち。おっと忘れてならないのはヨーロッパからきた教師たち、ハンス・ホフマンやブラック・マウンテン・カレッジ(1933開校--1957閉校)を指揮したジョゼフ・アルバースがいなければアーティストのレベルも数も充実しなかった。

「その頃は、アメリカの新しいアートを購入しようというコレクターは誰もいませんでした」とキャスティリは語る。キャスティリは、守銭奴的なドライなビジネスマンのように言われたりもするが、抽象表現主義を売り出したベティ・パーソンズシドニー・ジャニスら先行する画商たちに比べたら後発で、ある種の当時の「不可能性」の中でもがいていた1人だったろう。キャスティリがジョーンズの傑作「フラッグ」の脇にたち、壁にはロスコの大作を背にして自信に満ちた写真があるが、彼もまた「売れたことのないもの」を「売り物」に変えるノウハウの開発者だった。彼がいなければラリー・ガゴシアンも出現していないだろう(ちなみにガゴシアンがニューヨークに進出した時にコレクターのサーチを紹介したのはキャスティリ)。

前回あげたエミール・ディ・アントニオの映画『Painters Painting』でレオ・キャスティリはジョーンズの展覧会の話しをする。

「でも、現在のアメリカ美術の最大のコレクターはアメリカ人ではないのです。何人かのドイツ人、特にルートヴィッヒ博士ですね」

博士はジョーンズのフラッグを探していて、キャスティリのアパートの暖炉の上のフラッグを売れとせまる。博士は7万5000ドルという。ちなみに当時は1ドル365円で、日本の初任給は1万円の時代。キャスティリは、それは売り物ではないと断る。結局博士は、別のところで別のフラッグを10万ドルで買うのだが。キャスティリは映画に答えて、もうジャスパーのフラッグは10万ドルどころか20万ドル以上だとコメントする。まるで「売れなかった」ものに、ブレイクがやってきたのだ。

キャスティリがギャラリーを開いたのは1957年。前年の56年にポロックは自動車事故死。しかし、そこから事態はバブル的に展開する。58年ニューヨーク近代美術館MoMAは「新しいアメリカ絵画」展を組織し世界8カ国を巡回させ、そのよく年には「ニューヨークタイムス」がポロックのオークションの値上がり率が100%に達し優良株や先物取引を超えたと報道。悲劇は「価値」を増幅させる。

60年以降の重要なプレイヤーは、メトロポリタン美術館に入ったヘンリー・ゲルツァラーであり、彼は著書『20世紀のアメリカ絵画』を出版し、64年のベニスビエンナーレをしきるとともに、69年暮れに『ニューヨークの絵画と彫刻:1940--70』をキュレーションする。

ざっとこのようなプレイヤーのキャチアンドリリースの中でアーティストあるいは、作品の「価値」が「大化け」していった。

今は、生態環境の話ばかりしたけれど、本当は一方で、バウハウスの流れをくむアルバースがブラック・マウンテン・カレッジで教えたことや、亡命してきたピエト・モンドリアン。あるいはペギー・グッゲンハイムが自身が主宰していた画廊「今世紀の芸術」で行った、同じくオランダのデ・スティルのテオ・ファン・ドゥースブルフ。彼ら無くしては「ホット」な抽象表現主義も「クール」なハードエッジも生まれなかっただろう。これとグリンバーグの接続も再考したいところ。

アブストラクトの事は、別章でじっくり書くから乞うご期待。そこでやります。

 

この章のまとめとして最後に書いておきたいのだが、我々がニューヨーク・モデルから学ぶべきことは、「新しい価値」をいかに総がかりで生み出すかということだ。アーティストだけでなくプレイヤーがセットされないと、キュレーションやプロデューサーがいなければ「価値」は創価されない。

 

今は「前衛芸術運動」は冷戦時代の終焉とともに死語になってしまった。いまやもっと「創発」的な資本主義内のゲリラ戦である。

その現在の時点から過去を再編集して見るなら、シュルレアリスムにはブルトンというプロデューサーが、具体美術協会吉原治良というプロデューサーが、YBAはダミアン・ハーストとチャールズ・サーチがプロデューサーとして、おこした「価値」生成のための生態系だったとということだ。

アートプロデュースを学ぶというのは、いかに「コト」を引き起こし「価値」を生成できるかということになる。

もし野心的な広告代理店やIT企業があるなら、この生態系を総がかりでプロデュースする、ヴィジョンとストラテジーが必須だ。

しかし他方で、アートは宿命として、このようなシステムを食い破ったところから、呪われたモノとして生まれてくるのだという反論もあるだろう。

それはそれでアリだと思う。それもまた別の時に。

 

最後に余談。

先日オラファー・エリアソンの映画『視覚と知覚』を見た。この映画は2008年のMoMAでの彼の個展とタイミングをあわせてニューヨークで行われたビッグプロジェクト「ザ・ニューヨーク・シティウォーターフォールズ」をめぐるドキュメンタリーだ。

フライヤーの情報によれば、高さ36mから毎分13万リットルの水が流れ落ちる。制作費約17億円。経済効果75億円以上、140万人が目撃したとある。

 

このオラファーの作品の「価値」は、ペインティングをめぐるニューヨークのモデルとは、随分異なる価値生成であり、実に興味深いものだ。

必見だと思う。

 

次回第8回は、「続々編その3  お金で買えない価値とアートについて」を、アーティストサイドの問題として展開します。

 

 

 

 

 

 

 

6今、アートの「価値」はどのようにして生まれるのか? その1

2017年時点で、史上最高額で売買されたアート作品は、抽象表現主義のデ・クーニングが描いた『インターチェンジ』で3億ドル。レコード会社のデビッド・ゲフィン財団が個人取引でヘッジファンドのケネス・グリフィンに売ったものとされる。この時、グリフィンは、ゲフィンからジャクソン・ポロックの『ナンバー17A』も2億ドルで購入している。

我々は、ここで5億ドルもの金が「抽象表現主義」の作品に「投資」されている現実に直面させられる。

もちろん購入の意図は、アート愛好目的ではない。

投資する価値あるものとして、クーニングやポロックが、株のように「銘柄」となっているのだ。

2017年時点の、オークションを含む最高額売買作品のリストのトップ10を見ても、セザンヌピカソをおさえて抽象表現主義は4作品も入っている。ちなみに代表作家格のバーネット・ニューマンはトップ10には入ってはいないが、100億円は超える値段がオークションプライスだということも付け加えておきたい。

もちろんクーニングは1955年に自分の作品の「値段」が史上最高値をつけるなどと微塵も思わなかった。オランダから移民してきたクーニングは一文無しで、ペンキ屋の仕事から始めた。彼の特長であるブラッシュストロークによるアブストラクト・レイヤーの見事さは、ペンキ屋の経験からくる。アシル・ゴーキーらと知り合いザ・クラブのアートコミュニティという仲間はいたが、アル中、失恋、そして作品の酷評などに見舞われていた。初個展も40歳を越えてからで(ちなみにニューマンも45歳で初個展)スター扱いなどされてはいない(1997年に93歳で死んだ時はアルツハイマーだったといわれる)。ポロックやニューマンも、今生きていて、この状態をみたらなんというだろう。

当然の結果?それとも錯誤?

 

アートワールドも、資本主義のゲームの激しい流動性にさらされている。クーニングの3億ドルを実態から遊離した価値だよと言いすてることは、あまりに安直だ。美術教師はよく「いい作品を作りつづけていれば、いつか報われるよ」と、当たり前すぎて、なぐさめにもならないことをいまだに言う。そのような、変化し続けるアートの価値のルールについていけない教師は、未来のアーティストにとって害でしかない。

 

しかし、アートの「価値づけ」は、「あまりにも」と強調したいほどの、不確実性に満ちている。

 

ゴンブリッジの美術史のルールブックや、グリンバーグの批評集、いや最新の部類に属するニコラ・ブリオーの『関係性の美学』やそれに批判的立場から書かれたクレア・ビショップの『人工地獄』を読んだら、成功の方程式が会得できるのか、というと全くそうではない。

しかし一方で、相変わらず「作品」は止むことなく生まれてくるし、それを「値付け」するギャラリーシステムと、オークションシステムの2つがマーケットのニーズに従って動いている。アトリエの中で黙々とつくられた作品を前に、ギャラリーシステムの中で「たたきあげられた」「目利き」のディーラーたちが、あなたの作品の「値段」「相場」を告げる。テーマ、スタイル、キャリア、どのような人がどんな評価を与えてきたのか。サイズ、ユニークピースなのかエディションなのか。それらが総合的に判断され、あなたの作品の「価値」がきまる。あなたが「いや、自分の作品の価値はもっと高い」と強弁しても、マーケットがそれを受け入れなければ、あなたの作品は値段がないまま。流通しない。買う人との出会いがあって、初めて「価値」となる。

 

クーニング作品の驚異的な「値段」は人々に、クーニングというアーティストの「偉大さ」をうえつける。逆に、高く評価されているから価格が高いのだ、というイリュージョンも捏造する。誰もクーニングの作品に内在している価値生成の仕組みについては誰もまともに議論せず、偉大なアーティストと作品の物語だけが、ひとり歩きし、ブランドヴァリューが形成されてゆく。クーニングの最高値は、クーニングの作品を扱っているギャラリーに棚ぼた式に利益を与える。作品の値段を上げる「口実」ができるからだ。

このようにギャラリーシステムとオークションシステムは、相反する立場にみえて、ここでは重要な共犯者となる。

現在、日本の実験芸術集団だった「具体美術協会」の作家たちの作品が、海外のオークションで極めて高くなると同時に、アートフェアで売買される値段も上昇しているという。マーケットは、いつも新たな「商品開発」を貪欲にすすめる。当時、具体のメインではなかった周辺の泡沫アーティストさえ、今頃になって「巨匠」として捏造化して売ろうとするのだから笑い事ではすまない。

また、ダミアン・ハーストのようにギャラリーシステムやオークションシステムを「ハック」することで逆に自分の「価値」を増幅させようとする戦略的な確信犯もいる(オークションシステムとの共犯といったほうが正しいが)。

リーマンショック直後の2008年秋に、競売大手サザビーズはロンドンでハーストの作品223点のオークションを実施した。落札総額は、1億1100万ポンド(約211億円)を記録する。世界恐慌の最中だっただけに、この巨額な落札は事件としてニュースとなりダミアン・ハーストの株を上げた。おまけにこのオークションは、ギャラリーを通さずにアーティストがダイレクトに出品する、「オキテ破り」の手法だった。これはある意味では、ギャラリーシステムなんていらない、という崩壊の始点だったと後世いわれるのかもしれないし、一方では、リーマンショックによるアートマーケット瓦解を出来レースで食い止めるための茶番劇であったことが、後世暴露されるのかもしれない。

ともあれリーマンショックによって売り上げが急下落したアートマーケットも、その後、よりタフに回復したかに見える。しかし、さまざまな閉鎖系の市場がインターネットによる創発的な新たな仕組みにより、瓦解してゆく趨勢の中で、そのアートワールド帝国の未来が盤石であるはずはない。

 

先取りして言うなら、アートの「価値」を規定してきた2つの大きな要因である「批評性」と「マーケット」が大きな変動にさらされているということだ。いままでの章でも述べたが、ルールはどんどん更新される。今からくる大変化の動因は、改めていうまでもなくインターネットがこの20年に渡って、構築しつづけている、その「生態系」によるものだ。1998年にAranda とVidokle の2人組が始めたインターネット上のコンテンポラリーアートについてのジャーナル、インフォメーション、クリティク、アーカイブのプラットホーム「e-flux 」は、極めて先駆的な活動だ。批評家より、アートライターやアートブロガー。理論家より、戦略的なキュレーターのほうがコンテンポラリーアートにおける「価値」決めの重要なプレイヤーとなることを明確にしたのだから。資料的にも早晩、分厚い展覧会図録や印刷物のCV(アーティストの履歴書Curriculum Vitae)は精度をあげた進化したWikipediaにとってかわられるだろうし。

いつ、誰がトリガーを引くのだろう?

また、アートセールスにおけるonlineサイトの試みも、トライアンドエラーが続いているが、やがてリアルマーケットを凌ぐ新たなシステムが誕生するにちがいない。その時に、そのブレイクスルーを実現するのは、アート業界外からにちがいない。

 

話が、だいぶんと先に行きすぎてしまった。

 

まどろっこしいし、うっとおしいかもしれないが、クーニングを始めとする抽象表現主義やウォーホルなどが、なぜ「価値」あるものになったのが、そのことを検証しておきたいのだ。

デ・クーニングなんて、50年以上前の話だろって?

でも「今」だってあっと言う間に50年後になる。

クレメンス・グリンバーグの批評は、クーニングの作品が3億ドルの値段になることに、内実的に現在でも寄与しているのだろうか。

答えるのは厄介だ。

沢山のプレイヤーが関わってクーニングの「価値」を作る生態系が生まれた。確かに、その「価値」生成のモデルは「古く」て、「賞味期限の切れ」かもしれないが、先行モデルをチェックすることは無意味ではないだろう。

 

第2次世界大戦まで、アート後進国だったアメリカがどうしてイニシアチブを握ることができたのか。「価値」の生態系に分け入ってみよう。

まず不可欠なケース・スタディ。

今から50年近く前、1969年メトロポリタン美術館が、開館100周年で開催したのが、『ニューヨークの絵画と彫刻:1940--70』。キュレーターは、新進気鋭のヘンリー・ゲルツァラー。彼はメトの35室を使って43人のアーティストを選び408点の作品を展示した。ほぼ彼の独断による「選択」。ゴーキー、ポロック、クーニング、ニューマン、ロスコ、ルイス、ノーランド、ステラたち。ジョーンズやラウシェンバーグ。もちろんウォーホルも。

 

 この展覧会がどのようなものであったかを正確におしえてくれる資料が幾つもある。ひとつは、ドキュメンタリー映画作家エミール・ディ・アントニオによる映画『Painters Painting』であり、それを書籍化した『現代美術は語る』である。映画の方は、今やYouTubeでクーニングやニューマンがディのインタビューに答えているのを見ることが出来る(なんと便利)。そして実に優秀な記録者・ライターであるカルヴィン・トムキンスによる『ザ・シーン』。また、『アート・ディーラー―現代美術を動かす人々 』を併読すれば、いかに「売れなかった」アメリカ現代アートをレオ・キャスティリたち辣腕のアートディーラーたちがどのようにセールスしていったかがよくわかるのだ(もう一冊が『グリンバーグ批評選集』)。

 

僕はアブストラクトペインティングが好きだ。子どもの頃から好きで、高校生まで描いて、展覧会もしたことがある。だから抽象表現主義の絵画が、内在的にどのような「価値」生成をおこなったか共感があるし、その「難解」の代表のような作品が市場最高値になるパラドックスについてじっくり考えたいのだ。

次回「その2」はそこに焦点をあてたい。

今回の最後を、『Painters Painting』の中のバーネット・ニューマンの言葉で締めたい。

 

「問題は、われわれおのおの---デ・クーニング、ポロック、そして私---が解明しようとした倫理的な問題とは、「美化すべき何が、いったいあるというのか?」というものでした。だから、きっかけを掴む唯一の方法はまず、美化されうる外側の世界という観念のすべてを捨てること、そして、われわれ自身にとって重要な何かを表現できる可能性---それは人々がミディアムと呼ぶものですが---を見つけることができるようなポジションへと自分自身を置くことだったのです。それがゼロからの始まりという言葉で私が言わんとしたことです。われわれには何の頼るべき土台もなかったし、世界はまったくダメになりつつありました。いや、それ以下でした。酷いものでした」

 

ニューマンは、ゼロ以下からペインティングを始めたと告白する。

それが今や100億円で売買される。

なんというパラドックス!!

 

 

 

 

5時空の混乱の中で、コンテンポラリーアートは成長する

 

「もう音楽っていうもの自体が、臨界値、限界に達したんだよね」そう細野さん(細野晴臣)は言った。

唐突かもしれないが、モダンという単線的で、つねに「新しいもの」を追い求めようという衝動がどこで変わったのかな、と考えるときに、この発言がいつも思い出されるのだ。

丁度YMOが1983年に「散開」し、細野さんは1984年に、nonstandardという新しいレーベルを始めていた。僕は縁あってレーベルのクリエィティブ・ディレクションをやらせてもらって、レーベル立ち上げのスペシャル・ブックつきアルバム「globuleグロビュール』(ADは奥村靭正、正式名称は『Making of NON-STANDARD MUSIC/Making of MONAD MUSIC』)や、細野さんが始めたFOEというユニットのジャケットなどを担当した。アートディレクションは、初期YMOやサザンをやっていた原耕一さんにたのみ、ジャケットの絵は、画家の大竹伸朗くんに頼んだ。大竹くんは丁度、チリのサンチアゴの大洪水をテーマにした大作油絵を描いていて、そのカタストロフ感、カオスがぴったりだと思ったのだ。

音楽を含むアートについての、「臨界値」「限界」というコトバを、はっきりと聞いたのは細野さんからが初めてだった。細野さんの音楽を僕は中学生の時に聴いて以来、ある種のグルになった。暗黒な宇宙の中で、行く手を指し示す光を放つ灯台のような存在だ。彼は音楽家であったが、類い稀なヴィジョナリーであり、その音楽、発想、行動は予見にみちたものだった。

YMOを散開し、新しいレーベルを始めた細野さんに対して周囲は、当然なように、またYMOのような「産業的なヒット」を過大に期待していたのだと思う。しかし、細野さんの側にいて、彼が全てが限界に達していると痛感しているのを僕はひしひし感じていた。彼がスランプとかではなく、資本主義の渦の中での、産業音楽の疲弊。しかし細野さんは、疲れのエネルギーの中で、何かを生み出そうとしていた。しかしそれはそれで面白く、なぜなら細野さんはネイティヴアメリカン知恵を我がものとしていたからである。「クワィアット」「トランキュリティ」「ライトタイム、ライトプレイス」。次々に予見にみちたアイデアが散り撒かれていた。

重要なのは、細野さんの直感は同時代的なものだということ。ブライアン・イーノが始めたアンビエント・ミュージックはマイケル・ナイマンが発展させていたが、そのミニマルでエンドレスな音楽ともクロスしていた(ちなみに僕が雑誌「エスクァイア」誌で初めて仕事をしたのは、細野さんとイーノの対談だった)。

「飽和(ゼロサム)」そして「反復」「リミックス」、、、それは音楽だけでなくアートにも影をおとしていて「シミュレーショニズム」」「アプロプリエーション(盗用)」などの手法が生み出されていた。

このような文化的な背景を批評家たちは、「記号消費」時代、「ポストモダン」社会とよんだが、実感としても80年代のどこかでそこに達したのだと思う。クロード・レヴィ=ストロース構造主義やジル・ドゥールーズやロラン・バルト現代思想の受容は少しタイムラグがあったが80年代の日本でも、「ニューアカデミズム」として旋風を引き起こし、浅田彰中沢新一らが見事に「今・ここ」を分析してみせた。

ちなみに僕が工作舎をやめてフリーになったのは1983年で、そのあと最初に編集者として手掛けたのが中沢新一の『チベットモーツァルト』。中沢さんは、工作舎の雑誌『遊』で「仏教する」という特集号を担当したときに『虹の階梯』という本で発見して、親しくなっていたからだ。工作舎グラフィックデザインは基本的に杉浦康平の図像のコスモロジーで出来上がっていて、そこから卒業したいということもあり、YMOのアートディレクターをやっていた奥村靫正さんにブックデザインをたのんだ。最先端思想とテクノとの掛け算。中沢×奥村の化学反応は魔力を生み、『チベットモーツァルト』はあれよあれよというまにベストセラー。浅田彰の『構造と力』と並ぶバイブルになった。

 

話は脱線してしまったが、時空の話にもどそう。

 

その中沢さんと細野さんに日本の聖地を巡礼の旅をしながら 「音楽と現代思想」を語りあうという企画を文庫本サイズの異色の文芸誌『小説王』で連載してもらった(『小説王』は、角川書店から出版され、編集のアニキである森永博志と僕の2人でつくっていた)。その旅の連載が単行本化されたのが『観光』だった(今も、ちくま文庫)。その時に実感していたことは、何かを極めるとか、新しいものを創造するということではなくて、「横断」だった。そして2人の旅の途中でよく語られたのは「フラクタル」だった。まだその当時は、だれもそんな話などしていない。山や海岸線のような世界の複雑な「襞(ひだ)」に分け入って、思考すること。時代は飽和して出口が見えなくなり、人々はゲームや、暫くするとネット世界に逃避するようになる。そんな時代変化のはしりだったのだと思う(ちなみに荒木経惟の写真のマンネリズムや、篠山紀信のシノラマの誕生も80年代の「出口ナシ」を象徴していると思う)。

 

この章で長々と、直接的にはコンテンポラリーアートと無関係にみえることを書いてきたのは、60年代末から70年代頭の騒乱以降、80年代のどこかで「近代」「モダン」というものが確実に失効して、「ポストモダニズムの世に突入したということの実感を伝えたかったからだ。そして80年代半ばからは、表層が爆発する「バブル」期がやってきて、全く時系列は分解しフラットに。大きな「差異」は喪失し「反復」に。イデオロギーや近代批評も失効しゲームに。オリジナルという幻想はとどめを刺されて死にサンプリングやリミックスを駆使する「DJ」の時代にシフトした。

機械的に均質な時間が流れているというクロニック(クロノス)な歴史観の終わり。歴史は国家や民族の産物であるというヘーゲル/マルクス的な「大文字の歴史」の終わり。古い「時間」は、「今・ここ」という瞬間、刹那に分解され、誰もが迷子になってしまう。しかし、それを一方で回収してくれるのが、永劫回帰的な時間であり、円環的な「暦」の時間なのだった。時間と場所が「同時に」誕生するという考えなしには、「パフォーマンス」や「ハプニング」というアートフォームの発生もなかったろう。

 

で、またまたいきなりかもしれないが、ここで思想家ヴァルター・ベンヤミンのことを書いておく必要があると思う。

60年代末から70年代初頭の騒乱以降、極めてよく読まれ、それ影響をもった本が彼の様々な著作だったからだ。ベンヤミン自身は、1940年にナチスから逃亡する最中に自殺してしまった。

彼の唯物論ユダヤ教から来たメシアニズムの色が濃く、終末や廃墟と救済が通低音として流れながら、その上にたって『複製技術時代の芸術作品』(アウラ論)『写真小史』(アッジェ論)『パサージュ論』(ボードレール論、シュルレアリスム論ふくむ)などを著した。彼の論は、どれもがアカデミックなものというより、フラグメンタル断片的であり、アフォリズム的であり、予見にみちていたことから、この「危機の時代」に蘇えり、「基本図書」となった。

彼の絶筆となった18のフラグメントからなる『歴史哲学テーゼ』は、まさに歴史観批判した新しい時間論だった。

彼は学者というより横断的な知識人、ジャーナリスティックなクリティックの先駆的モデルであったし、おまけにアートや食の快楽にも精通していた。彼がパウル・クレーの「天使」の絵を買い、いつも眺めながら暮らしていたのは有名なエピソードである。

よく知られている『歴史哲学テーゼ』の中の、ブリリアントなフレーズを引用しておきたい。

 

「新しい天使という題のクレーの絵がある。そこには一人の天使の姿 が描かれてあり、彼は自分が見つめているなにかから、今必死になっ て身を遠ざけようとしているかに見える。眼は大きく見開かれ、口は 開かれ、翼は広げられている.歴史の天使というのはこんな姿をして いるに違いない。天使は顔を過去に向けている。ぼくらならその目の 前に一連の出来事の連鎖が見えてくるところに、ただ彼は破局だけを 見る。破局は休むことなく廃墟の上に廃墟を積み上げて、それを彼の 足元に投げつける。おそらく天使はそこに留まって死者たちを蘇らせ、破壊されたものを寄せ集めて作り直したいと願うのだろうが、楽園より 吹き付ける風があまりに強いので、その風が翼にはらまれて、もう翼 をたたむことができない。その強風は天使を、それが背を向けている はずの未来へとどうしようもなく運んでいってしまう。一方、彼の眼 前には廃墟の山がうず高く積みあがり、天にも届こうかというほどで ある。ぼくらが進歩と呼ぶのは、まさにこの強風のことだ」 

 

資本主義の強風が様々なジャンクを吹き上げている。それはもう未開だったはずの地を覆い、深海にプラスティックを堆積させ、宇宙空間にはバラバラに破壊された宇宙船の破片が高速で飛び回っている。

それは、アートワールドも同じだ。

錯乱状態のなかでコンテンポラリーアートは、生成され成長する。そしてアートの本質(いやそんなものはとっくにない)とはまったく無関係に、イズムとは無関係に「トレンド」が発生するようになる。「流行」という名の作品であり、シーンだ。典型的な例が80年代のジュリアン・シュナーベルやバスキアらの「新表現主義ニューペインティング」だった(80年代にジェフ・クーンズもデビュー)。

 

彼らの作品は別に「ニュー」ではない、 不可能性を突破した作品でもない。第1章で僕が指摘した「ゾンビ・アート」に他ならない。彼らは別段、金を産むために作品をつくっていたわけではないかもしれないが、それらはバブルなアートマーケットに応じた「ニュートレンド」の「新商品」だった。

しかし、このような時空はユートピックでもある。もはやアートには、大きな「差異」を産む「才能」はいらない。如才ないコピーライターやデザイナーがアーティストを偽装できる。もう、アートに古いも新しいものない。単線的な時間は解体してスパイラルな時間になる。

そして流行は直ぐに回帰する。60年代末のリミックス、70年代のリミックス、、、。そうやって回帰しながら「前」にすすんでいくのだ。サヴァイヴしてゆくのだ。

このような時空についての戦略的な判断をもつことは、コンテンポラリーアートを産むうえで、避けて通れないことだと思う。

 

さて次章ではいよいよ、コンテンポラリーアートにおける「価値」がどのように生成するのか、ということについて考えたい。

   

 

 

 

 

4「メタ」と「マトリックス」の思考をめぐって

僕はアートの分野において、「終焉」などというネガティヴな考えを持ち合わせていない。虚無的な楽天主義者を自認している。「網膜的」美術に切断を食らわしたデュシャンも、崇拝しているわけでなく、カルヴィン・トムキンスが明らかにした快楽主義者としてのデュシャンを愛している(ちなみに僕が大学でデュシャンについての乱暴な卒論を書いた時は、アウトゥーロ・シュワルツ流の「錬金術的なデュシャン解釈」が盛んだった。トムキンスの本は残念にもまだなかった)。

西洋の批評家が「絵画は終わった」といっても、世界のどこからは奇跡的に「才能」が現れてくるだろう。昔、進化生物学者の泰斗スティーブン・J・グールドにインタビューした時に、「キリストもブッダも、ピラミッドもマヤも偉大な思想・文明は、紀元前につくられている。もはや人類はピークを超え衰退に向かっている種ではないのですか? くだりのエレベーターの中で天を見上げているような気分なのですが」と恐いもの知らずに質問したことがある。『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 』においてカンブリア期の生物の爆発的な発生と淘汰を述べた戦闘的な「断続平行論」者は、こまったような顔をして、「私はそうは思わない。楽天主義なんだよ」とだけコメントした。

また、思い出すのはインドネシアジョクジャカルタの街の外れに、NPOの取材に行ったときのことだ。たまたま、知り合ったストリートチルドレンに靴磨きの少年がいた。かれは子供のにタバコをふかし、客がいないときは地べたに紙を敷いて絵を描いていた。たばこの箱や、チラシの裏や、なんでもかんでも。描けるものならなんでもよいのだ。殴り描きされた人の顔は、アントナン・アルトーベン・シャーンを思わせ、この子供が恐るべき才能を持っていることが見て取れた。

世界は我々が考えるより大きい。AIよ、驕るなかれだ。タバコ代をくれというので、金をやると絵と交換してくれた。数年後その街は、メラピ火山が大噴火し壊滅した。あの子供のような才能は、たしかに世界のどこかで日々誕生しているのだというロマンティックな考えが僕は好きだ。最悪は最善を生む。それが楽天主義ということだ。

 

僕は編集の仕事を拡張しながら、仕事をしてきたがそのコアにあるのは「才能好き」「才能フェチ」である。才能とは、その人が持つ可能性のことだ。それに気づき、形にすることに並走すること。才能は本人も私有できるものではない。時には、本人さえ気づかない力が世界を変えて行く。

僕は20年以上にわたり展覧会に関わり、16年間、美術大学で教鞭をとっている。新人発掘のためのアワードもキリンアートアワードを皮切りに、全国の美大から優秀な人材を発掘するaatmアートアワードトーキョー丸の内(今年で11年目)など、現在も沢山関わっている。だからエスタブリッシュした作家を批評するよりも、アカデミックな理屈を振り回すよりも、コーチィングが好きなのだ。ついでながら明言しておくと「評論家」などという肩書きで仕事をしたことは一度もない。言うだけ言って去って、何も現状を変えようとしない人が多くて、好きじゃない。曖昧だが、編集者という肩書きがいい。批評力がなかったら編集はできないわけだしね(インタビュー、取材、ライティングなども)。

2002年に京都造形芸大によばれて、古い「芸術学」の学科を改組してくれと依頼され、日本で初めての「アートプロデュース学科」にした時も、実践の伴わない「芸術学」など意味がないと考えたからだ。アーティストという才能と交わり、並走できる人材こそが求められている。学科長に就任したばかりの時に、旧学科で教鞭をとっていた美術館の学芸員あがりの老教授が僕に「学生に批評力をみにつけさせるんですか。美術史は歴史学で事実だけでよい。批評力はいらない」といったので、引退していただいた。まさしく旧弊である。

筋金入りのアカデミズムは、もちろんリスペクトしている。しかし、アーティストになるために、教師は何を教えられるのだろう。いや、アートなど教えられるのか?

ASPアートプロデュース学科」として再編するときにいくつかの世界の大学や組織を見学にまわった。1つはイタリアのベネトンがやっているスクールでありコミュニケーション・リサーチ・センターのファブリカFabricaであり、もう1つは、トマス・ルフが写真学科長をやっていた頃の、デュセルドルフのクンストアカデミーだ。新しいアーティストを生み出すためには、新しいメソッド、環境が必要だと思ったからだ。ファブリカは大学ではないが、スタジオ化した教育環境があり、また教育の成果を出版物や自社広告に反映させるアウトプットの回路をまなんだ。また、ルフのクンストアカデミーからは展示型授業やポートフォリオの重視を学んだ。

ASPの誕生に合わせて、京都の河原町、つまり街中に、自前のギャラリーであるARTZONEをたちあげた。最近でこそ様々な大学が学外にギャラリーを作るようになったが、当時はまだなかった。おまけに僕が学科長時代のARTZONEのロゴは、当時まだ京造の教授だったアーティストの束芋につくってもらった。彼女がデザインしたロゴなど後にも先にもこれだけだろう。ギャラリーではなくARTZONEという名前にしたのは、様々なことに学生が挑戦すべきと考えたからだ。作品展はもとより、クラブイベントをしてもよいわけだし、アートグッズを開発して期間限定のショップにしてもよい。だから一番最初の展覧会はたしかアフガニスタンの絨毯職人を支援するNPOであるMOGU VILLAGEと共同でアーティストたちに原画をつくってもらいコラボレーションするというものだった(その頃僕は、音楽家の坂本龍一、デザイナーの中島英樹、クリエイティブ・ディレクターである空里香とともにcodeというユニットを作っていて、坂本=中島共作の絨毯も出展した)。この絨毯を作るにあたりNPOのオーガナイズでgraf服部滋樹と一緒にカブールの絨毯攻防も訪問した。また別の展示では、五木田智央に数日間ギャラリーに滞在してもらい(本当にベッドも運び込んで!)制作ぜんぶを見せるというLiving room project。また壁から床から全部を使って行ったグラフィティー展など、普通のギャラリーでは絶対に出来ないことばかりのプログラムを行った。まさに初期のARTZONEのコンセプトは、ギャラリーを超えたスタジオ、ファクトリーの進化形だった。

 

空間をあたりまえのように使うこと、授業をあたりまえのように従来のやり方でやること。それでは全くだめなのだ。

 

コンテンポラリーアートについて調査研究するだけでなく、実践や展覧会をプロデュースするために「芸術編集センター」をたちあげ、シンポジウムのプログラム。学内選抜展をこえたアーティストたちの売り出しのための学外展「混沌から躍り出る星たち」を運営。アートバーゼルなど海外のアートフェアの調査。スーザン・ソンタグを追悼するシンポジウムやグラフィック・デザイナー石岡瑛子を招いてのポール・シュレイダー監督『MISHIMA』の特別上映会を開催。しかし、なんと言っても「芸術編集センター」の成果は、東京にギャラリーmagical artroomを開設したことだ。2006年1月六本木にオープンし、2008年7月には恵比寿に誕生したアートコンプレックスビルNADiff A/P/A/R/T(ナディッフ・アパート)の3階に移転し2009年末まで活動。秋山幸、大庭大介、大田黒衣美、ヒョンギョンなどの若手をいかにグローバルなアート文脈で売り出せるのか。従来のコマーシャルギャラリーをこえた活動に挑戦し、設立したばかりなのにもかかわらず、アートバーゼルのサテライトフェアLISTEやFRIEZEアートフェアにも出展し、周囲を驚かせた。

 

まだ書いておきたいことはあるが、ここではこれぐらいにして本論にもどろう。

 

僕がコンテンポラリーアートシーンを体験的に学んでわかったのは、常にその「内」(それも真ん中)にいながら、同時に「外」にいるような「思考法」が取れなければならないということだった。

 

それを端的なにいえば「メタ思考」といえるだろう。「メタ」とは辞書的な意味でいえば「超」ということだ。メタ(meta-)を、検索してみると「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「-の後ろの」等の意味の接頭語と出てくる。ありていにいえば、ロジックを、より高次の視点からロジカルに捉えるものがメタロジーである。もっとわかりやすく言えば、「アートについてのアート」「写真の写真」「デザインをデザインすること」「編集の編集」と言ってよい。これが、まずは「アートの思考法」の基本だと思う。「絵画の絵画」というメタ思考のツボがわからなければ、絵画をやる意味はない。デュシャンの亡霊に取り憑かれて、おしまいだろう。

 

それから僕が、長年の授業の工夫のなかで編み出した「マトリックス思考法」についても述べておきたい。「頭脳プレイ」「コンセプチャル・アート」といえば、まず「アイデア」ありき、「コンテクスト文脈」ありきと皆んな誤解するが、アートはリニアな論理展開だけでは、創れない。論理をふまえつつも、そこを超えて「メタ」なポジションに立たないと、特別な力を獲得できないのだ。リニアな展開をこえる「化学反応」「ワープ」「ミューテーション」が引き起こせるかがキモなのだ。

僕は授業の時に、2種類のマトリックス表を使って、授業に臨んでいる。「マトリックス」とは、母型や基盤を意味する言葉だが、そこから何かが生み出る子宮、変換するための表である。

僕が授業で使いながら年々修正していったマトリックスを僕はこんなふうに使っていた。

第1のマトリックスは、わりかしリニアな「表」だ。

縦に「A思考」「Bつくる」「C見る」「D見せる/買う」と入って、横に様々な項目が並んでいる。授業では、例えばAの3について授業の前半に喋ったとしたら、後半では、話の流れでCやDや、その中からその場で判断してアドリブで話をする。論理は全くワープする。不連続の連続。

しかし、このようにすることで、授業は予定調和的なものではなくなり、教える方も学ぶ方も実に刺激的になるのである。

マトリックスの表は2次元に見えるが、やっていて思うのば、実に多次元的であるということ、そして決して「思いつき」「場当たり」でないということだ。

そしてこのような発想を生徒と共有したいと思い考え出したのが第2のマトリックスだ。

これは、アーティストたちが自分の発想、制作を展開する時のチェック表にもできるだろう。

再度言うが、コンテンポラリーアートには「マグレ」などない。そのために、歴史をルールブックにするだけではダメだ。自発的に、アタマを動かすためのマトリックスが有効になると思う。

 

この章の最後に言っておきたいが、広告ではプレゼンでパワーポイントをよく使うが、アーティストはやめたほうがいい。なぜなら、全くやるべきことがちがうからだ。

なにもないところから、突飛に思えるところから、まるで異質なものを生成する。

お手本とすべきは、ヨゼフ・ボイスの「黒板」、そしてルドルフ・シュタイナーの「黒板」。

同世代だとtomatoのジョン・ワーウィッカーかな。

これこそが、マトリックスの先輩だと思う。

僕も、それをヒントにその場で自発する力を、日々きたえているのだ。

 

さて、次は歴史についての新しい哲学。ベンヤミンから始めます。

 

 マトリックス1

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 マトリックス2

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